BUDDY-0-

TERRA

文字の大きさ
56 / 75
不完全な世界の中で

2

しおりを挟む
午後の静寂が、湿った空気に溶けていた。
六月の雨が止んだ街は、ぬかるんだ舗道にまだその痕跡を残している。
灰色の空に日は滲み、湿気が静かに建物の隙間へと入り込む。

古びた工務店の奥で、黒川はシャツの袖をまくりながら棚の整理をしていた。
木の軋む音とともに、ドアベルが鳴る。
入口に影が差す。

振り返らずともわかる足音。
いつも通りの週末の午後だった。

「こんにちは。」
柔らかく響く声。
よく通るが、決して押しつけがましくはない。

顔を上げると、変わらぬ様子の男がカウンターの前に立っている。
仕立ての良いスーツ、磨かれた靴、端正な顔立ち。
肩から下げた革鞄は、その身の輪郭を際立たせるように、静かだった。

「いらっしゃいませ。」
黒川がそう言うと、白崎は微笑を浮かべた。

迷いなく棚を巡る。
ロープ、ダクトテープ、強力接着剤、ポリ袋、ペンチ、溶剤……。
どれも工務店にとっては珍しくないが、一般の買い物としては不自然なものばかり。

それでも彼の動きには一切の躊躇がない。
すべてが決まりきった流れのように、淡々とカウンターへ並べられた。

精算を終えると、白崎は礼を述べ、ドアのベルを再び鳴らして去っていく。

黒川は、その背中をしばらく目で追った。
いつもの流れ。
変わらない会話。
けれど、確かに引っかかっている。

目的の見えない買い物。
それを何度も繰り返す意味は。

その日の午後。
黒川は、ついに彼の後を追うことを決めた。
後悔するなら、それからだ。

白いセダンは町の外れを抜け、旧道へと入る。
黒川は慎重に距離を保ちながら、その車を追った。
鬱蒼とした木々が視界を遮り、湿った空気が重く沈む中、車はやがて地図にも載っていない脇道へと滑り込んでいく。

十分ほど走った先で、セダンが左に折れる。
黒川も数秒置いて角を曲がった。
そして見えたのは、沼のほとりにひっそりと佇む、一軒のロッジ。

屋根は苔に覆われ、入り口には錆びた「立入禁止」の看板とロープが掛かっている。

白崎は何のためらいもなく車を停め、静かにロッジの中へと消えていった。

黒川は息を詰めながらその様子を見つめる。
手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。

あれは人の住む場所ではない。
廃屋。
だが、彼は何度もそこへ通っている。

買い込んでいた工具や資材は、いったい何に使っている?
考えるほどに、背筋が冷えていく。
黒川は急いでハンドルを切り、その場を離れた。

工務店に戻ったのは、日が傾いた頃だった。
事務所の椅子に座り込み、どっと疲れが押し寄せる。
「……なにやってんだろ、俺。」

苦笑しながら、ポットのお湯をカップに注ぎ、インスタントのコーヒーをすする。
けれど、胸の奥に残ったノイズだけは、なぜか消えてくれなかった。

その夜。
眠れずにつけたラジオから、奇妙な番組が流れ始めた。

「深夜二時、電波が歪む時間。誰かが囁いている。聞くべきじゃない話。語るべきじゃない事件。でも、知りたいんだろ?」

声は低く、艶を帯びていた。
その夜の特集は、「消えた町」。

「二〇〇六年十一月、ワシントン州の小さな町で、百十九人の住民が一夜にして消えた。
ドアには鍵もかかっておらず、夕食の皿はテーブルに置かれたまま。
誰一人、戻ってこなかった。」

「警察は避難だと説明した。だが誰が?何のために?」
「カメラには何も映っていない。明かりは点いたままだ。一斉に姿を消す理由が他にあるとすれば?」
「その夜、町の空気は歪んでいた。言葉ではなく、気配だけがそこにあったんだ。」

黒川は、再生を止められずにいた。
フィクションか事実か、曖昧な語り。
だが、あのロッジと、あの男の姿が頭をよぎる。
何かが始まっている。
自分は、もうその境界に足を踏み入れてしまった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

オメガな王子は孕みたい。

紫藤なゆ
BL
産む性オメガであるクリス王子は王家の一員として期待されず、離宮で明るく愉快に暮らしている。 ほとんど同居の獣人ヴィーは護衛と言いつついい仲で、今日も寝起きから一緒である。 王子らしからぬ彼の仕事は町の案内。今回も満足して帰ってもらえるよう全力を尽くすクリス王子だが、急なヒートを妻帯者のアルファに気づかれてしまった。まあそれはそれでしょうがないので抑制剤を飲み、ヴィーには気づかれないよう仕事を続けるクリス王子である。

オメガ修道院〜破戒の繁殖城〜

トマトふぁ之助
BL
 某国の最北端に位置する陸の孤島、エゼキエラ修道院。  そこは迫害を受けやすいオメガ性を持つ修道士を保護するための施設であった。修道士たちは互いに助け合いながら厳しい冬越えを行っていたが、ある夜の訪問者によってその平穏な生活は終焉を迎える。  聖なる家で嬲られる哀れな修道士たち。アルファ性の兵士のみで構成された王家の私設部隊が逃げ場のない極寒の城を蹂躙し尽くしていく。その裏に棲まうものの正体とは。

変異型Ωは鉄壁の貞操

田中 乃那加
BL
 変異型――それは初めての性行為相手によってバースが決まってしまう突然変異種のこと。  男子大学生の金城 奏汰(かなしろ かなた)は変異型。  もしαに抱かれたら【Ω】に、βやΩを抱けば【β】に定着する。  奏汰はαが大嫌い、そして絶対にΩにはなりたくない。夢はもちろん、βの可愛いカノジョをつくり幸せな家庭を築くこと。  だから護身術を身につけ、さらに防犯グッズを持ち歩いていた。  ある日の歓楽街にて、β女性にからんでいたタチの悪い酔っ払いを次から次へとやっつける。  それを見た高校生、名張 龍也(なばり たつや)に一目惚れされることに。    当然突っぱねる奏汰と引かない龍也。  抱かれたくない男は貞操を守りきり、βのカノジョが出来るのか!?                

八月は僕のつがい

やなぎ怜
BL
冬生まれの雪宗(ゆきむね)は、だからかは定かではないが、夏に弱い。そして夏の月を冠する八月(はつき)にも、弱かった。αである八月の相手は愛らしい彼の従弟たるΩだろうと思いながら、平凡なβの雪宗は八月との関係を続けていた。八月が切り出すまでは、このぬるま湯につかったような関係を終わらせてやらない。そう思っていた雪宗だったが……。 ※オメガバース。性描写は薄く、主人公は面倒くさい性格です。

愛しているかもしれない 傷心富豪アルファ×ずぶ濡れ家出オメガ ~君の心に降る雨も、いつかは必ず上がる~

大波小波
BL
 第二性がアルファの平 雅貴(たいら まさき)は、30代の若さで名門・平家の当主だ。  ある日、車で移動中に、雨の中ずぶ濡れでうずくまっている少年を拾う。  白沢 藍(しらさわ あい)と名乗るオメガの少年は、やつれてみすぼらしい。  雅貴は藍を屋敷に招き、健康を取り戻すまで滞在するよう勧める。  藍は雅貴をミステリアスと感じ、雅貴は藍を訳ありと思う。  心に深い傷を負った雅貴と、悲惨な身の上の藍。  少しずつ距離を縮めていく、二人の生活が始まる……。

溺愛オメガバース

暁 紅蓮
BL
Ωである呉羽皐月(クレハサツキ)と‪α‬である新垣翔(アラガキショウ)の運命の番の出会い物語。 高校1年入学式の時に運命の番である翔と目が合い、発情してしまう。それから番となり、‪α‬である翔はΩの皐月を溺愛していく。

たしかなこと

大波小波
BL
 白洲 沙穂(しらす さほ)は、カフェでアルバイトをする平凡なオメガだ。  ある日カフェに現れたアルファ男性・源 真輝(みなもと まさき)が体調不良を訴えた。  彼を介抱し見送った沙穂だったが、再び現れた真輝が大富豪だと知る。  そんな彼が言うことには。 「すでに私たちは、恋人同士なのだから」  僕なんかすぐに飽きるよね、と考えていた沙穂だったが、やがて二人は深い愛情で結ばれてゆく……。

フラン

大波小波
BL
 大学を中退したオメガ青年・水流 秀実(つる ひでみ)は、親からの仕送りも途絶え苦しい生活を強いられていた。  ある日、秀実はカフェで無銭飲食をするところを、近藤 士郎(こんどう しろう)と名乗るアルファの男に止められる。  カフェのオーナーであるこの男、聞けばヤクザの組長と言うではないか。  窮地の秀実に、士郎はある話を持ち掛ける。  それは、AV俳優として働いてみないか、という内容だった……!

処理中です...