八奈結び商店街を歩いてみれば

世津路 章

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春やん

第5話 母親と乱入と頭突き・上

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 自分を呼ぶ声で、彼は目を覚ました。
 部屋の中はまっくらで、見ていたはずのテレビも消えていた。毛布がかけられている。いったい誰が……と、考える必要はなかった。またか細く自分を呼ぶ声が、聞こえてきたから。
(……! ママだ!)
 彼は立ち上がり、声のするほうへ駆けていく。珍しく、夜半に母が帰ってきたのだ。もしかしたらクリスマス・イブだからサンタが彼女に家に戻るよう言ってくれたのかもしれない……なんて、年齢相応の想像が過って、頬が緩んだ。サンタに生まれて初めて感謝する心地にすらなった。
 その幸福感は長く続かなかった。
「……ち、とせ…………」
「…………ママ?」
 辿り着いた先は、見慣れたはずの便所。古アパートらしく冷たいタイル張りで、今時外じゃ見かけない和式の水洗トイレ――開け放たれたその場所は、裸電球に照らされた狭いその空間は、あかく、染まっている。
 母は壁に背を持たれかけさせて、か細く呼吸をつないでいた。
豪奢なブランド服のあちこちに、明らかに意匠ではない黒い斑点がある。そして、更に鮮烈にギラつき、タイルの上にぬるぬると流れる赤い液体――それは母の股から断続的に溢れて、生臭い鉄のにおいを立ち上らせていた。
 今にも、死にかけている――
「……っ、なんで?! ママ、どうしてっ」
「…………ここに、きて」
 彼は初め、ぎこちない動作で頭を横に振った。傍に行けば、彼女の絶えゆく生命を否が応にも感じることになる――もう間もなく彼女が動かなくなるのだと、認めなければならなくなる。
 だが、あまりにも彼女が一途に――おそらくもうよくは見えていないだろう目で――見つめてくるから、下唇をぎゅっと噛み、頷かざるを得なかった。
 恐る恐る、彼は死の気配の充満した赤い部屋へと一歩ずつ歩み寄る。ふと、異音がした。それは――思えば目覚める前からかすかに聞こえていたような気がしたが、彼の意識に上らなかったのだ。
 耳を澄ませて、目を凝らして、その正体を知る――赤ん坊が、泣いていた。気づいてしまえば、なぜわからなかったのか不可解なほど、それは当然とそこに……母の腕の中に、抱かれていた。
「ちとせ……」母は掠れた言葉をやっとのことで紡ぐ。「この子を……おねがい……誰か、助けを呼んで……それで、この子を…………」
「……いや、だ……」
「……ちと、せ、」
「いやだ! ママと一緒にいる!! ママと一緒じゃなきゃ――僕も一緒にいく!!」
 赤ん坊に添えられた彼女の手を、彼は縋りつくように取った。指を絡ませ、固く握り、懸命に祈る――ぼくのいのちが、ママにそそがれますように。それができないなら、ぼくのいのちもママとおなじようにそとにでてきえていきますように。
 幼い彼の願いを、聞き届けるものは存在しなかった。一秒ごとに、彼女の手は重くなっていく。自重を支えるだけの力が、どんどん失われていく。それを否定したくて、彼はただ泣きじゃくりながら、ありったけの強さで握りしめていた。
 どのぐらいそうしていたのかは、わからない。ただ、彼女と同じように赤子の泣き声もまた、だんだんと弱くなって……たぶんそれに、気づいたからだろう。彼女は、腕を震わし、やっとのことで持ち上げながら――彼の頭の上に乗せた。
 その微かな体温が、こみ上げる彼の涙をほんのわずかにせき止めた。
刹那、すべての雑音が凪ぐ。
 焦点の合わない眼差しで、彼女は彼の向こう側を優しく見つめて、
「――ちとせ、守ってね……この子を。あんたしか……いないから」
 最期の〝言いつけ〟を、口にした。

   ***

 頬に吹きつける風の冷たさに、世一郎は目を覚ました。
 身じろぎするも、スーツの上から何かがきつく食い込んでままならない。次第に鮮明になってきた目を凝らして、絶句した。
全身が、ロープで椅子に固く巻き付けられている。手は後ろに組まれ、足は椅子の前脚に括りつけられ、首から下の一切の動きは禁じられている。
 既に日は暮れたようで、辺り一面暗かった。頭上には星も月も姿を隠した重苦しい曇天――野外のようだが、うっすらと建物の輪郭も見える……どうも、ビルか何かの屋上らしい。
 また、びゅう、と風が起きて、世一郎の喉元を掴むように往き過ぎた。肌に冷や汗が滲んでいるのを抜きにしても、冷たかった。冬の名残が、春にその座を明け渡すのを渋って、夜闇の中でもがいているようだ。
「こんばんは、寝覚めの気分はどうかな?」
 若い男の声がして、ぼうっと明かりが灯った。
 その眩しさに世一郎は目を瞑り、おそるおそる瞼を上げる。彼の正面……少し距離を置いて立つその男が、キャンプ用品らしいランタンを持っていた。LED電球の青白い光が、そいつの人を喰ったような笑顔を不気味に照らす。
 自身を拘束した犯人にまちがいない――世一郎の頭にカッと血が上る。だが同時に戸惑いも湧いて、結果出した声はひどく威厳のないものだった。
「おっ、おまえは……誰だ! いったい何が目的だ!?」
 男はきょとんとしたが、すぐに笑って返事する。
「ああ――あんたにはこの顔じゃ、わからないよね」
 そう言って男はひとつ息を吐き、表情を変えた。とはいえ、それは分類でいえば先ほどと同じ笑顔に違いなかったが――歴然と、別のものだった。
 哲学者のように少し寄せられた眉間。
見る者を否応なく惹きつける眼差し。
溢れる自信を静かに漲らせた口角。
「『おまえは』」――男の声まで、違って響く――「『いつまで経っても愚図が治らへんな、世一郎』」
「と、父さん……?!」
 全身に電流が駆け巡り、世一郎は蛇に睨まれた蛙のごとく萎縮した。それを見て目の前の男は顔を崩し、わざとらしく腹を抱えて笑う。
「すっごいよね、映像に撮ってワイドショーにでも売りつけたいくらいだよ! ああ、自分が清き一票投じた国の代表が、拗らせすぎてつける薬もない重度のファザコンだって知ったら、支持者の皆さんはどんな顔するのかな? 想像しただけで、一年は笑いの種には困らないね」
「き、貴様……!」遅ればせながら、世一郎は沸き立つ怒りにブルブル震えながらがなる。「どういうつもりなんだ、千十世!」
 名を呼ばれた男――千十世は、居住まいを正して芝居っぽく肩を竦めた。
「あんまり興奮しないほうがいいんじゃない? いくら身動きできないからって、なんかの弾みに、つい……ってことは有り得るからさ」
「なんのことだ!」
 億劫そうに千十世は、世一郎の背後を指さした。
振り向き、世一郎は一気に血の気が引く。
「ここ、たかだか三階だけど、その状態で落ちたらどうなるか――愚図のおまえでもわかるでしょ」
 屋上の四方を囲うフェンス――老朽化したそれが、人為的に手を加えられ、一部崩れ落ちていた。世一郎が拘束されている椅子は、図ったようにそこに据えられている。ビルとその向こう側――つまり何も遮るもののない虚空ということだが――の瀬戸際にある以上、誤って後ろにバランスを崩せば、待ち構えるのは〝墜落死〟という結末だ。
 そんな状況に世一郎を陥れた本人は、電子レンジに入れる前の皿にラップをかけるような気軽さで話し続ける。
「安心して、遅かれ早かれってやつだから。本当に発狂して何もわからなくなったんじゃおもしろくないもんね。ちゃんと恐怖も、苦痛も、絶望も、最大限感じ切ってもらってから突き落としてあげる。だからしばらくは、ほら、会話を楽しもうよ。せっかく父子が生まれて初めて対面したんだもの」
「異常者め……おまえの目論見なんぞ、上手く運ぶわけがなかろうが!」
 吠える世一郎に、千十世は軽薄に笑いを返す。
「いいね、その現状認識! 最高に錯乱を感じるよ。その異常者に大好きな父親の面影を見て、ほいほいこんなところまで連れてこられた間抜けはどこの誰だか――『わかったうえで発言してるんやろな、世一郎?』」
「――っ?!」
 開いた口が塞がらないとはこのことだった。目の前の男が表情を、声音を、居住まいを、切り替えただけで――百十世がそこにいるかのごとく感じられてしまう。しかし、次の瞬間人を喰ったようなあの笑みにとって代わって、父の虚像は立ちどころに掻き消える。
「喜んでもらえて、練習した甲斐があるなぁ」千十世は空々しく言う。「これが、隔世遺伝ってやつなのかな? 僕としては迷惑この上なかったけどね――中学に上がる前くらいからかなぁ……若い頃の百十世の顔を未だに憶えているジジババに、そっくりだなんだってベタベタされてさ。そう見えなくなるような表情に辿り着くまで、結構難儀したよ。あんな時間の無駄もそうそうなかったね」
 プラモデルの組み立てに苦戦した、と話すような気安さだが、そんなことが容易にできるわけないと世一郎は歯噛みする。いくら顔が似ているからと言って、己を消して他人をそっくり演じることなど、よほど熟練した役者の領域だ。しかし、現に目の前の男は軽々と成し遂せている――そして、それは演技に限ったものではないと、世一郎は直感で知っていた。
 最小限のインプットで最大限のアウトプットを実現する――それが演技だろうと、学問だろうと、商売だろうと、政治だろうと、自らの設定した目的は必ず達成する。そんな驚異的な才能に溢れた人物を、世一郎は知っている。その人物は不帰の客となってなお、世一郎の生涯のすべてであり、今も、昔も、未来でさえも、唯一絶対の神に等しい。
 その血を引くにもかかわらず、自分は神の権能をその一部でも与り得なかった。だからこそ、遺された言いつけを――この血を絶やしてはならないという託宣を――果たすことで、神との合一を試み続けている。それは並々ならぬ労苦と人間らしい情緒の喪失を世一郎に強いたが、彼はひとつも悔いてはいない。
 悔いてはいない――が。
 目の前の男は何の苦労もなく神の権能を繰り、あまつさえ――軽々しく弄ぶ。
 この事実は、世一郎の怒りを焚きつけ、生命の危機を忘れさせた。
「だ、黙れ……貴様ごときが、あの方を呼び捨てにするな……!」
「虚勢張っちゃってかわいいんだぁ、またモノマネして名前呼んでほしいくせに」
 ぎくり、と世一郎は内心慄く。図星を突かれた。そう、忌々しくも我が物顔で神の権能を振るう男は、同時に、神の再臨でもある――だからこそ、世一郎は疑いもせず付き従って、こんな目に遭っているのだ。
怒りと喜びが極度に入り乱れ二の句の継げない彼を、千十世は粗大ゴミの山でも眺めるような目で睥睨する。
「残念だね、もうおまえが望むことは何一つしてやらない。ここからずっと、僕のお楽しみだ」
「ふざけるな……! この縄をほどけ、今なら大事になる前に見逃してやる!」
「すごいすごい、追い詰められた悪役のお手本みたいだね! さーて……この調子であと何回、活きのいいセリフを聞けるかな?」
 千十世は余裕ぶった足取りで世一郎の正面まで寄ってきた。手にしたランタンをわざとらしく世一郎の目元の位置に提げる。急な眩しさに世一郎が目を細めていると、千十世は屈んで視線の高さを揃えてきた――その目は、笑ってなかった。
「そのうち誰かやってくるだろうなんて楽観、今のうちに捨てておきなね。このビルは放置されてもう数年経つし、四方も無人の空き家と解体中のアパートだ。それに、仮に誰か通りかかったとして――面倒事はごめんだって聞かなかったことにして、立ち去るさ」
「そ、そんな、バカなこと、現代のこの国で起こるわけ……!」
 狼狽する世一郎に、千十世はくすくす笑ってみせた。
 無知な子どもの言い分を相手にもしない教師のような笑いだった。
「あるんだよ、だって――ここいらに住んでるのは、そうやって見捨てられたやつらばかりだもの。自分たちは助けてもらえなかったのに、他人を助けようなんて情け深い心、とっくの昔に擦り切れてるさ」
 彼は身体を起こして一歩下がると、カーテンコールに応える道化師のように慇懃に一礼した。
「ここは、のっぺら団地……僕とママの生きてきた場所だよ、パパさん」
 自分を射抜く絶対零度の視線に、世一郎は言葉を失した。
 昼間聞いた話を思い出す。

――亡くなりました。数年前……冬の日のことです。妹を妊娠していたと気づかず、アパートのトイレで出産し……そのまま出血多量で逝きました――

 ぶるぶると、震える唇から確信に近い問いが飛び出す。
「復讐の、つもりか……?」
「ん? 何?」
「こんな手の込んだマネをして……復讐して弔おうとでもいう肚なんだろう! あのイカれた淫売の息子らしい、頭のおかしな考えだ!」
「…………」
 口元をきゅっと釣り上げて、千十世は再び世一郎の前に立った。
 屈みこみ、間髪入れずその横っ面を叩き飛ばす。
 あまりに自然で力みない動作だったので、世一郎は自らの頬が痛んでようやく、何をされたか理解が追い付いた。
「次に侮辱したら」千十世の声は永遠に訪れぬ夜明けのように冷たい。「こんなものじゃ、すまない。本当に――ころしてやる」
 その声はなぜか幼い少年のように高く響いて、不気味で――そして、言葉に偽りがないと告げていた。青白いランタンに照らされる彼の表情は、激情に均されたあとの平らかなもので――それを、世一郎は見たことがあった。
 自分に鞭を振り下ろす父の顔を、そっくりだった。
 一度でいい――たった一度でいいから自分を認めて、愛してほしい。彼のその心からの願いを、何度も無下に押し潰したあの表情に、違いなかった。
「淫売を……淫売と言って、何が悪いと言うのだ!」
あのとき父にぶつけられなかった憤懣が、驚くほど自然に世一郎の喉から飛び出る。
「一東垣の子を産めただけで光栄と思うべきなのに――他の男とまぐわった挙句、勝手に野垂れ死んだ愚かな女……これを淫売と称さずしてなんなのだ?! 金銭面での援助を要求しておきながらこの仕打ち、まるでペットに手を噛まれたように不愉快極まりない!! その上、息子は息子で自らの血の尊さを理解せず棒に振ろうとしている……こんなこと、言語道断にもほどがある!!」
 癇癪をひとしきり吐き出して、世一郎はぜいぜいと喘いだ。積年の鬱屈が、ほんの少し晴らされて胸が軽くなる。しかし、それだけだった。
千十世は静かな動作でランタンを足元に置き、
「……で?」
 その両手を世一郎の両肩に添え、くっ、と力を入れる。
 椅子の前脚がかすかに持ち上がり――世一郎の靴底が、コンクリートの床からわずかに離れた。その感触が下半身から上半身、脊椎にまで伝わって、世一郎の全身を張り詰めさせる。
事務的に千十世が言う。
「他には? 言い遺すことがあったら聞いてあげるよ」
「そんなものはない! さっさと縄を解け!!」
「往生際が悪いなぁ――」
 彼はまた少し、手のひらに力を加えた。辛うじて、世一郎の爪先ばかりが床との接触を残す。背から腰にかけて駆けずりまわる悍ましい浮遊感に、世一郎は口をパクつかせた。
見下す千十世は、にこりともしない。
「何をしたってもう赦されないんだよ――おまえは。ママがおまえに会いに行ったとき迎え入れていれば、こんなことにはならなかった。ママがおまえの代替品を手に入れようと、手あたり次第に男と寝る、なんてことにもならなかった。おまえが――たったひとつ、彼女が求めていたものを、嘘でもいいから、かけらだって構わないから、分け与えていれば……今日この日のこの時間、おまえはいつものように暖かい布団の中で安眠できたんだよ」
「あの女の、求めていたもの……だと? 馬鹿馬鹿しい、金なら十分に、」
 は、は、は、と千十世は哄笑を上げる。
 黄泉路にこだまするような、形ばかりの笑いだった。
 風が吹き荒れて、彼の髪を乱した。目元が隠れて、どんな表情をしているのかわからない。
 世一郎の肩に喰いこむほど、その指先に力が籠められた。
「正解は向こうで直接聞いたらいいよ。じゃあね、パパさん」
「お、おい、待て、落ち着け……もう一度、きちんと話し合えばわかる……おまえは俺の息子なんだろう?!」
「――そうだよ、だから……――――なかった」
 その声はあまりにか細くて、聞き取れなかった世一郎は虚を突かれた。
 だが次の瞬間には何事もなかったように、千十世は笑った。
「ほなな、あんじょうよろしゅう言うといてんか――言いつけはちゃあんと、守うとるて」
「ま、待て、やめろ……やめろ、やめろやめてくれ、頼む、うわああああああああああ!」
 手が、突き放される。
 世一郎を抱きかかえたままの椅子は均衡を崩し、ぐらり、と大きく後ろへ傾いて――
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