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春やん
第5話 母親と乱入と頭突き・下
しおりを挟む――ちとせ、守ってね……この子を。
あんたしか……いないから。
たぶんその言葉を口にするために、彼女はいのちを使い果たした。
だから今でも、五分前に聞いたかのように思い出せる。いつだって、彼女の言葉が、末期の願いが、――最後の言いつけが、自分とともにある。
〝千十世〟という存在の中に背骨のように植わって、片時も離れることがない。
毎時毎分毎秒、四六時中も、母のあの声が、血とともに細胞ひとつひとつを巡っている――傍から見れば呪詛に他ならないが、しかしこれこそが、今日まで彼を生かしてきた。
ママを護れなかった弱い僕は要らない。
ママを壊しちゃった悪い僕は要らない。
あのとき、確かに彼は彼女の死出の旅に伴おうとした。彼女が動かなくなったあと自らの首を絞めて、ともに息絶えようとした。それでもまだ無様に生き晒しているのは、彼女のその願いが心からのものだと伝わってきたからだ。
ただあいされたかっただけなのに、なにもえられなかったかわいそうなひと。
みずからのあいをすわれるだけすわれて、みじめにくちはてようとしているあわれなひと。
自分だけがきっと、そこから彼女を救ってやれたのに――何も、してあげることができなかった。だから。
この言いつけだけは、何に換えても守り抜く。
へつらっても。媚びても。おどけても。
謀っても。強請っても。
手を何度だって汚しても。
(――美也を護る、それだけや)
特に感慨もなく、千十世は両手を離した。
世一郎はまだ何か喚いていたが、どうでもいいことだった。もう数秒のうちに男を抱えた椅子は真っ逆さまに落下を始め、もう数十秒ののちに硬い地面に叩きつけられるだろう。もっとも、土がむき出しになっているから、無機質なコンクリートにキスするよりはいくらかマシなはずだ。
千十世の懸念は、打ち所がよくて死に切らないケースだけだった。わざわざとどめを刺さなければならないのは面倒だし、美也はもう寝ている時間だけど、長く家を空けるのは嫌だった。落ちた場所の脇に穴を掘って埋めるために、土木作業用の丈夫なシャベルを用意してあるので、最悪それでどうにかしようと算段はつけてあるが……段取りよく進めたかった。
先に下に降りて、結果はそこで確かめることにした。未練なく踵を返し、階段のほうへ歩き出して――唖然した。
「「ま、に、あ、えええええええええええええぁ!!!」」
何かがすごい勢いで迫り、千十世を突き飛ばす。
尻もちをついて、思わず目を瞑った。
再び開いて、ハッとする。
「セーフ?! なぁシゲちゃん、セーフやんなっ??!」
「なず、待ってくれ……息ヘンなトコに入って、げふっ、がっ!」
「だ、大丈夫?!」
「俺やなくて、こいつ頼むわ……!」
先ほどまで千十世がいた場所に、なぜが繁雄となずながいる。繁雄は頭から塁に飛び込んだように腹ばいになっているが……その伸ばした両腕でしっかりと、椅子の前脚を掴んでいた。
回り込んだなずなが脚を四つとも床につけ、フェンスのあるほうへ移動させようと力いっぱい引っ張る。起き上がりながら繁雄は咳き込み、呼吸を整えていたが……やがて、千十世の視線に気づき、フン、と鼻を鳴らす。
「よぉ……何しとんねんボケカス」
「ち、ちぃくん……」一仕事終えたなずなが、おずおずと繁雄の隣に並ぶ。「ごめんな、乱暴して……どっかケガしてない?」
今しがた千十世にタックルを仕かけてきたのは、彼女らしい。したたかに打ちつけた腰を始め、身体のあちこちがジンジンと痛みを訴えるが、大したことじゃない。
それより問題なのは、間合いを一歩で詰められない程度の距離を空けられてしまった点だ。
ちらり、と千十世は二人の背後に視線を遣った。世一郎は泡を吹いて気絶している。かすかに漂うアンモニア臭から察するに、失禁もしたようだ。これはこれで相応の辱めではあるが――まだ足りない。
やはり、悪い芽は根から摘まなければ。
「……なっちゃん、そこどいて」
「ちぃくん……?」
「そいつ、この世に必要ない奴なんだ。早いところ捨てないと」
千十世はそう言って、世一郎の元へとつかつか歩み寄る。
だが、なずなは躊躇いなく、二人の間に立ちはだかった。
「そんなん、させへん……!」
彼女にいつもの気弱さはなく、決然と大の字になって行方を塞ぐ。
一旦こうなればなずなが手強いのは、千十世もよく知っている。ため息とともに応じそうな交換条件を考えて、提案した。
「困ったなぁ……ほら、また今度、簿記の勉強教えるから、バーターってことでどうにかならない?」
なずなは、眼鏡の奥の双眸を見開いた。じわりと涙に潤むのを――なぜなのか千十世にはまるで理解できないのだが――ぎゅっと固く目を瞑っていなし、再びまっすぐ彼を見据える。
「ならへん! たとえ他のどんなことと引き換えでも――ここは動かへん!」
「なんで? なっちゃんには関係ないことじゃない」
「関係なくなんかない! ちぃくんに人殺しなんて……絶対、させへん!」
ほとんど叫ぶように、なずなは断言した。そのまなじりからはやはり今にも涙がこぼれそうになっていたが、きゅっと口元を一文字に結んで、堪えている。
彼女のその様子が、どうしても千十世には理解できなかった。なずなが慈悲深く、情に溢れた人間なのは知っている。でもそれは、倫理を容易に踏み外す自分のような外道にも向けられるべきものではない。なのにどうして――なんで彼女はこうして、まっすぐ向き合ってくるのだろう。
深く考えかけて、千十世は止めた。
それだって、どうでもいいはずだ。
今大事なのは――いや、自分の人生において大切なことはたったひとつ。
美也を護ること。
そのためには、あいつを殺さなきゃ。
千十世は解釈を切り替える――もう目の前の少女は、ただの人間だ。何のタグもついてない。
「……そうなると、あなたもそこから落とさなきゃいけなくなっちゃうんだけど、それでも構わない?」
「っ!」――なずなは息を呑んだが――「ええで、先にうちから落としぃや!!」
なるべく穏便に運びたかったが、そう言うのなら仕方がない。
ひとつ息を吐いて、行動を切り替える。
「うん、じゃあ――そうするね」
彼はつかつかと歩み寄り、なずなを掴もうと素早く手を伸ばした。
だが、その指先は届かず終わる。
「おいおい……俺のこと忘れてへんか、千十世」
繁雄が、的確に千十世の手首を捉えていた。口元は笑っているが、思い切り寄せられた眉間も、いつもの数倍鋭い目つきも、手首の骨を砕きそうなほどに籠められた力も――今にも爆裂しそうな憤怒が彼の内側で滾っているのを示している。
その怒りは、なずなの堪えた涙と同源であると、千十世は知っている――知っていて、気持ちを切り替える。
「……邪魔」
腕を掴まれて不自由な体勢の中、千十世は器用に身体をよじり――強烈な回し蹴りを、繁雄の横腹に叩きこんだ。ノーガードだった彼はカハッと空気を吐き出し、なずなが悲鳴交じりに名を呼んだ。
それでも――手は離れない。
千十世は舌打ちして、もう一撃繰り出そうとしたが、
「やって――くれるやんけ!!!」
猛った繁雄が、掴んだ手をぐっと引き寄せた。千十世はバランスを崩し、繁雄のほうに寄せられて――ガツン、と脳天に衝撃を受ける。
目頭から火花が噴き出るようなショック――頭突きをされた、と認識が追いついたとき、千十世はその場に倒れこんだ。
グラつく意識を切り替え、反撃しようと立ち上がろうとした。しかし、それも失敗に終わる。
素早く回り込んだ繁雄が、背中から羽交い絞めで拘束してきた。いくら暴れても、繁雄はびくともしない。
千十世は感情を切り替えようとして――できなかった。
解釈も、行動も、気持ちも、何もかも切り替えられない。これまで任意のタイミングで千十世にそうできなかったことはない。自身の中に存在するあらゆる要素を、目的遂行のために自由自在に切り替えられる彼が――このときばかりは、何一つままならなかった。
それだけ繁雄の腕は力強くて――なずなは目を逸らさずに立ちはだかった。
何もかも切り替えられないまま、千十世は苛立ちを吐き捨てる。
「はな、せよ……!」
「おーおー、やっと崩れよったなその澄まし面! でも離せ言われて離すほど、俺もアホ違(ちゃ)うんやわ」
ハッと繁雄は切って捨てた。
その声音に、苦いものが混じる。
「葵からだいたいのところは聞いた……おまえが多分あの議員の息子やろうとか、あそこの跡継ぎがおらんなったから迎えにくるかもしれへんとか……んなアホなって思っとったら、なんや最近おまえの様子おかしいし。ほんで、さっき美也からおまえがおらへんて連絡あって探しにきたら、こないなことしでかしとるやろ? 頭パンクしそうなこっちの身にもなれや」
まだダメージの残る頭に、血が上るのを千十世は感じた。葵のことは出逢ったときから気に喰わなかったが、これほどまでに殺意を感じたのは初めてだ。決して知られたくない過去を――恥ずべき生い立ちを、よりによってこの二人に知られた。
しかし、繁雄となずなだっておかしい。他人の過去を知ったからといって、首なんか突っ込まず放っておけばいい話だ。それを、なんでよりによって今日のこの時間に――しかも、誰にも行先なんて告げてないのに――自分を捜しだして、止めに入ってきた? 不可解にも、不愉快にもほどがある。
二人に対する理不尽な苛立ちを、とうとう千十世は抑えきれなくなった。
「それなら……さっさ帰って、寝ればええやんけ! おまえらには一切関係ないやろが!」
「っ?!」
訛りのない物言いすらもかなぐり捨てた彼に動揺したのか、繁雄の拘束がほんの少し緩む。しかし、またすぐぐっと力が籠もる。
「さっきなずが言ったん聞いてなかったんか……?!」――繁雄の声は悲痛だ――「俺もなずも、おまえに人なんか殺させたくないんや!」
「うるさい……うるさい、うるさいうるさい! 俺があいつ殺すんは俺の勝手や! おまえらにどうこう言われる筋合いない!!」
「筋合いとか知るかアホんだら! ……くっ、この!」
千十世はもがき続ける。繁雄の腕を逃れ、なずなの妨害も交わして、ただあいつに辿り着く――この世で最も生かしてはならない〝パパさん〟を葬り去る。
あいつが息を止めるときまで、もはや片時も安心していられない。その強迫観念が、千十世の暴れる力を指数関数的に高めていく。
それをなんとか抑えこみながら、繁雄は問う。
「おまえ、なんでそない必死なってまで、あいつ殺したいんや……!」
「あいつがおったら……美也を、護れへん……! あいつは美也の害や……!」
「はぁ?! ちょっとさすがに、そりゃ飛躍しすぎやろ!」
「――シゲちゃん」
なずなが止めた。
彼女は、大きく広げていた腕を下げ、その手を胸の前に組んでいる。
「ちぃくんは、みっちゃんのこと言うとき嘘つかへん……なにか、あってんな?」
その声の静かさに、千十世の昂ぶりも少し治まった。
舌打ちして、やむを得ず語りだす。
「……今日、俺はそいつに会いに行った。向こうは案の定、跡継ぎが事故でおらんなったから、俺を迎えたいゆうつもりやった――孕ませたあと何年も放置して、見ないふりしとった愛人の子をな」
千十世は、気を失って項垂れている男の顔を見た。
国政を担う一員には到底見えないその有様を見て、もっと貶めてやりたいという残忍な欲求が鎌首をもたげる――せせら笑いながら、千十世はナイフを突きつけるように続けた。
「そいつ、他にもぎょうさん子種バラまいとったけど……生まれたんは本妻の息子と俺のたった二人だけ。それも片方は死んでもうて、残るスペアは俺一人。せやから機嫌損ねんとこうと、笑えるほど必死やったわ――自分の種さえ悪くなけりゃあんな無様なマネせんでよかったのになって、同情したくらいやで」
重たい沈黙が場に下りる。
探るようにそれを破ったのは、繁雄だった。
「そんな必死やったんなら……おまえが美也と一緒に行きたい言うたら、受け入れるほかないん違うか?」
「――言うたわ。ほんで、頷きもした」
「せやったら……!」
常識に照らして人間の善性を信じようとする彼を眩しく感じながら、千十世は吐き捨てるように返す。
「あくまで、表向きはな――俺が席外した次の瞬間、秘書に指示出しよったんや。バレないように妹を隔離しろ、ってな」
そう――千十世は世一郎の会食に赴く条件として、秘書の芦田に秘密の条件を出していた。
ひとつは、会食の際、芦田のポケットに盗聴器を忍ばせ、受信機を千十世に渡すこと。もうひとつは、それを決して世一郎に伝えないことだ。この二つが呑めなければ、今回は会う前から破談となる――そう言われた芦田は、電話越しにもわかるほど狼狽えた。世一郎に振り回され神経衰弱していた秘書は、千十世の条件を受け入れるしかなかった。
そして、会食の場で千十世が席を外した隙に――世一郎は本性を露わにした。化粧室の中、受信機越しに聞く奴の指示は、千十世が想像したものと寸分違わなかった。
――千十世は、チャンスを提示したのだ。
美也を連れていくことを拒まなければ、千十世だって拒まなかった。例えそれに難色を示したとしても――母について悔悛の念を見せていれば、いや、ほんの少しだって憶えてさえいれば、関係修復の余地を与えようと考えていた。
でも、どうせ無駄に終わるのもまた、知っていた。
知っていたから――この日のための準備を、すべて抜かりなく整えたのだ。
先手を取る以外に、勝てる道はなかったから。
「あいつがおる限り、俺は美也の傍に居続けられへん。あいつが持てる人でもカネでもなんでもぜんぶ使こうて俺から美也を奪い取る前に、こっちからやらんと――俺には、こうする以外にないんや……!」
「……んな、アホな」善良な一市民である繁雄は、当惑を隠せない。「だいたい、おまえはあいつと今日初めて会ったばっかなんやろ? 確かに、おまえの知らんところで何か企んどったんかもしらんが、せやかて、それがおまえからぜんぶ奪うためかどうかなんて、すぐにはわから、」
「わかるわ――そんなん、嫌になるほど」
まともな両親のまっとうな血を受け継いだ彼には、一生かかったってわからないだろうに――知っていて、千十世は言わずにいられない。
「あいつは今も、死んだ父親に認められたくて……愛されたくて、そのためならなんだってやる。父親の言いつけを護るためなら、人やって殺す。それが、なんも知らん小さな子どもでも」
「なんで、そない言いきれるんや……!」
「…………俺があいつの、子どもやからや」
そう、相手のやり口なんて反吐が出るほど知り尽くしている。
千十世自身が、父性狂信者の世一郎を鏡に映したような母性狂信者なのだから。
世一郎が信じるのは――従うのは――父親に遺された〝言いつけ〟だけ。それ以外は父と自らの間に設けられた障害物に他ならない……千十世自身そうだから、この目で確かめるまでもなく理解していた。奴にとって美也の存在は、何にも増して赦し難い汚物だろうということも。
美也は――父親の血を繋ぐための借り腹にした女が、世一郎を裏切って他の俗物との間に成した子だ。そんな汚らわしいものを、自身の傍に置くわけがない。
であるが故に――隔離なんて生ぬるい処置だけで、済むはずもない。
自嘲に口の端を歪ませながら、千十世は俯く。
「ほんま、今日一日、こいつと一緒におって……ずっと吐き気してた――呆れるくらい、おんなじやった。血は争えんってやつやわ!」
そして――勢いよく、頭を後ろに反らした。
話に聞き入っていた繁雄はこの企みに気づかず、顎に直撃を喰らう。
「がッ、?!」
「シゲちゃんっ!」
なずなが動揺して動こうとした。
しかし――繁雄はこの不意打ちにも、拘束を解きはしなかった。
「心配ない……なず、そこにしっかり立っとれ! 千十世は、おまえにゃ手出しできん!」
――まただ。千十世の腹の底で憎悪が滾る。なんで繁雄はこうまでして、彼を阻むのか。
さんざん説明したはずだ。攻撃だって加えた。自分なんか関わる価値の豪ほどもない、関わり合いになってはならない、ヒトの形をしただけの呪詛と妄執の塊なのだと。
なのに、繁雄もなずなも、まだ信じている。
千十世が、人間だと――通じ合えると信じている。
その楽観をめちゃくちゃに引き裂きたくて、千十世はだむしゃらに暴れ、吠えた。
「言うたやろ、邪魔するんならもろともや! シゲ、おまえも一緒に落としたろうか?!」
「デカい口叩きよって……そないして、気に喰わんもん片っ端から消してったら満足か?!」
繁雄も繁雄で、聞き入れない千十世に苛立ちを露わにする。
「さっきから黙って聞いてりゃ、なんやねんおまえ! 不幸自慢もたいがいにせぇや! そんなブツくさ言うてる奴にダシにされて、美也もさぞかし迷惑やろな!!」
「うるさい! そんなことッ」
反論しようとして、頭が真っ白になった。
途端に、身体中から力が抜けていく――張り詰めた風船がしぼむように、千十世は虚無感に襲われた。
おにいちゃん、と自分を見つめる美也を幻視する。
その目は――表情は、いつだって人形のようで、彼女のあるいのちの彩りを何一つ伝えない。本当は、美也の中には様々な想いが――感情が――可能性が――色とりどりの花畑のように息づいているのに、それを表現するための術を彼女はほとんど持っていない。
その原因は他でもない――
「そんなこと……わかってへんとでも、思てるんか」
「ちい、くん……?」
「わかってる……ぜんぶ――美也にはほんまは、俺なんて……要らんて――わかってんねや、そんなこと……初めから。でも、どないしたらよかった言うねん? 俺には……俺には、これしか、遺されへんかったんや――」
千十世が美也を護る限り――縛り続ける限り、美也はあのままだ。
和希のように自分だけの夢を抱いて、挑戦し、時に敗れることがあったとしても……それでも笑ってまた次の夢を追いかける。そんなふうに自分の手で人生を築き上げる歓びを知ることなく、美也は一生を終えるのだろう。
それが人の生として健全でないことくらい、あるべき姿でないことぐらい、千十世にだってわかっている――ずっと繁雄やなずなの生き様を、それを見守る壱之助や商店街の人々のぬくもりに満ちた眼差しを、傍から見てきたのだから。
美也にとってのしあわせはあちら側にあるのだと、わかっていて、納得していて、それでも――彼女を手放せなかった。
だって美也がいなくなってしまったら、果たせなくなってしまう。
母が最期に、他ならぬ彼に託した願いが。
「言われたんや、美也を護れって……死ぬ前に……そんな、遺された言いつけくらい守れんかったら……あのとき一緒に死なんかった意味がない――」
しかし本当はそれこそが唯一の正解だったのだと、うすうす自分でも気づいていた。
彼女の言いつけを護り切られれば、きっと満たされるだろうと――あの日の自分はそう思ってしまった。
浅はかだった。社会で生きるには――他者と交わらなければならないのに。いや、それが切り捨てて済むようなどうでもいい人間なら――例えばそこで気絶している父親のような――そんなふうには思わなかった。
むしろその逆の――自分と似た境遇にいてもひたむきに日々を生きる少年や、何があっても微笑んで受け止めるおおらかな少女や――ずっと手を差し出し続けてくれる大人が、すぐそこにいると、知ってしまったから。
彼らのように生きられない自分に、絶望した。
「毎日毎日、息するたびに、脈打つたびに、惨めで、侘しくて、みすぼらしゅうて――こんな、こんなんやったら最初から、俺は…………」
何もかも忘れて彼らと同じように暮らすには、母の末期の声が魂にまで残響している。
それ抜きには自分が成り立たないと、千十世は嫌になるほどわかっていた。
あちら側に行けない自分と――
その巻き添えになっている妹。
こんな隘路に立ち尽くさなければならないのなら、最初から。
「生まれてきとうなんて、なかった」
――ずっと心の奥底にあった想いを言葉にして出して、千十世は奇妙な安堵を抱いた。
玉ねぎの鱗片を一枚ずつ剥いで、中心に何もないのを確認したような感覚――そうか、と不思議と頭が冴える。答が出た。驚くほど単純だった。笑えるくらい何もかもまちがっていた。
あいつを落として、そのまま自分も一緒に飛び降りよう。
そうすれば、美也は自分から解放されるし――自分もこの人生から解放される。
そして、冥府の母に縋りつけばいい。言いつけを守れなくてごめんなさい、と。そもそもが、母を護るどころか壊してしまった〝悪い子〟だ。最期の言いつけを守れば〝いい子〟になれるなんて、目算が甘すぎた。父親と何ら変わりないほどの罪をとうの昔に犯しているのだから、何をしたって赦されることなどないのだ。
だからもう、ぜんぶ終わりにしよう。
あの日一緒に死んでいれば味わうことのなかった苦痛を、今日でもう、終わらせて――
「でもうちは……うちはちぃくんが生まれてきてくれて、よかった!!」
叫ぶようなその声が、何を言っているのか――理解が追いつく前に、千十世は胸に熱の塊が押し付けられるのを感じた。
なずなだ。世一郎の前に立ちはだかっていた彼女が、彼に駆け寄って力の限り抱き着いていた。その頭を千十世の胸に、何度も何度も打ちつける。
しゃくりあげながら、それでもなずなは千十世に言葉をぶつける。
「ちぃくん、ちぃくんとうちらにはたくさん……たくさんあったやんか! 初めて出逢ってから、いろいろあって一緒に暮らして……みんなバラバラに暮らすようになってからもそうや。夏も、秋も、冬も、春やって! いつだって、一緒におったやんか!」
彼女は身体を起こし、膝立ちのまま両手を思い切り広げた。
「ここでやって、おんなじ夕焼け何度も見たやんか……ちぃくん、笑ってたやんか! 忘れたなんて言わせへん! どの瞬間やって、ちぃくんがおらんかったらなかった! ぜんぶ、ぜんぶ、ちぃくんがおらなあかったんや!!」
涙でぐちゃぐちゃで、夜目にもわかるほど顔を赤くして、それでもそのまなざしを一瞬たりとも千十世から逸らさない。ただただまっすぐに、全身全霊で、想いを伝えようとしてくる――なずなのその強さに、千十世は唖然とした。
力の抜けきった身体に――心に、なずなの涙が、言葉が、想いが、沁みてくる。その感覚に戸惑って、千十世は狼狽えた。
だめだ、これをうけいれてはならない。
一七年彼を生かしてきた生存本能が、訴える。
「そんな、こと……、」
本能に命じられるがままに彼は拒絶を口にしようとして、舌がもつれた。どうしてか、わからない。答は既に見つけたはずだ。父親もろとも、ここで死ぬのだ。それが自分に遺された唯一の正解だとわかっている――そのはずなのに。
それでいいとさっきまで、思っていたはずなのに。
ぐいっと、襟元が引き寄せられる。千十世がハッとすると、目の前に繁雄の顔があった。先ほどまでかたくなに拘束を解かなかった彼が千十世の隣にしゃがみ込んで、その襟元を固く握ったまま、頭を後ろに反らし――
「それでも足らんのやったら、なぁ!」
勢いのまま、千十世の頭目がけて振り落とした。
今度こそ、千十世は何も考えられなくなる。頭の中どころか、全身の感覚まで強烈な閃光にまで焼き切られたような、そんな衝撃が幾重にも駆け巡った――これに比べれば最初の頭突きなど、子どもが悪戯に点火した爆竹程度のものだ。
どさり、と千十世はその場に倒れこむ。意識はある。でも、反応と認識が追いつかない。激しい痛みがサイレンのように反響しているのに、それをどうにかするための行動にも移れない。
ただ、立ち上がった繁雄が――あんな頭痛を仕掛けてきたくせに、けろりとしている――大の字になった彼を見つめているのはわかる。
「これからなんぼでも作ったらええやろが――生まれてきてよかった思える(そんな)瞬間なんて」
ふん、と鼻を鳴らして、繁雄は背を向けた。そのまま、世一郎が縛られている椅子まで歩いていく。ぎちぎちに巻き付けられたロープを悪態づきながら解く。それを千十世は止められず、ただ眺めるしかできない。
「……ん……私は……いったい……」
繁雄がロープを解き終えた頃、ようやく世一郎は目を覚ました。あたりを見渡し、見知らぬ顔を見つけて、すぐさま状況を悟る。
「お、おお……?! 君たちが助けてくれたのか!!」
「…………」
世一郎は立ち上がり、民衆に向ける態度をすぐとって見せた。いかにも威厳があるふうに胸を反らし、繁雄に右手を差し出す。
「感謝するよ。この礼はかなら、ズ?!」
言い切ることなく、世一郎は床に倒れこんだ。
繁雄の右手が拳を結んで、そのまま垂直に彼の下あごにスマッシュヒットしたのだ。
自分を助けたはずの人間が、次の瞬間襲いかかる……態度の急変に混乱し、世一郎はすぐには立ち上がれない。
繁雄はその傍らにしゃがみ込み、力任せにその襟元を掴んで世一郎に自らの顔を突きつけた。
「もう二度と千十世の前に顔見せんな、去(い)ね」
――どんな表情だったのか、千十世からは見えなかった。それでも、掴まれた手を繁雄が離した途端、世一郎が悲鳴を上げながら走り去ったのを見れば、容易に想像がつく。
風が強く吹いた。
遥か頭上で、曇天すら散らすような風だった。
薄らいだその雲間から月光が降り注ぎ、この場に残った三人を照らす。
ようやく痛みが引いてきて、千十世はよろけつつ身体を起こした。
「……なに、してくれんねん。俺は……あいつは、殺さな、」
「あーあー、うっさいうっさい。どうでもええわ、おまえんちの事情とか。あとさっきから思てたけど、おまえ大阪弁、似合てなさすぎやろ」
面倒この上ないと繁雄は千十世の言葉を遮る。
「文句あるんやったら、さっさといつものおまえに戻って殴りにこいや。ま、ただでは殴らせたらんけどな」
そして、彼には珍しいいたずらな笑みを浮かべて、こう付け加えた。
「まぁ、それでも万が一殴り返せたら、スカッとするん違(ちゃ)うんけ? あー生まれてよかったー、みたいなな」
ぷっとなずなが噴き出す。ツボに入ったのか、クスクス笑いが止まらない。それは、どうしてか千十世にも伝染した。
「なに、それ……めちゃくちゃだ」
結局、自分の望みも企みも、何一つ果たせなかった。それどころか、明日からどうなるのかすらわからない。乱入してきた繁雄となずながしっちゃかめっちゃかに荒らしまくって、すべての計画は白紙になった。
美也を護りたかった。
それしか、自分に生きる理由はなかった。
だから、そのために邪魔になるものはぜんぶ取り払ってきた。
でも――二人は、それがすべてじゃないと言う。生きる理由など――生きててよかったと思える瞬間など、これまでもあったし、これからもあるのだと、いとも容易く言ってのける。
本当に、簡単に言ってくれる……そう思いこめるなら、最初から一七年もこんなねじくれた人生を送ってこなかったのだ。今さら、できるわけがない。そんな都合のいい夢物語を、信じられるのはバカだけだ。
「ほんと、めちゃくちゃだよ……ははっ……」
繁雄もなずなも、自分も、バカだ。そろいもそろっておめでたすぎて、笑わずにはやっていられない。
でもなんで――笑っているのに、涙が出てくるんだろう。
次第に、笑いはだんだん潜んでいって、あとからあとから流れ出す涙に消された。理屈も理由も、わからなかった。千十世はただ、ただ、泣いた。あの日からずっと表に出ることのなかった涙が、堰切ったようにあふれ出る。
ああ、とか、うう、とか、みっともない、子どもじみた泣き声まで上げた。
ひたすらに、そうしていたかった。
そして――その間、繁雄となずなは、ずっと隣にいてくれた。
「おかえり、ちぃくん」
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