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1巻
1-3
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だが、なんとか態勢を立て直そうとしているのが見てとれた。
なるほど、というふうに男がうなずく。
「君たちの事情というのは知るよしもないが。このお嬢さんを守ってやりたいという心意気だけは伝わってくるな」
男の紫色の瞳が、リリーシュアの顔にじっと注がれた。
「このお嬢さんから、従魔が喜んで付き従うような魅力は感じないが……」
独白めいた口調でつぶやかれ、リリーシュアはかっと頬が熱くなるのを感じた。
貧相なほど小さいリリーシュアには、魅力などないと言いたいのだろうか。
(なんて失礼な人……そりゃ、私はマリーベルに婚約者を奪われるくらい、容貌に魅力がないけれど……)
一瞬怒りで頭がいっぱいになったけれど、徐々に落ち込んでしまう。
けれど、考えるよりも先にやるべきことがある。
これ以上面倒なことになる前に、可愛い子どもたちを連れて店の外に出るのだ。
「ロイド、フラウ、行きましょう。こちらの騎士様に、席をお譲りしなくてはね」
「は、はい!」
「そうですね」
ロイドとフラウが同時にうなずく。リリーシュアもうなずいて、三人一緒に席を立とうとした。
「おい、まだ料理がこんなに残ってるじゃないか。俺は別に因縁をつけたいわけじゃないし、幻術を見破ったからといって、君たちに何かをしようとは――」
男は慌てたような表情を見せる。
その時、店の扉が大きく開かれ、何人もの男たちがなだれ込んできた。
「レッバタール公爵様のとこの下廻りの皆さんじゃないですか。一体どうしなさったので!?」
でっぷり太った給仕が、その身体つきにふさわしい大きな声を出す。
リリーシュアたちのテーブルの横に立っている男が、ドアにちらりと目をやって、眉間にしわを寄せた。
「悪いが、座らせてもらうぞ」
男は静かに椅子を引き、何食わぬ顔でリリーシュアの隣に腰を下ろす。そして、リリーシュアに囁いた。
「今は目立たないほうがいい。いいか、君たち。魔力を使おうなどとは考えるな。見たところ、まだ大したことはできないんだろう」
男の言葉に、ロイドとフラウの顔が険しくなる。だが、彼らは浮かせていた腰を素直に下ろした。
リリーシュアも椅子に座りなおし、そっと背後を見遣る。
脛に傷持つやくざ者といった風情の男たちが、給仕と押し問答をしていた。
給仕人は彼らを『レッバタール公爵の下廻り』と言ったが、公爵はまたずいぶんと物騒な連中を飼っているものだ。
レッバタール公爵領は、シェファールド帝国との境界に位置している。防備の必要がある土地柄だから、こんなやくざ者がいるのだろうか。
給仕は怯えるように彼らに言う。
「すみませんが、見ての通りの満席で……後から旦那方の根城まで、酒と料理は届けますんで」
「俺たちは人を探してるんだ。悪いが、店内をぐるっと一周させてもらうぜ」
やくざ者の言葉に、ロイドがひゅっと息を呑んだ。
「リリーシュア様。急いでスカーフをかぶってください」
フラウも切羽詰まった声を出す。
(私たちを追ってきたの? この子たちの身にも危険が及ぶかもしれない? どうしてここにいることがバレたのだろう?)
リリーシュアは震える指先で、膝の上に置いていたスカーフを広げた。
「いやいや、勘弁してください。うちはちんけな店ですが、誇りを持ってやらせてもらってるんです」
奥のほうから、給仕とは別の男の声がする。どうやら店主のようだ。
彼はリリーシュアたちの席の横をすり抜け、勇敢にもごろつきたちに向かっていく。
「料理を楽しんでるお客様を困らせるような真似は、しないでもらいましょうか!」
店主の強い口調の怒鳴り声に、ごろつきのひとりが答えた。
「おお、店主。悪いが、こっちも引けねえんだよ。何しろレッバタール公爵様のところに、伝書鳥が飛んできたんだ。ここの隣のよ、アッヘンヴァルの領主からな」
伝書鳥! リリーシュアの心臓が激しく高鳴った。
馬車の何倍もの速さで移動できる小型の鳥であるミロットは、緊急時の連絡手段として重宝されている。
ミロットは非常に賢いが繁殖が難しい。
そのため各領地にひとつずつ置いてある飼育小屋は国の出先機関であり、その管理は領主の権限の外にある。
平民でもミロットを使って気軽に手紙を送ることができるが、必ず本人確認をし、役人の許可を得なければならない。
それは、アッヘンヴァル侯爵でも同じこと。
つまり領主の名前で伝書鳥を飛ばしたのなら、手紙の内容はそのまま父の意思であるということなのだ。
(お父様は一体、レッバタール公爵にどんな連絡を――)
スカーフを頭にふわりとのせ、反対側の肩にかけるように顎の下でクロスさせる。
慎み深い妙齢の淑女は、身を守りたい時にはこのような巻き方をするもの。リリーシュアの取った行動は、決して不自然ではないはずだ。
自分と同じようにスカーフを巻いている女性の姿を確認して、リリーシュアはうつむいた。
ごろつきは、なおも大声で店主を説得する。
「レッバタール公爵に命じられてよ、俺たちもバタバタだ。十七歳の娘が逃げ出したんだと。うちの領内に逃げ込んだようだから、ひっ捕らえて連れてこいとさ。生死も問わねえってんだから、きっと罪人か何かだな。なに、探し人は金を持ってないそうだから、どうせこの店にはいねえよ。ちょこっと見回らせてくれ。な、頼むよ」
リリーシュアは息を呑んだ。心臓に刃を突き立てられた気がした。
ごろつきはそんなリリーシュアに構わず、なおも続ける。
「アッヘンヴァルから懸賞金も出てるらしいぜ。俺たちゃそれが欲しいってのもあるが、まあうちの公爵様の顔を立てるって意味でもよ、探さなきゃならんのよ。修道院に逃げたんじゃねえかって話なんだが、それらしい娘はいなくてなあ」
リリーシュアの頭の中で、記憶がくるくると渦を巻いた。
勝ち誇り、嘲るように唇を吊り上げるマリーベルの顔。
残忍な笑みで歪む義母ドミニクの顔。
それから、リリーシュアから目を逸らしてばかりだった父の顔。
「ドブネズミみてえなきたねえ茶色いドレスで、蜂蜜色の髪と緑の目の娘がいないことを確認したらよ、すぐに出てくから」
それはリリーシュアの心を抉る、とどめの一撃だった。
じくじくと心が血を流しているのを感じる。
頭のどこかで、リリーシュアは信じていたのだ。
修道院に駆け込んで、一生を神に捧げる誓いを立てれば、父は見逃してくれるのではないかと。
マリーベルと義母は烈火のごとく怒るだろうが、父の心の中に、リリーシュアへの愛の欠片が残っているのではないかと。
(私に、もう、父親はいない)
よりによってこんな日に。
十八歳の誕生日に。
娘の年齢すら忘れた父は、自らの意思で残酷な決断を下したのだ。
赤い巻きスカートに、ぽと、ぽと、と雫が落ちるのが見えた。
涙が頬を伝っていることに気づいて、リリーシュアは己を抱き締めるように、ぎゅっと二の腕を掴む。
「すみませんねえ、お客様方。レッバタール公爵の意向じゃ逆らえねえ。お詫びに、後で一品サービスさせてもらいますんで」
諦めたような店主の言葉に、ついさっきまで和気藹々としていた客たちの緊張感が高まった。
いくつもの足音が空気を乱す。それはまるで飢えた野良犬のような、短気で粗暴な響きだった。
「いいか、ちびっ子たち。魔力は使うな、このお嬢さんを守りたければな。幻術はともかく、魔力で大の大人をやり込めれば、君たちは確実にレティングの王宮に連れていかれる。この国には、『魔力持ち』が見つかった際の処遇に関して、きな臭い噂がある。それ以前に、ちびっ子たちは……本当の正体が知られたら、何をされるかわからないぞ」
リリーシュアの傍らの男が言う。小さな声だが、有無を言わせない厳しさがあった。
ロイドとフラウの身体が、びくん、と揺れる。
チャリ、と小さな金属の音がした。
涙で潤む視界の端に、男の太い手首が見える。無骨でシンプルな銀のブレスレットが巻かれていた。
それを見たフラウは何かに勘づいたのか、小さく息を呑む。
ブレスレットからぶら下がっている小さな銀板には、複雑な文様が彫られていた。
男は指先で銀板が上向きになるように調整し、まるで見せつけるように手首をテーブルの上に置いた。
「事情は知らないが、泣いている淑女を無視するのは騎士の精神に反する。それに、君たちからは悪しき気配も感じないしな。俺がなんとかするから、黙っているんだ」
ロイドとフラウが互いに顔を見合わせ、それから緊張の面持ちでうなずく。
リリーシュアは頭がくらくらして、傍らの男が何を言っているのか、よくわからなかった。
(私が、一体何をしたというのだろう……死にたくない。逃げたい。助けて。怖い)
塔で暮らした日々は、ひと言でいえば苦しかった。
ネズミのロイドとフラウがいてもなお孤独だったし、怖かったし、退屈で、未来なんか見えなかった。
自由を奪われて、息を潜めて暮らしていた。
病気になった時には、母の形見のハンカチを握り締めて眠った。目覚めると、枕元に必ず薬が置いてあった。
もしかしたら、父が差し入れてくれたのかもしれないと思っていた。
義母の手前リリーシュアを冷遇しなければならないだけだと、一縷の望みを抱いたのだ。
美しい母が元気だったころ、リリーシュアも華やかなドレスを身にまとって、幸福に包まれて、父も一緒になって笑い合っていたことを覚えている。
だから父にはやむにやまれぬ事情があるに違いないと、信じる気持ちを捨てきれなかった。
(今の私には、本当に何ひとつ、ない。それなのに、お父様は私の命まで奪うというの)
あまりの衝撃に、心が引き裂かれそうになる。
(どうして私だけが、こんな目に遭わなければならないの……っ!)
そう思った瞬間、リリーシュアの中で何かが壊れた。
心の一部が吹き飛び、ガラガラと崩れ落ちる音が、大音量で聞こえる気がする。
「リリーシュア様、リリーシュア様、泣かないで……」
「くそ、俺さえちゃんと力を使えたら……」
ロイドとフラウの声があまりに悲しげなので、リリーシュアは無理に背筋を伸ばし、彼らの目を見た。
澄みきっていたはずの子どもたちの目が、憤怒と苦痛に満ちている。
(そうだ、私にはこの子たちがいる。この子たちを、危険な目に遭わせてはならない。守らなくてはならない)
打ちのめされ、絶望的に冷えきっていた心に、わずかにあたたかさが戻った。
ロイドとフラウがくれた、まばゆい景色。楽しい時間。そして、自由。
それらを思い出した時、若いごろつきが下卑た笑みを浮かべながら、店の奥にあるリリーシュアたちのテーブルへ近づいてきた。
「えーっと、女は、と。ふん、そっちの大女は銀髪か。おお、こっちの娘は緑の目だな。手間とらせんじゃねえよ、さっさとスカーフを外しな」
「おいおい、俺の連れが十七歳に見えるのか? アンタ、目がどうかしてるんじゃないか」
若いごろつきに向かって、リリーシュアの隣に座る男が冷ややかな声を出す。
「なんだとぉっ! ここいらを仕切ってんのは俺たちだって、知らないわけじゃねえだろう! おめえらには『はい』以外、答える権利はねえんだよっ!」
ごろつきが苛立った様子で、身を屈めて男ににじり寄った。
「へえ、そうなのか。それは知らなかった」
しかし、男の声は涼しいものだ。若いごろつきはあからさまに不愉快そうな顔になって、太い眉を寄せる。
恐怖のあまり震えそうになる身体を、リリーシュアは必死になって押さえ込んだ。
(ロイド、フラウ。貴方たちとの時間がこれで最後になるなんて、絶対に嫌。こうなったら、何がなんでも逃げてやる)
ロイドとフラウとは、まだまだ話さなければならないことがある気がするのだ。それが何かは、正直よくわからないけれど。
買ってすぐにお直しに出したドレスだって、袖を通さなければ可哀想だ。
「おめえ、ちょっとは腕に覚えがありそうだが。力任せの喧嘩で、俺たちに勝てるとでも――」
「おいおい、どうしたどうした」
若いごろつきの背後から、数人の屈強な男たちが近づいてきた。
隣の男がもし強かったとしても、一対多数では勝ち目はなさそうだ。
唯一の安心材料は、ごろつきたちの目にも、ロイドとフラウの姿が『おまじない』のかかったものに見えているらしいこと。それでも、実際は小さな子どもにすぎない。
(こんな男たちに、数人がかりでねじ伏せられたら……この人は、どうするつもりなのかしら。ああ、子どもたちを守ろうにもやり方がわからない。でも、どんなことをしても、ロイドとフラウを傷つけたくない)
リリーシュアは、強くそう思った。
父に対しての悔しい思いが詰まっている胸の、そのど真ん中で。
身体中の血がたぎるのを感じる。
体内を駆け巡る血液が、「私だって自由に生きたいのだ」と叫んでいるようだった。
若いごろつきは、屈強な男たちに声をかける。
「ああ、親分と兄貴たち、いいところに。この男が生意気言いやがるもんで、いっちょ締め上げてやろうかと」
すると、柄は悪いが目尻のしわが深く、どこか愛嬌のある顔つきの男が叫び声をあげた。
「ん? お、おい、そのブレスレットの、その紋章は!」
彼の視線はテーブルの上の男の手首、さらに言えばブレスレットについた銀板に釘づけになっている。
「お、親分。どうしなさったんで?」
驚いた様子の若いごろつきに対し、親分と呼ばれた壮年の男は声を荒らげた。
「馬鹿もんがっ! あれは、シェファールド帝国騎士団の紋章だろうが! 今は諍いを起こすなと、レッバタール公爵からも口を酸っぱくして言われてるだろうっ!」
シェファールド帝国の騎士団!
リリーシュアは、記憶の彼方で薄れかかっていた母の言葉を思い出した。
(集団としての強さ、規律正しさは大陸で一番。おまけに騎士一人一人が、片手で百人の敵を薙ぐほどに強い……)
毎晩寝しなに物語を聞かせてくれた母が、小さなリリーシュアに隣国の騎士団の強さについて語ってくれたことがあった。
百人はさすがに言い過ぎにしても、帝国の騎士ならば、並大抵の強さではないはずだ。
「騎士の旦那、こっちにも色々事情がありましてねえ。一応、確認させていただきます。そっちのお二人と、隣のお嬢様は、旦那のお連れさんで間違いないですな?」
ごろつきの親分は、目をしょぼしょぼさせながら尋ねた。
騎士は極めて淡々と、無表情に答える。
「そうだ。あっちの二人は俺の従者だ。そして、こっちは彼らの娘で十三歳。可哀想に、アンタらが脅かすもんだから、怯えて泣いてしまった」
言うに事欠いて十三歳とは! いくらなんでもそこまで小さくはないはず!
リリーシュアの頭にかっと血が上った。
親分は腕を組んで眉を顰め「たしかに、小せえな」とつぶやいた。
(十三歳……が、悔しいことはさておき……。どうしよう、なんだか身体が……おかしい。身体が、燃えるように熱い……!)
子どもだと思われたことへの羞恥もあるが、この熱さはそのせいばかりではなさそうだ。
さっき「壊れた」と思った瞬間から、身体の中で、何かが急速に膨らんでいるのを感じるのだ。
わけのわからないものがリリーシュアの身体の中で膨らんでは弾け、そのたびに熱くなった。
まるで炎が燃え盛るように。
全身から湯気が立ち上っているようにさえ思えて、太腿の上に置いた手のひらを、ぎゅっと握り締めた。
リリーシュアが戸惑っているうちにも、親分と騎士の話は続く。
「そもそも隣の女、着ている服が違いますしな。金のねえ娘っ子が、服屋で盗みを働いたって報告もありやせんし。ところで旦那、こちらへはなんのご用件で?」
親分がわずかに問い詰めるような口調になる。騎士はさらりと答えた。
「そこまで答える義理はないと思うが。戦争をしているわけじゃなし、一族郎党を連れての物見遊山くらい、そっちの連中もするだろう」
「はは、たしかにそうだ。いやいや、失礼いたしました。うちのわけぇのは単細胞なんで、必要ないところにまで突っかかっちまう。おい、お前。こちらのお嬢さんは探し人じゃねえよ。そもそも、罪人がシェファールドの騎士様と一緒にいるはずねえだろうが!」
親分にどやしつけられて、若いごろつきは苦虫を噛み潰したような顔になった。親分は、騎士の機嫌を取るように尋ねる。
「騎士の旦那。念のため、お名前をお聞きしても?」
「ジークヴァルト・ギーアスター。どこへでも問い合わせるがいい」
親分はそれを聞いて、ほうと目を丸くした。
「いやいや、そんな。しかしジークヴァルトとは、シェファールドの皇太子様と同じ名前ですな」
「まあな。シェファールドでは、ありふれた名前だ」
ジークヴァルトと名乗った騎士の顔は、相変わらず涼しいままだった。親分はしばらく彼をじっと眺めた後、うっすらと意味ありげに微笑む。
「いずれにしろ、高貴な方のお名前でしょう。いや、平民の味を楽しんでおられたんでしょうに、失礼しました。さあ、おめえら行くぞ!」
親分に促されて、いかつい顔の男たちがテーブルから離れていく。
彼らは残りのテーブルが男ばかりの集団であることを確認すると、さっさと出入口へ向かっていった。
さっきジークヴァルトに食ってかかった若いごろつきが振り返り、ふん、と鼻を鳴らしたが、それだけだった。
ごろつきたちが店を出ていくと、全身を緊張させていた客たちが、ほうっと息を吐く様子が伝わってくる。
「お嬢さん、震えている場合じゃないぞ。あの親分は勘が鋭そうだ。さっさと安全な場所に移動したほうがいい」
静かで落ち着いたジークヴァルトの声が、頭の上から降ってくる。
リリーシュアはため息をつこうとした。だが、喉から絞り出されたのは呻き声だった。
「リリーシュア様!」
ロイドが叫んだ。
「様子がおかしい。まさか門が一気に開いたんじゃ……」
フラウが険しい口調で言う。
「門? ……もしかして『魔力の門』か? お嬢さん、身体の様子を口に出して伝えてくれ!」
ジークヴァルトが身体を屈めて、リリーシュアの顔を覗き込んでくる。
ごろつきたちに尖った眼差しを向けられても落ち着き払っていた人が、わずかに焦りを見せていた。
「わからない……ただ、苦しくてたまらないの。身体の中で、何かが暴れまわってる」
リリーシュアは両手で顔を押さえて答えた。
心臓が、痛いほど高鳴っている。
いてもたってもいられないというのは、こういうことを言うのだろう。本当は頭を抱えて、その場を転げ回りたいくらいだ。
苦しくて苦しくて、暴れでもしない限り、どうしようもないように思えた。
「何かが……何かがあり余ってる……燃え盛る炎のような……身体を焦がす何か……」
懸命にじっとしていても、幾筋もの汗が首筋を伝って落ちる。
体内で次々に生まれた熱が行き場を失い、皮膚を突き破る勢いで暴れ回った。
あまりの痛みに脳味噌がぎしぎしと音を立てる。
その苦痛は、まるでリリーシュア自身を破壊しようとしているかのようだった。
「まさか、そんな……『魔力の門』は、リリーシュア様の身体の成長が追いつくまで、完全には開かないはずじゃ……」
「どうしよう、ねえ、どうしよう! 魔力が外に漏れてこないってことは、全部が内側で暴れ回ってるってことよ! このままじゃ、リリーシュア様の身体が……!」
愛しい子どもたちが、混乱し動揺している。
リリーシュアは耐えがたいほどの痛みと闘いながら、ひび割れた口の隙間から「大丈夫」とつぶやいた。
「大丈夫だから、心配しないで……」
本当は不安でいっぱいになっている。
喉がからからに渇き、気分もひどく悪い。それでもリリーシュアは懸命に笑ってみせた。
門とは、魔力とはどういうことだろう? リリーシュアにはまるでぴんとこない。
だんだん身体が痺れてきて、思考力が失われていく。
けれど頭の中で思うのは、ただロイドとフラウを心配させたくないということだけだった。
「お嬢さん、触れさせてもらうぞ。淑女が困っている時、まともな男ならするに決まっていることだ」
真剣な表情でこちらを見るジークヴァルトに、リリーシュアはこくんとうなずいてみせた。
大きな手が隣からぱっと伸びてきて、リリーシュアの指先をぎゅうっと包み込む。
リリーシュアは、全身がびくんと脈打つのを感じた。
「この力は……火か。いや、簡単には分類できない性質も感じるな。何より、この熱は……」
決して周囲には聞こえないくらいのジークヴァルトの声が、リリーシュアの体内で響く。
繋がった指先から、柔らかい感覚がすうっと流れ込んできた。
それは穏やかな風のように、リリーシュアの胸の中で渦を巻く。
(いえ、風じゃない。これは……光? 澄みきった、一点の曇りもない……)
ジークヴァルトは、リリーシュアの身体を引き寄せた。抵抗する間もなかった。
気が付くとリリーシュアは、彼の胸に耳を押しつける格好で抱き締められていた。
「お嬢さん。君は今、危険な状態にある。処置できる医者のところまで、運ばせてもらうぞ」
激しく戸惑うべき場面なのに、リリーシュアは引き締まった胸に素直に身体を預けた。
なぜかはわからない。
でもこの人は、死よりも悪い運命から、リリーシュアを救おうとしてくれている。そう感じた。
ふわりと身体が浮いた。
ジークヴァルトがリリーシュアを横抱きにして、すっくと立ち上がったのだ。
涙をきらきら光らせるロイド、切羽詰まった顔のフラウに笑いかけてあげたいのに、リリーシュアの意識は薄れていく。
一体この先に、何が待ち構えているのだろう。
果たして自分は、このままどこへ行くのだろうか。
リリーシュアはぼんやりと霞んでいく頭で、そんなことを思った。
第三章
いろんな声が聞こえる。たくさんの人が、しきりに何かを話しかけてくる。
でも、リリーシュアは自分がどう答えたのかわからなかった。自分の身体が自分のものではないみたいで、意識が朦朧としている。
みんながびっくりするほど親切に、リリーシュアの身体を扱っていることはわかる。
なのに、すべての物音が妙に遠くて、不思議なくらい現実感がない。
リリーシュアの中で怒涛のように溢れ返る、手の施しようのない『何か』は、リリーシュアの意思や理性とは無関係に高まっていた。
血が煮えたぎる。苦しくて、心細くて、誰かに側にいてほしくて。
悲鳴をあげながらリリーシュアが宙へ伸ばした手を、誰かが強く掴んだ。
握り締められた手から、あたたかいさざ波のようなものが押し寄せてくる。
(――気持ちいい……)
誰かが注いでくれるその感覚を、リリーシュアは好ましいと思った。
すると燃え盛って、どうしようもなくなっていた『何か』が鎮まり、身体を突き刺すような痛みも徐々におさまってきた。
ぼんやりとした視界に、まばゆい光に包まれた青年の姿が映る。
見間違いではなく、彼の身体は黄金色に輝いていた。
「天使様?」
リリーシュアはうっとりした口調でつぶやく。
なるほど、というふうに男がうなずく。
「君たちの事情というのは知るよしもないが。このお嬢さんを守ってやりたいという心意気だけは伝わってくるな」
男の紫色の瞳が、リリーシュアの顔にじっと注がれた。
「このお嬢さんから、従魔が喜んで付き従うような魅力は感じないが……」
独白めいた口調でつぶやかれ、リリーシュアはかっと頬が熱くなるのを感じた。
貧相なほど小さいリリーシュアには、魅力などないと言いたいのだろうか。
(なんて失礼な人……そりゃ、私はマリーベルに婚約者を奪われるくらい、容貌に魅力がないけれど……)
一瞬怒りで頭がいっぱいになったけれど、徐々に落ち込んでしまう。
けれど、考えるよりも先にやるべきことがある。
これ以上面倒なことになる前に、可愛い子どもたちを連れて店の外に出るのだ。
「ロイド、フラウ、行きましょう。こちらの騎士様に、席をお譲りしなくてはね」
「は、はい!」
「そうですね」
ロイドとフラウが同時にうなずく。リリーシュアもうなずいて、三人一緒に席を立とうとした。
「おい、まだ料理がこんなに残ってるじゃないか。俺は別に因縁をつけたいわけじゃないし、幻術を見破ったからといって、君たちに何かをしようとは――」
男は慌てたような表情を見せる。
その時、店の扉が大きく開かれ、何人もの男たちがなだれ込んできた。
「レッバタール公爵様のとこの下廻りの皆さんじゃないですか。一体どうしなさったので!?」
でっぷり太った給仕が、その身体つきにふさわしい大きな声を出す。
リリーシュアたちのテーブルの横に立っている男が、ドアにちらりと目をやって、眉間にしわを寄せた。
「悪いが、座らせてもらうぞ」
男は静かに椅子を引き、何食わぬ顔でリリーシュアの隣に腰を下ろす。そして、リリーシュアに囁いた。
「今は目立たないほうがいい。いいか、君たち。魔力を使おうなどとは考えるな。見たところ、まだ大したことはできないんだろう」
男の言葉に、ロイドとフラウの顔が険しくなる。だが、彼らは浮かせていた腰を素直に下ろした。
リリーシュアも椅子に座りなおし、そっと背後を見遣る。
脛に傷持つやくざ者といった風情の男たちが、給仕と押し問答をしていた。
給仕人は彼らを『レッバタール公爵の下廻り』と言ったが、公爵はまたずいぶんと物騒な連中を飼っているものだ。
レッバタール公爵領は、シェファールド帝国との境界に位置している。防備の必要がある土地柄だから、こんなやくざ者がいるのだろうか。
給仕は怯えるように彼らに言う。
「すみませんが、見ての通りの満席で……後から旦那方の根城まで、酒と料理は届けますんで」
「俺たちは人を探してるんだ。悪いが、店内をぐるっと一周させてもらうぜ」
やくざ者の言葉に、ロイドがひゅっと息を呑んだ。
「リリーシュア様。急いでスカーフをかぶってください」
フラウも切羽詰まった声を出す。
(私たちを追ってきたの? この子たちの身にも危険が及ぶかもしれない? どうしてここにいることがバレたのだろう?)
リリーシュアは震える指先で、膝の上に置いていたスカーフを広げた。
「いやいや、勘弁してください。うちはちんけな店ですが、誇りを持ってやらせてもらってるんです」
奥のほうから、給仕とは別の男の声がする。どうやら店主のようだ。
彼はリリーシュアたちの席の横をすり抜け、勇敢にもごろつきたちに向かっていく。
「料理を楽しんでるお客様を困らせるような真似は、しないでもらいましょうか!」
店主の強い口調の怒鳴り声に、ごろつきのひとりが答えた。
「おお、店主。悪いが、こっちも引けねえんだよ。何しろレッバタール公爵様のところに、伝書鳥が飛んできたんだ。ここの隣のよ、アッヘンヴァルの領主からな」
伝書鳥! リリーシュアの心臓が激しく高鳴った。
馬車の何倍もの速さで移動できる小型の鳥であるミロットは、緊急時の連絡手段として重宝されている。
ミロットは非常に賢いが繁殖が難しい。
そのため各領地にひとつずつ置いてある飼育小屋は国の出先機関であり、その管理は領主の権限の外にある。
平民でもミロットを使って気軽に手紙を送ることができるが、必ず本人確認をし、役人の許可を得なければならない。
それは、アッヘンヴァル侯爵でも同じこと。
つまり領主の名前で伝書鳥を飛ばしたのなら、手紙の内容はそのまま父の意思であるということなのだ。
(お父様は一体、レッバタール公爵にどんな連絡を――)
スカーフを頭にふわりとのせ、反対側の肩にかけるように顎の下でクロスさせる。
慎み深い妙齢の淑女は、身を守りたい時にはこのような巻き方をするもの。リリーシュアの取った行動は、決して不自然ではないはずだ。
自分と同じようにスカーフを巻いている女性の姿を確認して、リリーシュアはうつむいた。
ごろつきは、なおも大声で店主を説得する。
「レッバタール公爵に命じられてよ、俺たちもバタバタだ。十七歳の娘が逃げ出したんだと。うちの領内に逃げ込んだようだから、ひっ捕らえて連れてこいとさ。生死も問わねえってんだから、きっと罪人か何かだな。なに、探し人は金を持ってないそうだから、どうせこの店にはいねえよ。ちょこっと見回らせてくれ。な、頼むよ」
リリーシュアは息を呑んだ。心臓に刃を突き立てられた気がした。
ごろつきはそんなリリーシュアに構わず、なおも続ける。
「アッヘンヴァルから懸賞金も出てるらしいぜ。俺たちゃそれが欲しいってのもあるが、まあうちの公爵様の顔を立てるって意味でもよ、探さなきゃならんのよ。修道院に逃げたんじゃねえかって話なんだが、それらしい娘はいなくてなあ」
リリーシュアの頭の中で、記憶がくるくると渦を巻いた。
勝ち誇り、嘲るように唇を吊り上げるマリーベルの顔。
残忍な笑みで歪む義母ドミニクの顔。
それから、リリーシュアから目を逸らしてばかりだった父の顔。
「ドブネズミみてえなきたねえ茶色いドレスで、蜂蜜色の髪と緑の目の娘がいないことを確認したらよ、すぐに出てくから」
それはリリーシュアの心を抉る、とどめの一撃だった。
じくじくと心が血を流しているのを感じる。
頭のどこかで、リリーシュアは信じていたのだ。
修道院に駆け込んで、一生を神に捧げる誓いを立てれば、父は見逃してくれるのではないかと。
マリーベルと義母は烈火のごとく怒るだろうが、父の心の中に、リリーシュアへの愛の欠片が残っているのではないかと。
(私に、もう、父親はいない)
よりによってこんな日に。
十八歳の誕生日に。
娘の年齢すら忘れた父は、自らの意思で残酷な決断を下したのだ。
赤い巻きスカートに、ぽと、ぽと、と雫が落ちるのが見えた。
涙が頬を伝っていることに気づいて、リリーシュアは己を抱き締めるように、ぎゅっと二の腕を掴む。
「すみませんねえ、お客様方。レッバタール公爵の意向じゃ逆らえねえ。お詫びに、後で一品サービスさせてもらいますんで」
諦めたような店主の言葉に、ついさっきまで和気藹々としていた客たちの緊張感が高まった。
いくつもの足音が空気を乱す。それはまるで飢えた野良犬のような、短気で粗暴な響きだった。
「いいか、ちびっ子たち。魔力は使うな、このお嬢さんを守りたければな。幻術はともかく、魔力で大の大人をやり込めれば、君たちは確実にレティングの王宮に連れていかれる。この国には、『魔力持ち』が見つかった際の処遇に関して、きな臭い噂がある。それ以前に、ちびっ子たちは……本当の正体が知られたら、何をされるかわからないぞ」
リリーシュアの傍らの男が言う。小さな声だが、有無を言わせない厳しさがあった。
ロイドとフラウの身体が、びくん、と揺れる。
チャリ、と小さな金属の音がした。
涙で潤む視界の端に、男の太い手首が見える。無骨でシンプルな銀のブレスレットが巻かれていた。
それを見たフラウは何かに勘づいたのか、小さく息を呑む。
ブレスレットからぶら下がっている小さな銀板には、複雑な文様が彫られていた。
男は指先で銀板が上向きになるように調整し、まるで見せつけるように手首をテーブルの上に置いた。
「事情は知らないが、泣いている淑女を無視するのは騎士の精神に反する。それに、君たちからは悪しき気配も感じないしな。俺がなんとかするから、黙っているんだ」
ロイドとフラウが互いに顔を見合わせ、それから緊張の面持ちでうなずく。
リリーシュアは頭がくらくらして、傍らの男が何を言っているのか、よくわからなかった。
(私が、一体何をしたというのだろう……死にたくない。逃げたい。助けて。怖い)
塔で暮らした日々は、ひと言でいえば苦しかった。
ネズミのロイドとフラウがいてもなお孤独だったし、怖かったし、退屈で、未来なんか見えなかった。
自由を奪われて、息を潜めて暮らしていた。
病気になった時には、母の形見のハンカチを握り締めて眠った。目覚めると、枕元に必ず薬が置いてあった。
もしかしたら、父が差し入れてくれたのかもしれないと思っていた。
義母の手前リリーシュアを冷遇しなければならないだけだと、一縷の望みを抱いたのだ。
美しい母が元気だったころ、リリーシュアも華やかなドレスを身にまとって、幸福に包まれて、父も一緒になって笑い合っていたことを覚えている。
だから父にはやむにやまれぬ事情があるに違いないと、信じる気持ちを捨てきれなかった。
(今の私には、本当に何ひとつ、ない。それなのに、お父様は私の命まで奪うというの)
あまりの衝撃に、心が引き裂かれそうになる。
(どうして私だけが、こんな目に遭わなければならないの……っ!)
そう思った瞬間、リリーシュアの中で何かが壊れた。
心の一部が吹き飛び、ガラガラと崩れ落ちる音が、大音量で聞こえる気がする。
「リリーシュア様、リリーシュア様、泣かないで……」
「くそ、俺さえちゃんと力を使えたら……」
ロイドとフラウの声があまりに悲しげなので、リリーシュアは無理に背筋を伸ばし、彼らの目を見た。
澄みきっていたはずの子どもたちの目が、憤怒と苦痛に満ちている。
(そうだ、私にはこの子たちがいる。この子たちを、危険な目に遭わせてはならない。守らなくてはならない)
打ちのめされ、絶望的に冷えきっていた心に、わずかにあたたかさが戻った。
ロイドとフラウがくれた、まばゆい景色。楽しい時間。そして、自由。
それらを思い出した時、若いごろつきが下卑た笑みを浮かべながら、店の奥にあるリリーシュアたちのテーブルへ近づいてきた。
「えーっと、女は、と。ふん、そっちの大女は銀髪か。おお、こっちの娘は緑の目だな。手間とらせんじゃねえよ、さっさとスカーフを外しな」
「おいおい、俺の連れが十七歳に見えるのか? アンタ、目がどうかしてるんじゃないか」
若いごろつきに向かって、リリーシュアの隣に座る男が冷ややかな声を出す。
「なんだとぉっ! ここいらを仕切ってんのは俺たちだって、知らないわけじゃねえだろう! おめえらには『はい』以外、答える権利はねえんだよっ!」
ごろつきが苛立った様子で、身を屈めて男ににじり寄った。
「へえ、そうなのか。それは知らなかった」
しかし、男の声は涼しいものだ。若いごろつきはあからさまに不愉快そうな顔になって、太い眉を寄せる。
恐怖のあまり震えそうになる身体を、リリーシュアは必死になって押さえ込んだ。
(ロイド、フラウ。貴方たちとの時間がこれで最後になるなんて、絶対に嫌。こうなったら、何がなんでも逃げてやる)
ロイドとフラウとは、まだまだ話さなければならないことがある気がするのだ。それが何かは、正直よくわからないけれど。
買ってすぐにお直しに出したドレスだって、袖を通さなければ可哀想だ。
「おめえ、ちょっとは腕に覚えがありそうだが。力任せの喧嘩で、俺たちに勝てるとでも――」
「おいおい、どうしたどうした」
若いごろつきの背後から、数人の屈強な男たちが近づいてきた。
隣の男がもし強かったとしても、一対多数では勝ち目はなさそうだ。
唯一の安心材料は、ごろつきたちの目にも、ロイドとフラウの姿が『おまじない』のかかったものに見えているらしいこと。それでも、実際は小さな子どもにすぎない。
(こんな男たちに、数人がかりでねじ伏せられたら……この人は、どうするつもりなのかしら。ああ、子どもたちを守ろうにもやり方がわからない。でも、どんなことをしても、ロイドとフラウを傷つけたくない)
リリーシュアは、強くそう思った。
父に対しての悔しい思いが詰まっている胸の、そのど真ん中で。
身体中の血がたぎるのを感じる。
体内を駆け巡る血液が、「私だって自由に生きたいのだ」と叫んでいるようだった。
若いごろつきは、屈強な男たちに声をかける。
「ああ、親分と兄貴たち、いいところに。この男が生意気言いやがるもんで、いっちょ締め上げてやろうかと」
すると、柄は悪いが目尻のしわが深く、どこか愛嬌のある顔つきの男が叫び声をあげた。
「ん? お、おい、そのブレスレットの、その紋章は!」
彼の視線はテーブルの上の男の手首、さらに言えばブレスレットについた銀板に釘づけになっている。
「お、親分。どうしなさったんで?」
驚いた様子の若いごろつきに対し、親分と呼ばれた壮年の男は声を荒らげた。
「馬鹿もんがっ! あれは、シェファールド帝国騎士団の紋章だろうが! 今は諍いを起こすなと、レッバタール公爵からも口を酸っぱくして言われてるだろうっ!」
シェファールド帝国の騎士団!
リリーシュアは、記憶の彼方で薄れかかっていた母の言葉を思い出した。
(集団としての強さ、規律正しさは大陸で一番。おまけに騎士一人一人が、片手で百人の敵を薙ぐほどに強い……)
毎晩寝しなに物語を聞かせてくれた母が、小さなリリーシュアに隣国の騎士団の強さについて語ってくれたことがあった。
百人はさすがに言い過ぎにしても、帝国の騎士ならば、並大抵の強さではないはずだ。
「騎士の旦那、こっちにも色々事情がありましてねえ。一応、確認させていただきます。そっちのお二人と、隣のお嬢様は、旦那のお連れさんで間違いないですな?」
ごろつきの親分は、目をしょぼしょぼさせながら尋ねた。
騎士は極めて淡々と、無表情に答える。
「そうだ。あっちの二人は俺の従者だ。そして、こっちは彼らの娘で十三歳。可哀想に、アンタらが脅かすもんだから、怯えて泣いてしまった」
言うに事欠いて十三歳とは! いくらなんでもそこまで小さくはないはず!
リリーシュアの頭にかっと血が上った。
親分は腕を組んで眉を顰め「たしかに、小せえな」とつぶやいた。
(十三歳……が、悔しいことはさておき……。どうしよう、なんだか身体が……おかしい。身体が、燃えるように熱い……!)
子どもだと思われたことへの羞恥もあるが、この熱さはそのせいばかりではなさそうだ。
さっき「壊れた」と思った瞬間から、身体の中で、何かが急速に膨らんでいるのを感じるのだ。
わけのわからないものがリリーシュアの身体の中で膨らんでは弾け、そのたびに熱くなった。
まるで炎が燃え盛るように。
全身から湯気が立ち上っているようにさえ思えて、太腿の上に置いた手のひらを、ぎゅっと握り締めた。
リリーシュアが戸惑っているうちにも、親分と騎士の話は続く。
「そもそも隣の女、着ている服が違いますしな。金のねえ娘っ子が、服屋で盗みを働いたって報告もありやせんし。ところで旦那、こちらへはなんのご用件で?」
親分がわずかに問い詰めるような口調になる。騎士はさらりと答えた。
「そこまで答える義理はないと思うが。戦争をしているわけじゃなし、一族郎党を連れての物見遊山くらい、そっちの連中もするだろう」
「はは、たしかにそうだ。いやいや、失礼いたしました。うちのわけぇのは単細胞なんで、必要ないところにまで突っかかっちまう。おい、お前。こちらのお嬢さんは探し人じゃねえよ。そもそも、罪人がシェファールドの騎士様と一緒にいるはずねえだろうが!」
親分にどやしつけられて、若いごろつきは苦虫を噛み潰したような顔になった。親分は、騎士の機嫌を取るように尋ねる。
「騎士の旦那。念のため、お名前をお聞きしても?」
「ジークヴァルト・ギーアスター。どこへでも問い合わせるがいい」
親分はそれを聞いて、ほうと目を丸くした。
「いやいや、そんな。しかしジークヴァルトとは、シェファールドの皇太子様と同じ名前ですな」
「まあな。シェファールドでは、ありふれた名前だ」
ジークヴァルトと名乗った騎士の顔は、相変わらず涼しいままだった。親分はしばらく彼をじっと眺めた後、うっすらと意味ありげに微笑む。
「いずれにしろ、高貴な方のお名前でしょう。いや、平民の味を楽しんでおられたんでしょうに、失礼しました。さあ、おめえら行くぞ!」
親分に促されて、いかつい顔の男たちがテーブルから離れていく。
彼らは残りのテーブルが男ばかりの集団であることを確認すると、さっさと出入口へ向かっていった。
さっきジークヴァルトに食ってかかった若いごろつきが振り返り、ふん、と鼻を鳴らしたが、それだけだった。
ごろつきたちが店を出ていくと、全身を緊張させていた客たちが、ほうっと息を吐く様子が伝わってくる。
「お嬢さん、震えている場合じゃないぞ。あの親分は勘が鋭そうだ。さっさと安全な場所に移動したほうがいい」
静かで落ち着いたジークヴァルトの声が、頭の上から降ってくる。
リリーシュアはため息をつこうとした。だが、喉から絞り出されたのは呻き声だった。
「リリーシュア様!」
ロイドが叫んだ。
「様子がおかしい。まさか門が一気に開いたんじゃ……」
フラウが険しい口調で言う。
「門? ……もしかして『魔力の門』か? お嬢さん、身体の様子を口に出して伝えてくれ!」
ジークヴァルトが身体を屈めて、リリーシュアの顔を覗き込んでくる。
ごろつきたちに尖った眼差しを向けられても落ち着き払っていた人が、わずかに焦りを見せていた。
「わからない……ただ、苦しくてたまらないの。身体の中で、何かが暴れまわってる」
リリーシュアは両手で顔を押さえて答えた。
心臓が、痛いほど高鳴っている。
いてもたってもいられないというのは、こういうことを言うのだろう。本当は頭を抱えて、その場を転げ回りたいくらいだ。
苦しくて苦しくて、暴れでもしない限り、どうしようもないように思えた。
「何かが……何かがあり余ってる……燃え盛る炎のような……身体を焦がす何か……」
懸命にじっとしていても、幾筋もの汗が首筋を伝って落ちる。
体内で次々に生まれた熱が行き場を失い、皮膚を突き破る勢いで暴れ回った。
あまりの痛みに脳味噌がぎしぎしと音を立てる。
その苦痛は、まるでリリーシュア自身を破壊しようとしているかのようだった。
「まさか、そんな……『魔力の門』は、リリーシュア様の身体の成長が追いつくまで、完全には開かないはずじゃ……」
「どうしよう、ねえ、どうしよう! 魔力が外に漏れてこないってことは、全部が内側で暴れ回ってるってことよ! このままじゃ、リリーシュア様の身体が……!」
愛しい子どもたちが、混乱し動揺している。
リリーシュアは耐えがたいほどの痛みと闘いながら、ひび割れた口の隙間から「大丈夫」とつぶやいた。
「大丈夫だから、心配しないで……」
本当は不安でいっぱいになっている。
喉がからからに渇き、気分もひどく悪い。それでもリリーシュアは懸命に笑ってみせた。
門とは、魔力とはどういうことだろう? リリーシュアにはまるでぴんとこない。
だんだん身体が痺れてきて、思考力が失われていく。
けれど頭の中で思うのは、ただロイドとフラウを心配させたくないということだけだった。
「お嬢さん、触れさせてもらうぞ。淑女が困っている時、まともな男ならするに決まっていることだ」
真剣な表情でこちらを見るジークヴァルトに、リリーシュアはこくんとうなずいてみせた。
大きな手が隣からぱっと伸びてきて、リリーシュアの指先をぎゅうっと包み込む。
リリーシュアは、全身がびくんと脈打つのを感じた。
「この力は……火か。いや、簡単には分類できない性質も感じるな。何より、この熱は……」
決して周囲には聞こえないくらいのジークヴァルトの声が、リリーシュアの体内で響く。
繋がった指先から、柔らかい感覚がすうっと流れ込んできた。
それは穏やかな風のように、リリーシュアの胸の中で渦を巻く。
(いえ、風じゃない。これは……光? 澄みきった、一点の曇りもない……)
ジークヴァルトは、リリーシュアの身体を引き寄せた。抵抗する間もなかった。
気が付くとリリーシュアは、彼の胸に耳を押しつける格好で抱き締められていた。
「お嬢さん。君は今、危険な状態にある。処置できる医者のところまで、運ばせてもらうぞ」
激しく戸惑うべき場面なのに、リリーシュアは引き締まった胸に素直に身体を預けた。
なぜかはわからない。
でもこの人は、死よりも悪い運命から、リリーシュアを救おうとしてくれている。そう感じた。
ふわりと身体が浮いた。
ジークヴァルトがリリーシュアを横抱きにして、すっくと立ち上がったのだ。
涙をきらきら光らせるロイド、切羽詰まった顔のフラウに笑いかけてあげたいのに、リリーシュアの意識は薄れていく。
一体この先に、何が待ち構えているのだろう。
果たして自分は、このままどこへ行くのだろうか。
リリーシュアはぼんやりと霞んでいく頭で、そんなことを思った。
第三章
いろんな声が聞こえる。たくさんの人が、しきりに何かを話しかけてくる。
でも、リリーシュアは自分がどう答えたのかわからなかった。自分の身体が自分のものではないみたいで、意識が朦朧としている。
みんながびっくりするほど親切に、リリーシュアの身体を扱っていることはわかる。
なのに、すべての物音が妙に遠くて、不思議なくらい現実感がない。
リリーシュアの中で怒涛のように溢れ返る、手の施しようのない『何か』は、リリーシュアの意思や理性とは無関係に高まっていた。
血が煮えたぎる。苦しくて、心細くて、誰かに側にいてほしくて。
悲鳴をあげながらリリーシュアが宙へ伸ばした手を、誰かが強く掴んだ。
握り締められた手から、あたたかいさざ波のようなものが押し寄せてくる。
(――気持ちいい……)
誰かが注いでくれるその感覚を、リリーシュアは好ましいと思った。
すると燃え盛って、どうしようもなくなっていた『何か』が鎮まり、身体を突き刺すような痛みも徐々におさまってきた。
ぼんやりとした視界に、まばゆい光に包まれた青年の姿が映る。
見間違いではなく、彼の身体は黄金色に輝いていた。
「天使様?」
リリーシュアはうっとりした口調でつぶやく。
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