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プロローグ:『宴はもう終いで』
しおりを挟む――君の名が歴史から、未来から、永久に失われた日だった。
『良かったですね』
――君の澄んだ笑みを初めて見た。
初めてだったんだ。でも、それが最期だった。
澄んだ笑みはあまりに悲しくて、風のように空に散っていくようで。
『――これであなたは、自由です』
決然とした声。
違う。
こんなものが、見たいんじゃなかったんだ。
知らなかったんだ。君の笑みの意味を。その言葉の覚悟を。知らなかったから、気付けなかった。気付けなくて、君を救えなかった。
――稀代の大悪女。
俺の仇敵。殺意の対象。諸悪の根源の一つ。自分勝手な嗜虐欲を満たして嗤う狂った女。
殺したかった。幾度も殺そうとした。この世から君が消えたらどんなにいいかと何度も考えた。
それが、今になって。
今になって、君を。
俺は、君を――。
〇
空は死んだような赤黒い色に覆われて、地獄から湧いたかのような雨が地面を叩くように降り注ぐ。
帝国の信仰の象徴だった聖地、白の神殿は無惨にも崩れ落ち、地面には死体と血が混ざりあう凄惨な情景が広がっていた。
かろうじて形だけを残した巨大な祭壇の残骸の上に、ひとりの人影があった。
禍々しく光る王城を注視する少女は、一点に集まり出した光を見ると静かに両手を広げた。
まるで、何かを受け止めるようなしぐさで。
光が完成していく。
全てを壊せるような光が。
そう、壊せる。
その少女が、いなかったとしたら。
少女の前には、彼女の体を覆い尽くしても余りあるほどの巨大な魔法陣があった。赤色の電撃を放ちながら、それは静かに滅びを待ち受ける。
――そうして、その時は訪れた。
白の光が、城の尖塔の頂から、激しい熱を振りまきながら恐ろしい速度でこちらに向かってきた。
全てを浄化する聖女の光。
それが本当にただの浄化であればどれほどに良かっただろうか。
赤の魔法陣は、領地全体に拡散しようとする白を一点にかき集めていく。
消すことはできない。皇帝と聖女、運命に約束されたふたりの力が全力で向かってきては、さすがの少女も力で明確に上回ることは難しかった。
――そう、消すことはできない。
この白は。
「――」
少女も、考えた。
この白を消すのに恐ろしい対価が必要になると分かっていた。
けれども、どうせ対価が必要なら、自分にはもっとできることがあると。
そのためなら。
時間に、歴史に、記憶に、全てに置き去りにされても構わない。
白がひとつの直線にまとまったその瞬間、赤の魔法陣がふいと消え去った。
まるで、最初からそこになかったみたいに。
――まるで、自分の未来みたいに。
……おかしな考えだ。
ずっと遠くで大爆発を起こした城の崩れる轟音を聞きながら、目の前に迫った白に向かって手を広げながら、少女はぼんやりと考えていた。
あと一秒? それとも、あと一分?
どちらにせよ、それで全てが、終わる。
「――ヴィオレッタ!!」
ああ。
ひどいひと。
覚悟を決めたのに。こんな、あと少ししかないのに。あなたの声を、聞いてしまったら。
ああ、でも、もう。
――すべてがもう、遅い。
〇
風が、静かに頬を撫でた。
死んだような静寂を壊せる者は、誰もいなかった。
聖女はもういない。皇帝ももういない。
――そして君も、もう、いない。どこにもいない。どこを探してもいない。
白の光は、一点に収束してそこにあったものを跡形もなく消し去った。
そう。君を。
この世から綺麗さっぱり拭い去られて。
最初からいなかったかのように何も残らずに。
死体も、血痕も、残骸も。
野心も、陰謀も、駆け引きも、執念も、犠牲も、愛も、憎悪も、全部。
俺だけだ。
俺だけが残ってしまった。
俺だけが、まだひとりこの寂れた広い廃墟に突っ立ったまま、何もできずにいる。
伸ばした手さえ戻すことが出来ずに、宙ぶらりんになったまま愚かに静止している。
――世界は静かだった。
ゆっくり、ゆっくりと、力が抜けて、地面に膝をつく。
胸に走る鋭い痛みに、今度は耐えられそうにない。彼女に握られていた心臓は、俺の命は、とっくに返された。俺の呪いはとっくになくなった。それなのに。
この空虚が、今はどのような苦しみよりも、痛い。永遠の喪失に溺れて、息ができない。
終わった。
最も綺麗で、徹底していて、そして同時に最も残酷な方法で。
力強く手を握り締めると、鮮やかな赤色の血液が手のひらから零れ落ちて、地面の誰の物かもわからぬ血と同化して見失った。
鮮烈なその色が。
彼女の色が。
――綺麗だった。
時不相応にも、そんなことを、思った。
その日ことを、今でもまだ、思い出す。
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