マクデブルクの半球

ナコイトオル

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詐欺師のナマエ 

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 何も言わず、握っていた携帯を投げ付けた。乱暴だなあ、と古見が醜く笑う。
「んだよこれ、大昔の携帯」
「あんたが犯人だって、最初から知ってた」
「あ?」
「知ってた。あとは証拠が欲しかった」
 遅せえんだよ。低く呟く。あんたが犯人だって証拠、出すのが遅過ぎる。
「証拠は手に入った。さっきあんたがかけてきた携帯の通話記録はこの携帯にもあんたのスマホにも携帯会社にも残ってる」
「だからなんだよ」
「馬鹿だな。まだ気付かない? ───あんたに番号教えてないでしょ? なのに何でかけてこれるの?」
「ミキにメアドと一緒に聞いたからだよ」
「嘘。ミキにはアドレス教えるようにしか頼んでない」
「知るかよ。昔馴染みなんだ、昔どこかのタイミングで知ったんだ」
「嘘。だって」
 ポケットに手を突っ込む。警戒したようにフルミが目を細めたが、構わずに掴んだそれを引っ張り出す。
 スマートフォン。ディスプレイをともし、小さく振った。
「使ってるのはこっち。───そっちの携帯番号は、今じゃもうコウくんしか知らない」
 フルミの顔が、引き攣った。
 そう。高校時代使っていたフリップ型携帯は、古くなり、スマートフォンの出現により主要使いが徐々に難しくなって行った。
 だから大学入学と同時に新規購入したスマートフォンと新たな電話番号を主要使いにし、かつて番号を交換した携帯電話はただ充電され鞄の中に仕舞われるだけのものになった。
 鳴らない携帯。でも、いつかは鳴るかもしれない携帯。
 たったひとりだけを待つ携帯だった。
「あんたがわたしの周りの人間に手を出さなくて、よかった。わたしには直接手を出して来るだろうと思ってたし、実際そうだったから。勢い余らないかは不安だったけど」
U駅でミキと呼んだ時、一瞬彼女が強張った顔をしたことを思い出す。三木吉野───改まる場所でもないのに苗字を読んだ時は周りに警戒しろという合図だと、そう決めたのは高校時代のこと。
はじめは高校時代の痴漢対策だった。吉野しか知らない痴漢の顔を、それとなく伝えるために、電車内で近くに犯人が来た時に何気なく呼ぶのだ。ミカ、と短く。
「その答えが全部じゃないだろ」
「コウくんから電話がかかってきた時点で、犯人はあんたしかいない」
「何故」
「直美が、京子ちゃんが犯人だったとして───コウくんが電話をかけた瞬間に突き落とすなんて、何のメリットもない。日を改めればいい話なんだ。下手に電話が繋がったらどうなるか分からないんだから。あんたは違うでしょう。電話した相手がわたしだったからコウくんを突き落としたんだ」
 認めたくない相手。
 『当主』に『相応しくない女』
 そんな相手の名前を、───きっとコウは、何よりもうれしそうに幸せそうに紡いだ。



 ずっとずっと一緒にいたはずの幼馴染が見せた、はじめての貌。
 それを生み出したのは自分ではなく。───高校時代虐めていたはずの女。



「……さっきから、コウくんコウくんって何だよ。不愉快だ」
「コウくんはコウくんだよ。あんたは知らなくていい。一生、知らなくていい。直美と私が毎日どんな話をしたのか、京子ちゃんと私が毎日何を食べていたか、一生知らなくていい」
 グローブピンチから革手袋を外す。慣れた手つきでそれを嵌める。
「コウくんがわたしに電話をしてきたのは、二乃 春日が昏睡状態になったからでしょう。それをあんたがコウくんに報せに行ったんでしょう」
 今度こそ、フルミの顔は驚愕に彩られ引き攣った。どうしてそれが分かる? 表情が告げる。
「二乃 春日が昏睡状態になった時点で、もう当主はコウくんになったも同然。何も邪魔するものがなくなったんだ。二乃家の人脈を使えば、海外にいる家族はともかく日本で仕事するわたしの仕事を失くすことくらい簡単だっただろうから……古く大きな家だからね。だから成人してもわたしに連絡をすることが出来なかったんだ」
 眼を瞑る。想像する。あの夜、この非常階段で起こったことを。
 重要なことだから、と、勤務していた病院から人気のないここまで来たコウとフルミ。二人は度々、重要な話をする時にここを使っていたのかもしれない。だから監視カメラが壊れているのに気付いていても、敢えて修理を急がせなかった。
「春日さんが昏睡状態になった」
 悲痛な面持ちで、低い声でフルミはコウに告げる。それを聞いて、コウはきっと、赦せなかった母親を想うよりもまず先に───歓んだ。これが彼の、失策だった。母親の状況がうれしかったわけではきっとない。けれど、漸く自由になれたことがうれしくて。
 ポケットからスマートフォンを取り出し、よろこびで震える手でタッチしはじめる。ずっと覚えていた番号を。



「なに、してる?」
 ───幸に会える。
「ミユキ? 誰だそれ」
 御影だよ。高校時代一緒だった。
「……お前が虐めてた?」
 あれは嘘だよ。
「嘘?」
 幸を護りたかった。幸は俺を護ってくれてた。だから今度は俺がって、ずっと。
「何の話だ?」
 名前が一緒なんだ。幸と幸。俺たちはずっと一緒だって。
「───御影と、お前が? ───なんだよ、その貌。俺は何もしらない───」
 幸。やっと、やっと、声が───



 そして。



                          そして、



「……相応しくない。相応しくないだろ、お前は」
 獣のような声だった。喉元を低い音が転がり、ぎりぎりと零れ落ちる。
「春日さんが排除しようとしたのなら、お前はコウにとって邪魔な存在だということだ」
「『当主』にとって、でしょう」
「同じことだ」
「違う。心を無視するということだ。……コウくんの母親がわたしを排除しようとしたことに、恐らく意味はないよ。ただ自分の管理下に置きたかっただけだ。自分の知らないところで息子が誰かに心を開くのが赦せなかっただけだ。自分の決めたこと以外のことが起きるのをよしとしなかっただけだ」
「息子を心配するのは愛情だろう! 俺の、俺だって、コウのために人生をかけてきた! 多くの犠牲の上にニノは在る、だから! だからせめて、当主は完璧じゃないといけない! 俺が支える俺の当主は完全でなければならない! これだけ完璧なものが在るのだから仕方ない、これだけ完全なものが在るために仕方ないと思わせなければならない! 春日さんに排除されたお前はコウに相応しくないッ!」
「……そうだね。あんたのそれもきっと、愛だ」
 認める。そうだろう。そうでなければ、確かに人生をかけることなんて出来ないはずだ。
「でも馬鹿だ。馬鹿だ! 愛するっていうのは───両手を広げて、相手の心を真っ直ぐに見て、そのひとの傷を、それが過去のものであろうと未来のものであろうと、大切に大切に抱き抱えることだ。決して、傷を利用するようなことじゃないんだよ」
 識っていたでしょう。───分かっていたでしょう。
 コウくんが苦しんでいることを。
 識った上で。分かった上で。───無視していたでしょう。



 自分の望む『完璧な当主』を、自分のために完成させるために。



 拳を握る。歯を食い縛る。
「───馬鹿みたい」



 吠えるように祈って、



「───そうやって、ひとを嗤って。
 嘲って、感情を軽視して、心を踏み躙って。
 持ち出して好きなように切り刻んで弄んで、そんなら風に、全部ぜんぶ、あんたの思い通りに出来ると思うなら!」



 祈るように吠えた。
 さあ、はじまりに還ろう。






「どうしてコウくんは───わたしに電話したの?」






 古見直樹から
 その時はじめて、表情が消えた。



「あなたのところに、コウくんはいない」



 わたしの中の半身が叫ぶ。



「あの時からずっと、わたしと一緒にいる」



 コウの半分をわたしが持つように。



「だからね。あんたにあげる。ずっとずっと一緒にいたのに、でもなんにも持ってないあんたにあげる。───あの瞬間以外のすべてを」



 春の桜吹雪、桜のおにぎりを一緒に頬張った。
 夏の夜の下、花火の光の中はしゃいで過ごした。
 秋の風の中、落ち葉を撒き散らしながら追いかけっこをした。
 冬の匂いを嗅ぎ、降り注ぐ雪を両手を広げて受け入れた。
 図書室の中、人目を忍んでたった一度だけ語り合った。
 雨の昇降口、残した傘を、きっと彼は受け取った。



 微笑む。笑う。そう。
 敗けるわけにはいかない。
 引くわけにもいかない。けど。



 笑って終わらせようと思っていたんだ。



「それがどの時なのか───あんたには一生、分からない」



「分からないでしょう」



 直感で理解して。
 本能はきっと、理性を手放した。
 泣き叫ぶように吼えて、襲いかかってくる男───手の中に鋭い銀色が煌めいた。避けられない。避けられるわけがない。ただ視線だけ逸らさず真正面から受け止めて、その刃を掴んだ。
 革手袋が切り裂かれる。痛いというより鋭い熱が手のひらの皮膚と肉を断ち、焼く。
 身体が悲鳴を上げるのを感じてそのままに吼えた。敗けない。敗けない。譲らない。大事にしてくれないのら、あんたになんかあげない。
 ナイフを掴んだまま思い切り蹴りつける。鳩尾に入ったようだがそれは相手を若干退けるだけで、けれど、その時間があれば十分だった。
 熱さを無視して手首を思い切りひねりナイフを捥ぎ取る。そのまま手放して、血まみれの掌で拳を握った。
「あああああああッ!」
 思い切り頬を殴り付ける。思い切り。女の力で勝てるわけがなく、何発目かで腕を掴まれて押さえ込まれた。首に手が回り、気道を押さえられ潰すように絞められる。
 ごうごうと音がする。耳の中に血が流れるような音が鳴り響き、身体中で何かが暴れる。出せ、出せと喚いている。
 しね、と男の唇が動いた。何の躊躇いも恐怖もない表情。───そうだよ。そうこなくっちゃ。そうじゃなきゃ、わたしはあなたを縛れない。



 わたしを ころして
 一生、わたしに縛られろ
 わたしはあなたを───



 その時。
 足元に落ちていたそれが鳴った───暗闇の中を切り裂くディスプレイのあかり。わたしを呼び戻す、あの絞った叫び声。
 男の意識がそちらに行った。ほんの刹那。───それで、十分だった。
「───ッ!」
 最期の力を振り絞る。最期だ。だから何度だって死んでやる。
 相手の身体を蹴り飛ばす。意識を背けていた体は簡単に引き離れ、バランスを崩し、



「                 ───」



 唇が動きかけて、
 結局、誰の名前を呼ぶことも叶わず、───そして、



 空中に閃いた黒い体は、鈍い音を立てながら階下の踊り場に落ちた。



 残ったのは、自分の荒い呼吸だけ。



「っ……はっ、っ……」
 暗いはずなのに視界がちかちかと明滅する。解放されたはずなのに上手く息が出来ない落ちていったあれと同じ、誰も呼べない。どうやって呼べばいいというのか。
 激しく胸が上下するのが映る。苦しい。息が出来ない。でも、これで、
 これで終わりなら、これはこれで、



 その時、視界の端に鈍く光るものを見た。



 下から照らされる光を受け、それが冷たさを伴って自分の存在を主張する。



 胸元から零れた、真鍮のホイッスル。



「ぁ……」



 ぼろり、と涙が零れた。



 終わらせてくれない。まだ終わらせてはもらえない。そんな簡単に、終わることは出来ない。



 投げ出された腕を、血まみれの掌を、温度を失くした指先を、必死に手繰り、



 呼んだ。誰よりも自分の隣にいてくれた、あのかつての少年を。



 弱々しく響いた音は、わんわんと耳鳴る騒音を切り抜けて身に響いて行った。そして気付く。パトカーのヘッドライトだ。だって聞こえる。大勢の声の中から確かに聞こえる。彼の声が。そこにいる。きっと、いてくれる。
「とも……り」
 唇からホイッスルがこぼれる。それでももう一度咥えて、何度でも何度でも彼を呼んだ。



 ここに来て。迎えに来て。とても疲れてしまったの。
 わたしの全部を、迎えに来てほしい。



 身体の下の金属を揺らす振動。大勢が駆け上がってくる気配。必死に呼ぶ声。彼しか呼ばないあの愛称。



 ここに来て。あなたが手を繋げる距離にいてくれると、わたしはとてもうれしい。



「みーさん!」



 あたたかい手が届き、幸の身体を抱きしめた。抱きしめ返す力はない。なくても灯が埋めてくれた。ありがとう。ありがとう。本当に、ありがとう。



「ともり……」
 泣きながら笑いかける。ともりも泣いているからお互い様だ。



 もう一度伝えよう。
 ともりは何度も伝えてくれたのだから。
 わたしだって同じくらい伝えよう。



「……愛してるよ」



 降りてくる暗闇はあたたかく、やわらかい。



 そうして、わたしたちの嘘は終わった。










〈 幸せたる詐欺師、愛の言葉 〉



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