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不完全な世界の中で
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黒川の部屋には、埃をかぶったコーヒーの缶と、読みかけの建築雑誌が無造作に積まれている。
しかしその一角だけが異質な空気を纏っていた。
壁のコルクボード。
そこに張り巡らされた赤い糸、並んだ付箋、手書きのメモ。
彼なりのインベスティゲーションボードだった。
「六月一五日、午後三時四十二分来店」
「購入品。ロープ、ポリ袋、溶剤」
「車種。白のセダン」
「進行方向。南西・旧道方面へ」
付箋は日ごとに増え、糸は複雑に絡んでいく。
目的があるわけではなかった。
ただ、気になったのだ。あの男が。
部屋の隅の古いノートパソコンに接続された簡易カメラの映像が、かすれた音声とともに再生されている。
店舗の棚の上に、さりげなく取り付けたレンズ。
数日前の映像では、白崎が無言でロープと接着剤を手に取る様子が映っていた。
「……やっぱりおかしい。」
黒川は、ため息交じりに背もたれへ身体を預けた。
深夜、ひとりの部屋。
誰にも見せるあてのないボードと録画。
まるで探偵気取りだと、自分でも薄ら笑いが漏れる。
耳には、いつものポッドキャストが流れていた。
「深夜一時、オレゴン州の森の奥。使われていないはずの電話ボックスのベルが鳴る。誰かが受話器を取ると、ささやき声がする……。」
黒川は、やや目を細めながら画面を眺める。語りは続く。
「二〇〇四年、その電話を取った男がいた。向こうから、自分の名前を呼ばれたそうだ……。」
静かな声だった。
何の抑揚もないのに、なぜか耳から離れない。
きっと作り話だ。
でも、なぜかそこには気配だけが残る。
机の上には冷めたコーヒー。
携帯電話には誰からの通知もない。
眠くもない。
誰とも話さないまま、一日が過ぎていく。
どうしようもない空白を埋めるように、黒川は立ち上がった。
夕暮れ前、再び工務店に顔を出し、帰り支度だけを済ませると、店を出た。
目的は決まっている。
今夜もあの男が動くなら、あとをつけてみよう。
ただ、それだけだ。
一七時五八分。
白いセダンが、あの道を通る。
黒川は距離を保って追いかけた。
助手席には飲みかけの缶コーヒー。
バックミラーを見つめながら、なぜ自分がこんなことをしているのか、明確な理由はなかった。
ただ気になってしまったのだ。
車は旧道を抜け、木々に囲まれた脇道へと滑り込む。
既視感のある道筋。
昨日と同じルート。
セダンのブレーキランプがちらつき、ロッジの前で止まる。
黒川もまた、少し離れた林の影に車を停めた。
草むらを踏みしめながらロッジの近くまで歩き、慎重に距離を詰める。
廃屋のようなその建物の、窓のひとつから微かに光が漏れていた。
そして、人影。
揺らぐランプの明かりの中、誰かが動いていた。
白崎だろう。
だが、彼だけか?
奥にはもうひとつ、異なる影が見 えた気がした。
首を傾けるような小さな動き。壁に向かって立っている誰か。
黒川は身を低くして覗き込んだが、姿までは見えない。
ドアには鍵。
壁にはボロボロの張り紙と古びた「立入禁止」の看板。
廃墟のはずだ。
だが、確かに中では何かが起きている。
「……何してるんだろう?」
囁くような声が自分の口から漏れた。
自問に近い問い。
しかし、それはもう単なる興味ではなかった。
形の見えない違和感が、疑念の形をとりはじめている。
動悸が早くなる。
視線を離せない。
冷たい風が枝を揺らす音に紛れて、微かに何かが軋む音が聞こえた。
まるで、扉の開閉のような。
だが、それ以上踏み込む勇気はなかった。
黒川はロッジを背に、再び木々の間を引き返した。
探偵ごっこには、まだ一線がある。
踏み越えるには何かが足りない。
戻った部屋で、黒川は再びあの番組を再生する。
「……その電話の向こうで、ささやき声は言った。見てはいけないものを、見たんだろう?」
彼は再生ボタンを止めることができなかった。
しかしその一角だけが異質な空気を纏っていた。
壁のコルクボード。
そこに張り巡らされた赤い糸、並んだ付箋、手書きのメモ。
彼なりのインベスティゲーションボードだった。
「六月一五日、午後三時四十二分来店」
「購入品。ロープ、ポリ袋、溶剤」
「車種。白のセダン」
「進行方向。南西・旧道方面へ」
付箋は日ごとに増え、糸は複雑に絡んでいく。
目的があるわけではなかった。
ただ、気になったのだ。あの男が。
部屋の隅の古いノートパソコンに接続された簡易カメラの映像が、かすれた音声とともに再生されている。
店舗の棚の上に、さりげなく取り付けたレンズ。
数日前の映像では、白崎が無言でロープと接着剤を手に取る様子が映っていた。
「……やっぱりおかしい。」
黒川は、ため息交じりに背もたれへ身体を預けた。
深夜、ひとりの部屋。
誰にも見せるあてのないボードと録画。
まるで探偵気取りだと、自分でも薄ら笑いが漏れる。
耳には、いつものポッドキャストが流れていた。
「深夜一時、オレゴン州の森の奥。使われていないはずの電話ボックスのベルが鳴る。誰かが受話器を取ると、ささやき声がする……。」
黒川は、やや目を細めながら画面を眺める。語りは続く。
「二〇〇四年、その電話を取った男がいた。向こうから、自分の名前を呼ばれたそうだ……。」
静かな声だった。
何の抑揚もないのに、なぜか耳から離れない。
きっと作り話だ。
でも、なぜかそこには気配だけが残る。
机の上には冷めたコーヒー。
携帯電話には誰からの通知もない。
眠くもない。
誰とも話さないまま、一日が過ぎていく。
どうしようもない空白を埋めるように、黒川は立ち上がった。
夕暮れ前、再び工務店に顔を出し、帰り支度だけを済ませると、店を出た。
目的は決まっている。
今夜もあの男が動くなら、あとをつけてみよう。
ただ、それだけだ。
一七時五八分。
白いセダンが、あの道を通る。
黒川は距離を保って追いかけた。
助手席には飲みかけの缶コーヒー。
バックミラーを見つめながら、なぜ自分がこんなことをしているのか、明確な理由はなかった。
ただ気になってしまったのだ。
車は旧道を抜け、木々に囲まれた脇道へと滑り込む。
既視感のある道筋。
昨日と同じルート。
セダンのブレーキランプがちらつき、ロッジの前で止まる。
黒川もまた、少し離れた林の影に車を停めた。
草むらを踏みしめながらロッジの近くまで歩き、慎重に距離を詰める。
廃屋のようなその建物の、窓のひとつから微かに光が漏れていた。
そして、人影。
揺らぐランプの明かりの中、誰かが動いていた。
白崎だろう。
だが、彼だけか?
奥にはもうひとつ、異なる影が見 えた気がした。
首を傾けるような小さな動き。壁に向かって立っている誰か。
黒川は身を低くして覗き込んだが、姿までは見えない。
ドアには鍵。
壁にはボロボロの張り紙と古びた「立入禁止」の看板。
廃墟のはずだ。
だが、確かに中では何かが起きている。
「……何してるんだろう?」
囁くような声が自分の口から漏れた。
自問に近い問い。
しかし、それはもう単なる興味ではなかった。
形の見えない違和感が、疑念の形をとりはじめている。
動悸が早くなる。
視線を離せない。
冷たい風が枝を揺らす音に紛れて、微かに何かが軋む音が聞こえた。
まるで、扉の開閉のような。
だが、それ以上踏み込む勇気はなかった。
黒川はロッジを背に、再び木々の間を引き返した。
探偵ごっこには、まだ一線がある。
踏み越えるには何かが足りない。
戻った部屋で、黒川は再びあの番組を再生する。
「……その電話の向こうで、ささやき声は言った。見てはいけないものを、見たんだろう?」
彼は再生ボタンを止めることができなかった。
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