元ブラック塾講師、銭湯の上でFIRE生活はじめました。

谷川 雅

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第3部 第9話「錯覚の終焉(前編)」

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義春がその異変に気づいたのは、昼過ぎのことだった。
「おかしいな……紬、今日は編集日でずっと家のはずなのに……」
昼食に味噌煮込みうどんを二人前用意していた。湯気が立ちのぼる鍋の前に座る義春の目の前に、紬の姿はない。
冷蔵庫の隅で、彼女が朝から仕込んでいた薬味の葱がラップのまま残っている。
「外出? でも、出るなら出るって言うはずだよな……」
スマホを確認する。
LINEは未読のまま。
彼女のいつものスタンプすら、今日はない。
義春はゆっくりと立ち上がり、リビングを見渡す。
壁際の小さなテーブルに置かれているはずの、紬のバッグが――ない。
財布とスマホを一緒に持って出たようだ。
だが、撮影用のカメラも、ノートPCも、まったく動かされた形跡はなかった。
「……これはおかしい」
背筋を、冷たいものが這い上がってくる。
玄関の鍵はかかったまま。
施錠された玄関ドアのポストには、チラシが1枚だけ。
つまり――誰かが呼び鈴を鳴らし、紬はそれに応じて外へ出た可能性が高い。
「まさか……ストーカー……!」
慌ててスマホを手に取る。
先日、警察と弁護士を通じて警告を送ったはずの、例の“元同級生の男”。
名前を検索しようとしたその瞬間――
ピロン。
JFOODお客様窓口のメールが、義春の端末に転送されてきた。
社内の危機管理フローによる自動通知システムだ。
そのメールの内容は、あまりに異様だった。
「貴様のような洗脳男に、紬さんは渡さない。
本来の婚約者のもとへ戻っていただく。
今は“浄化の時”。
目を覚ませ。
俺は、もう“次の段階”に入っている」
「……っ……!」
義春の拳が、ぶるぶると震える。
怒りと恐怖と、そして紬を守れなかった自分への悔しさが、胃の奥からせり上がってくる。
だが――ここで感情を爆発させるわけにはいかない。
今は、何より冷静であることが必要だ。
深く、深く、深呼吸。
「……警察だ。通報……いや、調査会社にもだ」
すぐさまスマホを操作し、警察に通報。
さらに、知人を通じて依頼していた民間の調査会社にも連絡を入れる。
「紬が連れ去られた可能性がある」と伝えると、即座に対応が始まった。
「GPS……紬のスマホには、万が一に備えて“緊急共有設定”を入れてたはず……!」
アプリを開くと、位置情報は栃木県内の山間部。
人気のないエリアに、端末のアイコンがぽつりと止まっていた。
義春:「――すぐ、行く!」
バッグの中に入れていた予備バッテリー、折り畳みナイフ、そしてスマートウォッチを身に着ける。
走りながら鍵をかけ、クールサウナのジャケットのジッパーを引き上げた。
「待ってろよ、紬……! 絶対に、助け出すからな……!」
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