マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と箱庭

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 オフィスに顔を出すと、真っ先にマノがやって来て小さなバルコニーに連れて行かれた。
「ほら」
「ありがとうございます……」
 温かいミルクティー。鈍い動作で少し笑って見せたが、マノは笑い返さなかった。眉を顰めてじっと私を見る。
「遅れてすみませんでした」
「それどころじゃないだろ。何がどうなってんだ」
 あれから刑事のいる前でマノに電話した。大雑把にしか説明出来なかったがとりあえずこれから任意同行されること、朝が来たら会社には遅れるが顔は出すこと。想像以上に時間がかかり午後になってしまったが、マノの様子を見ると午前も仕事もろくに手が付かなかったらしい。
「ちょっとしたあれで、任意同行されまして……みんな知ってます?」
「言ってねえよ。流石に笑えない」
「ですね、ありがとうございます」
 かしゅ、とコーヒーのプルタブをあけたマノが、ぼそっと問う。
「お前、疑われてるのか」
「多分」
 マノの声が冷静だったので、私も素直に答えることが出来た。
「なんで」
「口止めされてるので言わないでくださいよ。知人から着信があって、その着信の直後にそのひとが階段から落ちたそうです。で、その場から逃げ出したひとがいた」
「お前と一緒にいたっていうなら電話なんてかけないだろ」
「落とされたあと意識がまだ辛うじてあったから発信歴を残して犯人を示唆したとか」
「着信に気付いた犯人が戻って来て発信歴を消す可能性だってあるだろ」
「……だと思うんですけどね」
 小さく溜息を吐くと、沈黙が降りた。煙草の匂いが染み付いた中、重い沈黙が降りる。
「お前、帰れ」
「え」
「流石にこんな状況で仕事しろとは言えないだろ。帰って休め。周りには体調不良ってことにしとくから」
 迷ったが結局うなずいた。元々変な時間に起きてしまっていたので睡眠欲はそれほどなかったが、精神的な疲労が半端なかった。
「すみません、これから迷惑がかかると思うんですが……会社の迷惑になるようでしたら辞めるので」
 私は外注契約だ。ここからの収入がなくなるのは痛いが迷惑をかけるわけにはいかない。
「んなこと言うな。人手不足なんだから。お前が正社員なりたいって言うなら俺は推すぞ」
「……」
「そういう道もあるってことだ。とりあえず、今日は帰れ」
 そういう道。
 私はうなずかないまま失礼しますと頭を下げた。



 外に出るとまだ十分明るい日差しが降り注いでいた。まだ十六時頃だ。いつもこんな時間に外をうろつけないので自由を謳歌したいところだが、そういうわけにもいかないしそういう気分ですらない。
 大きな溜息を吐いて携帯を取り出した。警察で散々調べられたが当然のように不自然な点はなく、無事手元に戻ってきたのだが───いい気分はしない。
 もう一度嘆息しつつスマートフォンのホームボタンを押し、メッセージアプリを起動させる。トーク履歴からひとつを選択し、一瞬迷ってから一言打ち込んだ。
『助けて』
 既読。返信はすぐに来た。
『どこに行けばいい?』
 昨晩の騒動からはじめてほんの少しだけ素直な笑顔が漏れる。通りのガラスに映った自分は、疲れた顔はしていたが、その口元はやわらかく弧を描いていた。



 夜、U駅に着くと、そこに既に待ち人はいた。私のほうが遅かったかと小走りで駆け寄る。
「ミキ!」
「ユキ」
 一瞬警戒したような顔でミキが振り返り、それからほっとしたような表情を浮かべる。それがうれしくて思わず大きな笑みを浮かべると、今度はそれと同じくらいの笑顔で受け入れられた。
「どうしたの?」
「少々困るような事態が……」
「大分困るってことか」
「……そうとも言うね」
 苦笑しながら小さく手を振る。特に意味のない仕草だったが、ミキはその手と同じように手にしたスマートフォンを振って見せた。ディスプレイをこちらに見せる。
「とりあえず独断と偏見でお店予約した。行こうか」



 特に何を言ったわけではないのに、ミキが選んだ店は落ち着いた雰囲気のお店だった。かといって静か過ぎるということもなく、暖簾で各席別れている。丁度いい。
「乾杯。───で、どうしたの」
 お互いビールは好きではない。好きな銘柄の日本酒をお互い頼み、お猪口を軽く合わせる。あいさつも前置きもいらないところが高校からの付き合いの友人のいいところだ。
「結論から言うとね、ニノ コウから電話があった。ワンコールだったから出れなかったけど」
「それは……」
 表情が僅かに曇る。予想外の内容だ、というように。お猪口を傾け、ほんの僅か唇を湿らせるように含む。
「何で今さら」
「分からない。で、その直後階段から突き落とされた」
「は?」
「犯人は不明でまだ捕まってない。ニノ コウは助かったけど意識不明で目を覚ましてない。昨日警察がうちに事情聞きに来た」
「……」
「感想をどうぞ」
「馬鹿」
「いたっ」
 はしっと額を軽く叩かれ目を閉じる。わざとらしく口を尖らせ、「私を叩いてもしょうがないでしょー」と訴えると「あんたをいじるのに理由なんて探さない」となんともざっくりとした返事を頂く。ミキ様のお言葉はありがた過ぎていつも変わらず涙が出る。
「つまりユキは被疑者?」
「どうなんだろ。今のところ重要参考人?」
「漫画の世界の言葉だと思ってた。眼鏡の少年の」
「意外と明日は我が身だった。明日なうだよ」
「馬鹿」
 ハイペースで二度目の馬鹿を頂戴する。
「ユキのアリバイは?」
「ない。家にいた。直前にマノさんから電話もらったけど、アリバイにはならないよね」
「うん……ともりくんは? 家にいなかったの?」
「うん、今ゼミの合宿で」
「肝心な時にいないんだから……」
「まあ家族みたいなもんだし、いたとしてもアリバイとして採用されるかどうかは……」
 くいっと大きく、ミキはお猪口を煽った。
「───よくないね」
「───ね」
「本当に、よくないよ。よりによって、ニノか。あの」
「あの、か」
「あの、でしょ。あんたは阿呆で間が抜けてて愛おしい馬鹿だったし今も残念ながらそのままだけど、」
「愛おしいのとこだけ頂きましたありがとう」
「黙りなさい。───だけどニノは、そんなあんたに目を付けてたね」
「……」
「ユキは別に辛そうじゃなかったけど。気にしないように、してたけど」
「……」
「あれは今も昔も、虐めって言うんだよ」
 苦笑いに似たへらりとした私の笑みは、飲み屋のダウンライトのオレンジの下、誤魔化されるように溶けた。




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