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18.ハル、誘拐される
しおりを挟む今日は珍しく資料室は静かだった。
招かざる客は来ない他の客もいない。資料館自体、今日の来館者が少なく暇をしている状況だ。まぁ、私は比較的暇、という程度なんだけど。
そんな日だったからなのだろう。
それとももともとそのつもりでいたのかもしれない。
静寂の中、遠くからコツコツとヒールを鳴らしながら近付く不穏な音がこの耳に入ってきたのだ。
この足音はチェルシーだ。
いつも踵の高いピンヒールを履いている彼女の足音は、うるさいほどに静かなる廊下に響く。それは嵐の前触れでもあった。
このまま通り過ぎろと願っていてもそんな事は叶う事なく、無情にも資料室の扉が開く。
そして開けられた扉の向こうに立っていたチェルシーは、不気味な笑みを浮かべて私に言った。
「ねぇ? ちょっと話があるんだけど」
そういう珍しい呼び出しにはいい予感はしないものだ。
以前館長から呼び出された時もそう。あの時はグレイさんと室長さんが私を待っていた。
じゃあ、今日は誰が私を待っていたかって?
連れて行かれた先にいるのはチェルシーと、そしてデヴォンだ。
ほら、全くいい予感はしない。というよりきっとこれから起きるのは悪い事だって断定できる。普段お互いに話した事がないであろうこの二人が揃う事自体稀だし、私にとっては嫌な組み合わせだ。
「何でここにデヴォン様が?」
資料館の裏庭。
ここはちょっとしたものを置いておくバックヤードで、普段はここには客は入れない。周りも塀に囲まれているから外からも見えないし、ここに来るには従業員用の通路を通る必要があるからだ。
何故ここまでデヴォンが入り込んでいるかなんて聞く事自体馬鹿らしいとは思ってはいたけれど、でも聞かないわけにはいかなかった。私の中でそこはかとない不安が募っていったからだ。
ニヤニヤと不気味な笑みを絶やさないチェルシーと、その隣で嬉しそうに微笑んでいるデヴォンが怖くて仕方なかった。
「この間ね、私、カルバート様と少しお話をしたの。そうしたら、あなたにつれなくされて困っているって言うじゃない。お可哀想だと思わない? あなた相手に何でも買ってあげるし食べさせてあげるとまで言ってくださるのにねぇ」
私の問いに答えているつもりなのか、チェルシーが前触れもなく話し始めた。
しかもデヴォンが石なしなんかに振り回されて可哀想という話だ。その隣でデヴォンもチェルシーの話を肯定するかのように深く頷いている。
「さすがに私もその話を聞いて放っておけるほど非情ではいられなくてね。微力ながら力をお貸しすることにしたのよ」
その言葉を聞いて、私の背中に一気に寒気が下りてきた。ぞわぞわと気持ち悪いくらいに総毛が立つ。
私は一歩下がった。
それは本能的なものだ。危険を察知して逃げ腰になる。
――――逃げなきゃ
じゃなきゃ、多分ひどい目に遭う。
私を迫害する時、皆同じような顔をする。視線でいたぶるような、滑稽なものを見るようなそんな目でこちらを見るのだ。
この世界に来てからというもの、そういう察知能力は格段に上がった。今のチェルシーがそういう目をしているのだ。デヴォンはちょっと違うかな。期待を持った顔をしている。でも多分、チェルシーと思惑は一緒だろうから味方ではない。
私が一歩下がり、チェルシーが一歩詰め寄る。
もう一歩、というところで、彼女は急に距離を詰めて私の手を掴んだ。
「あんたはねぇ、これからカルバート様の家に行くの。そして私とグレイさんの目の前から一生消え失せるの。……一生ね」
今まで耳障りなくらいに猫を被った可愛げのあった声が、私を目の前に剣を帯びた低いものに変わる。自分の勝利を確信したような顔をして、私にとんでもない事を告げてきた。
私が、デヴォンの家に行く?
そしてグレイさんの前から一生消える……。
つまり、私はこのまま無理矢理デヴォンによって連れ去られて愛人として囲われる。
今までデヴォンが夢想していた事を、今まさに実行されようとしているのだ。
冗談じゃない!
そんな事、死んでもごめんだ!
チェルシーの手を振り払い逃げるために踵を返す。
こいつらに捕まらないように何処かへ逃げて、身を隠さなきゃ。
ところが、ここで伏兵が潜んでいた。
逃げるどころか私はいつの間にか後ろにいた乱入者に再び捕らえられたのだ。しかも腕を掴まれて、力強く。
その伏兵、カシムさんはひょいと眉を上げて私を見下ろした。
「おぉ? もしかしてヤバいところに遭遇した感じ?」
その口振りから察するに彼はチェルシーたちの仲間というわけではなく、どうやらこの場に偶然居合わせたみたいだ。おそらく煙草休憩ついでにサボろうとここにやってきたのだろう。
「あ~! ちょうどよかった! カシムさん、その子の事逃がさないでしっかり掴まえてくださいね」
「何々? もしかして、ここで協力するとあとでお礼とかしてもらえる感じ?」
「当然です。ね? カルバート様?」
「あぁ。礼は十分する」
ところが、一瞬でチェルシーはカシムさんを味方につけた。
『お礼』という言葉にカシムさんは大きく反応している。
掴まれている腕を振り払うためにむちゃくちゃに振り払う。けれども大の男の力は強すぎて私には敵わない。指一つ外れる事なく逆にさらに両腕を取られる結果となってしまった。
「いいぜぇ。協力してやる」
「やだっ! 離して!」
連れて行かれる!
閉じ込められる!
その恐怖だけが私を支配する。
「それで? こいつ捕まえてどうすんの?」
「カルバート様が連れて行くんですって。どうやらあの噂、試してみるようですよ」
「へぇ~。そりゃ面白い。んで、チェルシーちゃんはその間にあの石七つの男を落とそうって?」
「ふふふっ。それはもちろんですよ」
「いいねぇ。俺、あの石七つの男、嫌いなんだよね。偉ぶってここに来る事自体すんごい目ざわり。あいつ、この石なしに会いにここに来てるんだろ? それがなくなるっつーんならいくらでも協力するよ~。だから、あいつを口説くときは外でお願いね、チェルシーちゃん」
「えぇ~。しょうがないですねぇ。分かりましたよ、もう」
拗ねた顔をするチェルシーと、至極楽しそうに笑うカシムさん。その二人の会話と思考が信じられなかった。
気に入らないからって人ひとりを誘拐するのも良しと出来るその考え。それが酷く気持ち悪かった。人間の醜悪を全て丸め込んで押し詰めたものを無理矢理見せられているような気持になる。
反吐が出る。こういう時に使う言葉だろう。
涙が溢れるわけではないけれど、でも泣き叫びたかった。声が嗄れるくらいに泣き叫んで、目の前の人間達を罵りたい。多分、私は怒っているんだ。怒っているから、感情のままに叫びたい。
私だけじゃない。
グレイさんにも敵意を向けて傷付けようとしている。
それが赦せなくて、私は酷く怒っていた。
口を開いてあらん限りに暴れようとした時、不意に目の前に手が翳される。
目の前にデヴォンがいて、私を優しく見下ろしていた。
「さぁ、俺と一緒に行こう、ハル」
デヴォンの手が淡い光を放ち、私の目を覆う。
そしてその光に意識を奪われるように私は気を失い、デヴォンの胸に倒れ込んだのだ。
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