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誰かのための柔道
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【1】
東京大会の翌週、剛士は次戦の舞台・大阪へと向かっていた。
YAWARAリーグ後期シーズン第5戦。
プロ入りから破竹の4連勝を収めた剛士の評価は、ついに「優勝候補のひとり」へと変わっていた。
メディアは連日、「第十の男、ついにリーグの中心へ」と報じ、
彼の名は全国の柔道少年たちの教室にも広まりつつあった。
だが――剛士の心中は穏やかではなかった。
大阪は、かつて盟友・矢吹健太が倒れた地。
そして、その地で次に戦う相手は、剛士にとって忘れられない“過去の影”だった。
________________________________________
控室で配られた対戦カードを見た瞬間、剛士はわずかに眉を動かした。
斉藤 鷹也(さいとう たかや)――32歳。
若き日、国内大会の決勝で剛士に完封負けを喫し、その後も彼の存在に人生を翻弄された男。
剛士が引退した後にプロ転向を果たしたが、どこか空虚なままリーグ中位に留まっていた。
だが、今の斉藤は違った。
その技には、何か別の「色」が混ざっている。
会場入り前の合同練習で、斉藤とすれ違ったとき、彼は立ち止まりもせず、言った。
「ようやく、同じ畳に立てるな――“あのときの借り”、きっちり返させてもらう。」
その目は、復讐だけではない。
何か、より暗く重たい決意を秘めていた。
________________________________________
夜、合宿所に戻った剛士は、談話室でアンドレイ・グロモフと顔を合わせた。
「タカヤ……ちょっと前まで、技が粗くてムラがあった。けど最近は違う。怖いぐらい静かだ。勝ちに“必要なものだけ”で組み立ててきてる。」
剛士はうなずいた。
「執念ってのは、鍛えられる技とは別の力だ。勝つことに意味を持たせすぎた人間は、時に“何か”を壊す。」
「じゃあ、お前は?」
アンドレイが言った。
「お前にとって、勝つ意味ってなんだ? もう十分だろう。世間は拍手してる。伝説は更新された。」
剛士は静かに首を振った。
「俺が本当に勝ちたいのは――“過去の俺”だ。」
それは、矢吹を止められなかった自分、
挑戦から逃げていた理事時代の自分、
そして、“何も変わらない”と諦めかけていた自分――
それらすべてを、畳の上で超えなければ意味がない。
________________________________________
そして試合当日。
大阪城ホールには、いつにも増して鋭い緊張感が走っていた。
「天野剛士 vs 斉藤鷹也」
過去と過去の激突。
だが今回は、かつてのような「格の違い」では終わらない。
斉藤は、入場からすでに別人のようだった。
柔道着は黒地に近い濃紺。
目つきは、まるで“刃”。
場内実況が低く告げる。
「……斉藤選手は、天野選手に対する“敬意”を、あえて持ち込まない姿勢を貫いています。
この試合は、単なる一勝ではなく、彼にとっての“人生の決着”なのかもしれません。」
「礼。」
主審の声が響く。
斉藤は礼をしない――そう思った瞬間、彼は深々と頭を下げた。
鋭く、短く、だが真っすぐに。
そして、組み手が始まった。
________________________________________
開始1分――
いきなり、強烈な背負い投げ。
斉藤は初手から“畳を砕くつもり”で来ていた。
だが、剛士は止まらない。
彼の“重心”は、もう過去にも未来にも揺れなかった。
今だけを見る。
目の前の相手が、かつての仇でも、己の影でもなく――
「同じ時代を生きる、ただの柔道家」だと、はっきり理解していた。
________________________________________
10分経過。
両者とも、一本はない。
だが、斉藤の呼吸が荒くなり始めた。
そして13分――
斉藤が奥襟を取って飛び込んだ瞬間。
剛士の手が、静かに組み替えた。
大外刈。
観客が一瞬息を飲む。
そして――背中が、音を立てて畳に沈む。
「一本ッ!!」
________________________________________
沈黙。
そして、拍手。
その中で、剛士は斉藤に手を差し伸べた。
斉藤は、悔しそうに顔を背けていたが――
次の瞬間、ぽつりと呟いた。
「……やっと、終わった。」
剛士は言った。
「いや。ようやく、始まったんだろ。」
________________________________________
【その夜の記者会見】
「――これまでで最も苦しい試合でした。彼が“自分のために勝ちたかった”気持ちは、痛いほどわかる。
でも俺は、“他人のために立ち続ける柔道”を、これからも見せたい。」
【2】
新潟――
冷たい潮風と、まだ雪の残る山影が交錯する、日本海側の柔道の聖地。
剛士にとって、この地には因縁も懐かしさもない。
ただ、静かに、淡々と――「戦うために訪れた場所」だった。
だが、今回の相手は、これまでのどの選手とも違っていた。
________________________________________
■ 試合カード:
天野剛士 vs ユーリ・オレグ
ロシア・ウラル地方出身、“寝技の亡霊”の異名を持つ柔道家。
過去にサンボ世界王者に輝いた経験を持ち、プロ転向後は
試合時間を引き延ばしての寝技一本勝ちを得意とする技巧派。
リーグ内でも「最も倒しにくい男」として恐れられている。
剛士にとっては、「寝技=消耗戦」――最も不利な土俵。
「これまでのような“立ち技の勝負”は通用しない。
あなたの呼吸が狂えば、そのまま締め落とされますよ。」
対戦前夜、カリームが控えめにそう告げてきた。
それは警告ではなく、忠告だった。
「オレグの柔道は“静かなる狩り”です。あなたの心が乱れたら、終わりです。」
剛士はうなずいた。
「……静かな戦いか。いいさ。心の深さが試される勝負も、嫌いじゃない。」
________________________________________
試合当日。
会場の雰囲気は、これまでとは違っていた。
歓声よりも、静寂と緊張が支配する空気。
剛士の対戦相手が、“技”ではなく“構え”で観客を圧倒するタイプだからだ。
「礼。」
畳の中央で、二人の男が向かい合う。
剛士の背筋は、まっすぐに伸びていた。
ユーリの目は、まるで獲物を見つめる蛇のように細く、鋭い。
________________________________________
開始から数分――
立ち技の組み合いに持ち込む剛士に対し、ユーリはほとんど動かない。
引き手を崩すだけで、足も出さない。
そして、唐突にユーリが座るようにして自ら寝技に入る。
「引き込み」――これが彼の常套手段。
そのまま、足を絡め、腕を取ろうとする。
一瞬、剛士の表情が固くなる。
(これは……見たことがある)
その動きは、サンボや柔術のような構成で、
日本柔道とは違う「獣じみた感覚」で組み立てられていた。
________________________________________
10分が経過――
剛士はなんとか寝技の攻防を回避し続けるが、
呼吸が浅くなってくる。
動けば、絡まれ、止まれば、絞められる。
時間が経てば経つほど、年齢差が浮き彫りになる。
(勝機は……どこにある?)
そのとき、ふと頭の中に、若き矢吹健太の言葉がよみがえる。
「剛士さん、あなたは立ち技の人間かもしれない。
でも、“芯を掴む”力は、俺よりずっとあるんだ。
寝てても、立ってても、“中心”を崩せば人は倒れる。
技じゃない。呼吸と心を見ろ。」
剛士は息を整え、目を閉じた。
一瞬の静寂のなかで、ユーリの重心が変化する。
(今だ――)
剛士は、相手の帯を掴みながら、自らも下になる。
一見不利に見えたその体勢から、
ユーリの首元へ腕を差し込み、締め技の体勢へ――
十字絞。
まるで逆転の美学のように、ユーリの動きが止まる。
会場が静まり返る中――主審の手が上がった。
「一本ッ!!」
________________________________________
勝負は、剛士の勝利。
5連勝に続き、6勝目。
だがそれは、技でも体力でもない。
「読み」と「呼吸」、そして「心」で掴んだ勝利だった。
________________________________________
試合後、剛士は控室で静かに息を整えながら、手帳を開いた。
そこには、矢吹の遺した言葉が再び書き記されていた。
「技を超えて、人の“芯”を掴む柔道を。」
それが、自分が目指す“プロ柔道”なのだと、改めて確信する。
________________________________________
【3】
福岡――九州最大の都市。
街は祭りのような喧騒に包まれていた。
YAWARAリーグが来る週末は、市をあげての“柔道フェスティバル”と呼ばれるほどの熱狂ぶり。
ファンは横断幕を掲げ、地元グルメと共にプロ柔道観戦を楽しむ。
その中心にいたのが、次戦の対戦相手。
かつてアメリカ総合格闘技で無敗を誇り、“人間ブルドーザー”と恐れられた男――
________________________________________
■ 対戦カード
天野剛士 vs トーマス・リー(アメリカ出身)/34歳
元UFCヘビー級王者。プロ柔道に転向して2年目。
レスリング・柔術・ボクシングを融合させた「パワー型の異種柔道」で観客を熱狂させる。
正統派柔道を「過去の遺物」と呼び、公然と挑発的な発言を繰り返す危険人物。
「天野のような“おじいちゃん道”は、もう古い。観客が見たいのは派手なKOだ。」
その言葉に、プロ柔道協会の内部からも問題視の声が上がった。
だが同時に、彼の人気はうなぎ登り。
“最も危険で、最も盛り上がる男”――それが、今のトーマス・リーだった。
________________________________________
前日。
記者会見の壇上に並ぶふたり。
トーマスは笑いながら剛士を指差す。
「オレの娘のほうが、天野より速く動けるぜ。3分で片付けてやる。引退勧告のつもりで、やさしく投げてやるよ。」
剛士は笑わなかった。
ただ、短くこう答えた。
「言葉より、畳の上で会いましょう。」
その瞬間、会場の空気が変わった。
揶揄に乗らず、応じず、真っすぐに向き合う姿勢に――
剛士の“柔の品格”がにじんでいた。
________________________________________
試合当日。
会場は、異様な熱気に包まれていた。
観客席には外国人ファンも多く、トーマスの“煽りスタイル”に慣れた者たちが大歓声を送っていた。
実況がつぶやく。
「これは、“柔道”という競技の本質が問われる試合になるかもしれません。
勝ち負け以上に、“何を見せるか”が試される――そんな一戦です。」
「礼。」
主審の声と同時に、剛士とトーマスが向き合う。
________________________________________
開始直後――
トーマスは突進した。
まるでタックルのように、肩から剛士の胸へ。
そのまま上四方から潰しにかかる。
観客がどよめく。
YAWARAリーグでは珍しい“ラグビーのような衝突”。
剛士の体が一瞬浮いた。
だが、崩れない。
畳に沈みかけた瞬間、剛士は片腕を回し、体を捻って逃れる。
「……さすが、倒れない。」
トーマスが不敵に笑う。
「でも、倒れるまで続けるぜ。」
________________________________________
5分経過――
剛士は、ただ耐えているように見えた。
だが、それは“待ち”ではなかった。
相手のパターン、力の偏り、タイミング、息の上がり――
すべてを観察していた。
そして7分目。
トーマスの体が一度、やや深く沈む。
その瞬間、剛士の目がわずかに光った。
右袖をとって、左足をかける――
――内股返し。
トーマスの巨体が、空を舞った。
観客が叫ぶ。
畳に、ドシンッという音が響く。
主審が、一拍おいて手を上げる。
「一本ッ!!」
________________________________________
その瞬間、会場が沈黙した。
次に響いたのは、トーマス自身の叫びだった。
「クッソ……マジかよ……」
だが、すぐに彼は立ち上がった。
額に汗を流しながら、剛士に向かって右手を差し出す。
「……Respect. マジで、Respectだ。」
剛士は、その手を握り返した。
「それが、“柔道”です。」
________________________________________
その夜、SNSには世界中の言語で“柔道”というタグが飛び交った。
柔道という競技が、「技」だけでなく「心」を持っていること――
剛士は、その身ひとつで証明したのだった。
________________________________________
控室。
剛士はひとり、タオルを首にかけ、深く息を吐いていた。
外では、まだ歓声が続いている。
そこへ、運営スタッフがやってきて一言。
「天野さん、次戦の対戦相手が決まりました――」
その名前を聞いた瞬間、剛士は顔を上げた。
「……彼が、来るのか。」
東京大会の翌週、剛士は次戦の舞台・大阪へと向かっていた。
YAWARAリーグ後期シーズン第5戦。
プロ入りから破竹の4連勝を収めた剛士の評価は、ついに「優勝候補のひとり」へと変わっていた。
メディアは連日、「第十の男、ついにリーグの中心へ」と報じ、
彼の名は全国の柔道少年たちの教室にも広まりつつあった。
だが――剛士の心中は穏やかではなかった。
大阪は、かつて盟友・矢吹健太が倒れた地。
そして、その地で次に戦う相手は、剛士にとって忘れられない“過去の影”だった。
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控室で配られた対戦カードを見た瞬間、剛士はわずかに眉を動かした。
斉藤 鷹也(さいとう たかや)――32歳。
若き日、国内大会の決勝で剛士に完封負けを喫し、その後も彼の存在に人生を翻弄された男。
剛士が引退した後にプロ転向を果たしたが、どこか空虚なままリーグ中位に留まっていた。
だが、今の斉藤は違った。
その技には、何か別の「色」が混ざっている。
会場入り前の合同練習で、斉藤とすれ違ったとき、彼は立ち止まりもせず、言った。
「ようやく、同じ畳に立てるな――“あのときの借り”、きっちり返させてもらう。」
その目は、復讐だけではない。
何か、より暗く重たい決意を秘めていた。
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夜、合宿所に戻った剛士は、談話室でアンドレイ・グロモフと顔を合わせた。
「タカヤ……ちょっと前まで、技が粗くてムラがあった。けど最近は違う。怖いぐらい静かだ。勝ちに“必要なものだけ”で組み立ててきてる。」
剛士はうなずいた。
「執念ってのは、鍛えられる技とは別の力だ。勝つことに意味を持たせすぎた人間は、時に“何か”を壊す。」
「じゃあ、お前は?」
アンドレイが言った。
「お前にとって、勝つ意味ってなんだ? もう十分だろう。世間は拍手してる。伝説は更新された。」
剛士は静かに首を振った。
「俺が本当に勝ちたいのは――“過去の俺”だ。」
それは、矢吹を止められなかった自分、
挑戦から逃げていた理事時代の自分、
そして、“何も変わらない”と諦めかけていた自分――
それらすべてを、畳の上で超えなければ意味がない。
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そして試合当日。
大阪城ホールには、いつにも増して鋭い緊張感が走っていた。
「天野剛士 vs 斉藤鷹也」
過去と過去の激突。
だが今回は、かつてのような「格の違い」では終わらない。
斉藤は、入場からすでに別人のようだった。
柔道着は黒地に近い濃紺。
目つきは、まるで“刃”。
場内実況が低く告げる。
「……斉藤選手は、天野選手に対する“敬意”を、あえて持ち込まない姿勢を貫いています。
この試合は、単なる一勝ではなく、彼にとっての“人生の決着”なのかもしれません。」
「礼。」
主審の声が響く。
斉藤は礼をしない――そう思った瞬間、彼は深々と頭を下げた。
鋭く、短く、だが真っすぐに。
そして、組み手が始まった。
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開始1分――
いきなり、強烈な背負い投げ。
斉藤は初手から“畳を砕くつもり”で来ていた。
だが、剛士は止まらない。
彼の“重心”は、もう過去にも未来にも揺れなかった。
今だけを見る。
目の前の相手が、かつての仇でも、己の影でもなく――
「同じ時代を生きる、ただの柔道家」だと、はっきり理解していた。
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10分経過。
両者とも、一本はない。
だが、斉藤の呼吸が荒くなり始めた。
そして13分――
斉藤が奥襟を取って飛び込んだ瞬間。
剛士の手が、静かに組み替えた。
大外刈。
観客が一瞬息を飲む。
そして――背中が、音を立てて畳に沈む。
「一本ッ!!」
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沈黙。
そして、拍手。
その中で、剛士は斉藤に手を差し伸べた。
斉藤は、悔しそうに顔を背けていたが――
次の瞬間、ぽつりと呟いた。
「……やっと、終わった。」
剛士は言った。
「いや。ようやく、始まったんだろ。」
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【その夜の記者会見】
「――これまでで最も苦しい試合でした。彼が“自分のために勝ちたかった”気持ちは、痛いほどわかる。
でも俺は、“他人のために立ち続ける柔道”を、これからも見せたい。」
【2】
新潟――
冷たい潮風と、まだ雪の残る山影が交錯する、日本海側の柔道の聖地。
剛士にとって、この地には因縁も懐かしさもない。
ただ、静かに、淡々と――「戦うために訪れた場所」だった。
だが、今回の相手は、これまでのどの選手とも違っていた。
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■ 試合カード:
天野剛士 vs ユーリ・オレグ
ロシア・ウラル地方出身、“寝技の亡霊”の異名を持つ柔道家。
過去にサンボ世界王者に輝いた経験を持ち、プロ転向後は
試合時間を引き延ばしての寝技一本勝ちを得意とする技巧派。
リーグ内でも「最も倒しにくい男」として恐れられている。
剛士にとっては、「寝技=消耗戦」――最も不利な土俵。
「これまでのような“立ち技の勝負”は通用しない。
あなたの呼吸が狂えば、そのまま締め落とされますよ。」
対戦前夜、カリームが控えめにそう告げてきた。
それは警告ではなく、忠告だった。
「オレグの柔道は“静かなる狩り”です。あなたの心が乱れたら、終わりです。」
剛士はうなずいた。
「……静かな戦いか。いいさ。心の深さが試される勝負も、嫌いじゃない。」
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試合当日。
会場の雰囲気は、これまでとは違っていた。
歓声よりも、静寂と緊張が支配する空気。
剛士の対戦相手が、“技”ではなく“構え”で観客を圧倒するタイプだからだ。
「礼。」
畳の中央で、二人の男が向かい合う。
剛士の背筋は、まっすぐに伸びていた。
ユーリの目は、まるで獲物を見つめる蛇のように細く、鋭い。
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開始から数分――
立ち技の組み合いに持ち込む剛士に対し、ユーリはほとんど動かない。
引き手を崩すだけで、足も出さない。
そして、唐突にユーリが座るようにして自ら寝技に入る。
「引き込み」――これが彼の常套手段。
そのまま、足を絡め、腕を取ろうとする。
一瞬、剛士の表情が固くなる。
(これは……見たことがある)
その動きは、サンボや柔術のような構成で、
日本柔道とは違う「獣じみた感覚」で組み立てられていた。
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10分が経過――
剛士はなんとか寝技の攻防を回避し続けるが、
呼吸が浅くなってくる。
動けば、絡まれ、止まれば、絞められる。
時間が経てば経つほど、年齢差が浮き彫りになる。
(勝機は……どこにある?)
そのとき、ふと頭の中に、若き矢吹健太の言葉がよみがえる。
「剛士さん、あなたは立ち技の人間かもしれない。
でも、“芯を掴む”力は、俺よりずっとあるんだ。
寝てても、立ってても、“中心”を崩せば人は倒れる。
技じゃない。呼吸と心を見ろ。」
剛士は息を整え、目を閉じた。
一瞬の静寂のなかで、ユーリの重心が変化する。
(今だ――)
剛士は、相手の帯を掴みながら、自らも下になる。
一見不利に見えたその体勢から、
ユーリの首元へ腕を差し込み、締め技の体勢へ――
十字絞。
まるで逆転の美学のように、ユーリの動きが止まる。
会場が静まり返る中――主審の手が上がった。
「一本ッ!!」
________________________________________
勝負は、剛士の勝利。
5連勝に続き、6勝目。
だがそれは、技でも体力でもない。
「読み」と「呼吸」、そして「心」で掴んだ勝利だった。
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試合後、剛士は控室で静かに息を整えながら、手帳を開いた。
そこには、矢吹の遺した言葉が再び書き記されていた。
「技を超えて、人の“芯”を掴む柔道を。」
それが、自分が目指す“プロ柔道”なのだと、改めて確信する。
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【3】
福岡――九州最大の都市。
街は祭りのような喧騒に包まれていた。
YAWARAリーグが来る週末は、市をあげての“柔道フェスティバル”と呼ばれるほどの熱狂ぶり。
ファンは横断幕を掲げ、地元グルメと共にプロ柔道観戦を楽しむ。
その中心にいたのが、次戦の対戦相手。
かつてアメリカ総合格闘技で無敗を誇り、“人間ブルドーザー”と恐れられた男――
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■ 対戦カード
天野剛士 vs トーマス・リー(アメリカ出身)/34歳
元UFCヘビー級王者。プロ柔道に転向して2年目。
レスリング・柔術・ボクシングを融合させた「パワー型の異種柔道」で観客を熱狂させる。
正統派柔道を「過去の遺物」と呼び、公然と挑発的な発言を繰り返す危険人物。
「天野のような“おじいちゃん道”は、もう古い。観客が見たいのは派手なKOだ。」
その言葉に、プロ柔道協会の内部からも問題視の声が上がった。
だが同時に、彼の人気はうなぎ登り。
“最も危険で、最も盛り上がる男”――それが、今のトーマス・リーだった。
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前日。
記者会見の壇上に並ぶふたり。
トーマスは笑いながら剛士を指差す。
「オレの娘のほうが、天野より速く動けるぜ。3分で片付けてやる。引退勧告のつもりで、やさしく投げてやるよ。」
剛士は笑わなかった。
ただ、短くこう答えた。
「言葉より、畳の上で会いましょう。」
その瞬間、会場の空気が変わった。
揶揄に乗らず、応じず、真っすぐに向き合う姿勢に――
剛士の“柔の品格”がにじんでいた。
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試合当日。
会場は、異様な熱気に包まれていた。
観客席には外国人ファンも多く、トーマスの“煽りスタイル”に慣れた者たちが大歓声を送っていた。
実況がつぶやく。
「これは、“柔道”という競技の本質が問われる試合になるかもしれません。
勝ち負け以上に、“何を見せるか”が試される――そんな一戦です。」
「礼。」
主審の声と同時に、剛士とトーマスが向き合う。
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開始直後――
トーマスは突進した。
まるでタックルのように、肩から剛士の胸へ。
そのまま上四方から潰しにかかる。
観客がどよめく。
YAWARAリーグでは珍しい“ラグビーのような衝突”。
剛士の体が一瞬浮いた。
だが、崩れない。
畳に沈みかけた瞬間、剛士は片腕を回し、体を捻って逃れる。
「……さすが、倒れない。」
トーマスが不敵に笑う。
「でも、倒れるまで続けるぜ。」
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5分経過――
剛士は、ただ耐えているように見えた。
だが、それは“待ち”ではなかった。
相手のパターン、力の偏り、タイミング、息の上がり――
すべてを観察していた。
そして7分目。
トーマスの体が一度、やや深く沈む。
その瞬間、剛士の目がわずかに光った。
右袖をとって、左足をかける――
――内股返し。
トーマスの巨体が、空を舞った。
観客が叫ぶ。
畳に、ドシンッという音が響く。
主審が、一拍おいて手を上げる。
「一本ッ!!」
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その瞬間、会場が沈黙した。
次に響いたのは、トーマス自身の叫びだった。
「クッソ……マジかよ……」
だが、すぐに彼は立ち上がった。
額に汗を流しながら、剛士に向かって右手を差し出す。
「……Respect. マジで、Respectだ。」
剛士は、その手を握り返した。
「それが、“柔道”です。」
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その夜、SNSには世界中の言語で“柔道”というタグが飛び交った。
柔道という競技が、「技」だけでなく「心」を持っていること――
剛士は、その身ひとつで証明したのだった。
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控室。
剛士はひとり、タオルを首にかけ、深く息を吐いていた。
外では、まだ歓声が続いている。
そこへ、運営スタッフがやってきて一言。
「天野さん、次戦の対戦相手が決まりました――」
その名前を聞いた瞬間、剛士は顔を上げた。
「……彼が、来るのか。」
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