マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師と箱庭

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「警察が、もう何度も来ているんです」
 赤く腫らした目をゆっくりと瞬かせて、ナオミは言った。
「私のことを疑ってる。明確には言わないけど、分かるんです。ずっとずっと、あれからずっとそうなんです」
「あなたには動機があるんですね」
 少し走らせて脇道に入り、路肩に停めた車内。自販機で買ったあたたかい紅茶を片手に、ナオミに問う。彼女は子供のようにうなずいた。
「コウさんが死ねば───私は必要なくなる。自由に、なれます」
 十分な動機ですね。落とされた言葉は真実で、その分だけ、重い。
「仮に私が犯人だとしたら、」
 私はハンドルをトン、トンと軽く叩いた。
「動機は高校時代のことになるんでしょうね。───今さら?」
 くだらない。小さく鼻を鳴らすと、不思議そうな顔をした。
「コウさんのこと、恨んだりしていないんですか?」
「折り合いを付けるのが難しかったんです。───正直に言うと、無理だった。
 彼はお父さんを亡くされてますよね? うちの家も小学校半ばから中学半ばまで母子家庭だったんです。今は再婚していますが。僅かな特待生枠にそういう人間が二人、中には『それが理由で優先的に特待生になれたんじゃないか』って言ってくるひともいました。五人中二人もいればそう揶揄する人も出て来るわけで、まあそしたら私のことを邪魔に思っても仕方ないかな、と。───実力で捥ぎ取った立場を私の存在によって嗤われたら、当然嫌じゃないですか」
「───強いんですね」
 ぽつりと、呟くようにナオミは言った。
「私は───私には無理です。攻撃されたら怖い。敵視されたら嫌だ。そんな風に言えない」
 何とも言えなかった。
 だから、黙っていた。
「ありがとうございます。電話。毎日相手をしてもらって」
「……自覚はあったんですね」
 そりゃあ、とナオミは苦笑した。
「流石にそれくらいは」
「……キヨラさんはいい人だと思いますよ」
「え?」
 一瞬驚いたような顔をして、それからああ、と全て分かったようにうなずいた。
「───あなたも私のことを着けたんですね」
 うなずく。同じように家にも行きましたよ、とは言わない。
「分かってます。いい人です、あの人は」
「……じゃあ何で……あなたの作品? を、見せないんですか?」
「……自信がないとか、そういんじゃないんです」
 ひくっと、引き攣るように声が掠れた。
「誰かに見せるってことは、それだけ、ばれる可能性が高くなるってことです。キヨラ先輩を信用してないわけじゃない。けど、あの人たちはどんな手段を使っても、探して来る───」
 ナオミの声が掠れる。手にした缶がぺき、と音を立てて軋んだ。
「私の趣味は、夢は、世界を創ることです。……そう言えば聞こえはいいですが、私が惹かれるものは、世界観は───あのひとたちには理解してもらえない。
 干乾びた荒野、古いオイル、錆びたコイン……ジャンクのような、『終わったあとも尚静かに続く世界』。……これが認められ易い大衆向けの芸術ならば、私もまだ堂々と出来たかもしれません。でも、出来ない。私が生み出したい世界は、それじゃない。
 コウさんは私を守ろうとしてくれました。私の夢を、やりたいことを、世界を守ろうとしてくれた。コウさんが部屋を借りてくれて、その中にいる時だけ私は自由になれたんです。その部屋のことは誰も知りません。コウさんはそうやって私を守ってくれる。でも、」
 ぼろぼろと伝った涙が彼女の胸元や膝に点々と落ちた。
「好きとか嫌いとか、私には分からない。たぶん、そのどちらでもない。───感謝はしています。でも、どちらでもないんです。コウさんにこっそり付き合っているひとがいたとしても私は何とも思いません。思えません。コウさんだってきっと同じです。私のこと、悪い意味じゃなくどうでもいいんです。幸せになっていてくれればいいやって、その程度です。───このままの状態で、この先ずっと、一緒にいなきゃならないんです」
「まだ決まってませんよ」
 思わず口を挟んだ。続く言葉が自分でも分からず、唇を噛む。悟ったようにナオミは笑った。
「私が自由になれる時は、コウさんが死ぬ時です」
 暗さも明るさもなかった。
「死んでほしいとは思いません。───でも、どうしたらいいのか分からないんです」
「……」
 返す言葉がない。何も、ない。
 無音が落ちて、ぼったりと空気に染みを残すように残った。
「……見つけてくれて、ありがとうございます。あのまま、ひとりだったら……ああでも、自分でどこかに行く勇気も、気概も何もないな。あのまま結局、ふらふらしながら家に帰ったんだろうな」
「……でも、そうしたら泣けませんでしたね」
「……ですね」
 視線が合う。
 ふは、と、笑い合った。
「一緒の気持ちだといいんですけど」
 ナオミが微笑んだ。───辛そうな、疲れた顔で。
「あなたが犯人の可能性が高いと思います───でも、そうじゃなかったらいいと、祈ってます」
 失礼します。頭を下げ、ドアを開けてナオミは歩き出した。
 その背中をじっと見つめる。───こちらの返事を待たず立ち去った彼女は、もしかしたら私がうなずかない可能性を想像したのかもしれない。それを見たくなかったのかもしれなかった。



 連絡はしておいたとはいえだいぶ待たせてしまったともりを向かえに行った。どこか中に入っていてね、着いたら連絡するから、と言ったのにともりは前回と同じ場所でガードレールに寄りかかり待っていてくれた。
 車を停めて助手席にともりが座った。力が抜けて、かくん、とハンドルにつっぷするようにうな垂れる。
「みーさん? どうしたの?」
「……きついなって、思ってたの」
「きつい?」
「疑うことは簡単に出来るしするけど、疑われることはきついなって。───ずるくて、ずるいこともきついなって」
そんな今さら。当たり前のことを。偽善者ぶって。
 いいひとで在りたいと思うけれど胸中では平気で悪態を吐いて、平気でひとを疑ってけれど疑われるのは嫌で、そんな自分にうんざりするけれどでもそれ自体が偽善じみてて嫌だと思う自分が嫌です。
 容疑者と会って、そのひとに触れて、過去を垣間見て、現状を把握してそのひとの問題を解決して。
 そんなこと出来ないよ。映画じゃあるまいし。ひとつひとつ解決して、ひとりひとり容疑者が減っていくなんてない。余計ややこしくなって、ひとだけじゃなくてそのひとの感情まで抱え込んで、重たくなってさらに身動きが取れなくなっただけだった。なにしてるんだろう。私、なにしてるんだろう……。



 ともりのあたたかい手が、私の手を握った。



「……?」
「甘えてんの」
「……ともりが?」
「そう、俺が」
「……そっか」
 呟いて。
 右を向いた。窓の外、街頭に照らされるどこにでもあるような住宅地の道路を睨むように見据えて、



 涙腺が痛みに負けないようにと、必死に唇を噛みしめた。───今出来るのは、それだけだった。



「みーさん」
「……なあに」
「みーさんがどれだけ大変でも。みーさんがどれだけ苦しくても。申し訳ないけど、俺は」
 指先をあたためるように、大きな手にきゅっと力がこもる。
「みーさんと手の繋げる距離にいられて幸せ」
「……うん。ありがとう」



 冷たい窓ガラスに額を付ける。
 そうだな、もうひとつ。
 もうひとつ、今出来ることがあった。



 手が繋げる距離。



 ───願わくば、彼女もそう思ってくれていますように。
 


 祈ることだ。
 心から。
 そうであったらいいな、と。










〈 詐欺師と箱庭、嘘の続き 〉

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