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第一話:ずぶ濡れの白雪姫
しおりを挟む俺――葛原葛男の通う高校には、『白雪姫』がいる。
彼女の名前は、白雪冬花。
背まで伸びた白い髪、整った美しい顔、澄んだ紺碧の瞳、雪のように白い肌――ついた仇名が白雪姫。
白雪との関係は、所謂『幼なじみ』というやつだ。
まぁ実際には、お互いの身分があまりにも違い過ぎて、気安く話し掛けられるような仲じゃないんだが……。
「……見間違い、じゃねぇよな」
春休み最後の一日。
朝・昼とバイトをこなした俺が、ビニール傘を差して帰り道を歩いていると――信じられないものが、この目に飛び込んできた。
土砂降りの雨の中、制服姿の白雪姫が、公園のベンチに一人ポツンと座っているのだ。
「――風邪引くぞ」
俺が傘をスッと差してやると、彼女はゆっくり顔を上げる。
「……葛原、くん……?」
「おぅ。こんなところで、何してんだ?」
「……家出してきました」
「そうか」
「そうです」
白雪は日本を代表する『白雪財閥』の御令嬢。
躾や教育なんかは、とんでもなく厳しいと聞く。
(しかし、あの我慢強い白雪が家出をしてくるとは……)
おそらく、よっぽどのことがあったのだろう。
「……」
「……」
互いに黙りこくったまま、しばしの時間が流れる。
(……マズいな)
自慢じゃないが、女子との会話力はたったの5――ゴミ以下だ。
こんなことなら、事前に『会話デッキ』でも組んでおくべきだったか。
(まぁとにかく……)
この雨の中、彼女を放置しておくわけにはいかない。
「家、来るか?」
「……え?」
昔から白雪は、突発的なことに弱い。
彼女が混乱しているうちに、ポケットからスマホを取り出し、妹の結へテレフォン。
コール音が鳴る前に、元気な声が飛び出した。
「――はいはーい。どったの、お兄ぃ?」
「結。悪いんだけど、風呂の準備を頼んでもいいか?」
「お風呂? あー。今日の雨、凄いもんね。オッケー、任せといて」
通話終了。
「――というわけだ。無理強いはしないが、よかったら来てくれ」
俺はビニール傘を白雪へ手渡し、そのまま自宅へ向かう。
「えっ? あっ、ちょっと……葛原くん、傘……!」
■
築百年を超える我が家へ到着。
「……葛原くんの御自宅に上がるなんて、いったいどれくらいぶりのことでしょうか」
「あのときは確か、小学五年生だったから……。五・六年ぶりだな」
そんな話をしながら、風呂場の方へ向かっていくと――ばったり妹に遭遇した。
葛原結、14歳。
茶色がかったミドルヘア、大きくて柔らかな瞳、ちょっぴり尖った八重歯が特徴的だ。
「あっ、お兄ぃ。おかえ……!?」
結は目を丸くし、ゴクリと息を呑む。
「奥手で鈍感で捻くれ曲がった、あのお兄ぃが……。白雪さんを自宅に招き入れるだなんて……っ」
「おーい、お口が暴れ回ってんぞ」
「結さん、お久しぶりです」
『お久しぶりです』と言うが、白雪と結は意外にもかなり仲がよく、たまの休日には二人で遊びへ行っている。
ガードの固いことで有名な白雪が、大人しくこうして付いて来てくれたのも、さっきの電話で結がうちにいるのを知っていたからだろう。
「お兄ぃ、白雪さん……末永くお幸せに……っ」
暴走気味の結はそう言って、自分の部屋へ走り去っていった。
「はぁ……悪いな。あいつは昔から、思い込みが激しいんだ」
「いえ、大丈夫です。いつものことですから」
その後、白雪を風呂場へ案内。
「濡れた制服やら何やらは、こっちの洗濯乾燥機へ。悪いが、仕上がり具合には期待してくれるなよ? こいつはもう十年戦士なんだ。後は……そうだな。結に代えの服を持って来させるから、風呂から上がったらそれを着といてくれ」
「ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げ、ゆっくりと脱衣所のカーテンを閉める。
俺が自室に戻ろうとしたそのとき、シュルシュルという衣擦れの音が聞こえてきた。
「……っ」
うちのカーテンは非常に薄いため、白雪が制服を脱いでいく姿――そのシルエットがはっきりと見えてしまう。
俺はすぐに回れ右をして、自分の部屋へ撤退。
(あー……落ち着かねぇ……)
幼なじみの美少女が、家の風呂に入っている。
年頃の男子高校生として、中々に気が休まらない状況だ。
(とりあえず、部屋の片付けでもしておくか)
悶々とした気持ちを抱えながら、しばらく掃除に精を出していると、部屋の扉がコンコンと優しくノックされた。
「――葛原くん、白雪です。入ってもいいでしょうか?」
「あぁ」
扉が開くキィという音が鳴り、洗剤のいいにおいがしてくる。
「お風呂、いただきました」
「おぅ、温まった……か……っ」
片付けの手を止め、ゆっくりと振り返り――思わず息を呑む。
お風呂上がりの白雪姫は、あまりにも刺激が強過ぎた。
血色のいい瑞々しい肌、潤った美しい白の髪、ほんのりと上気した頬、そして何より――リンゴのイラストがプリントされた、結のお気に入りのTシャツ。
(な、なんて暴力的なんだ……っ)
胸の控えめな妹が着れば、皺の入った元気のないリンゴに過ぎないのだが……。
胸の豊かな白雪が着れば、それはもう破裂寸前の爆弾リンゴだ。
正直、目に悪い。
「どうかしましたか?」
固まる俺に対し、彼女は不思議そうに小首を傾げる。
「い、いや、なんでもない」
「……?」
それから俺は勉強用の椅子に腰を下ろし、白雪にはベッドに座ってもらう。
「……」
「……」
空気が重い。
ここはやはり、男の俺から何か気の利いた話題を……。
「……理由、聞かないんですか?」
白雪がポツリと口を切る。
理由。
家出の理由、か。
「聞いた方がよかったか?」
「いえ、そういうわけではありませんけど……」
しばしの沈黙の後、彼女が重たい口を開いた。
「……私、必死に努力してきたんです。白雪家の一員として、家族として認められるよう、頑張って、頑張って、頑張って……っ。だけど、認めてもらえなくて……。そしたら――」
彼女はそこで口を噤む。
『そしたら――』の先は、きっと口にしたくないことなのだろう。
「――白雪は頑張ってる」
「……え?」
白雪冬花は、途轍もない努力家だ。
みんなが遊んでいるとき、彼女は努力している。
みんなが休んでいるとき、彼女は必ず努力している。
みんなが勉強しているとき、もちろん努力している。
小学生の頃、俺はその尋常ではない頑張りをずっと近くで見続けてきた。
だからこそ、言わずにはいられなかった。
「大丈夫。君の努力は、いつかきっと報われる」
我ながら、無責任な言葉だと思う。
俺のような一般市民じゃ、白雪の力になることも、後ろ盾になることもできない。
しかしそれでも、彼女の頑張りを知っている者が、彼女の成功を願っている者が、彼女を陰から支えたいと思っている者が、少なくてもここに一人いることを伝えたかった。
「……ありがとう、ございます……」
白雪は声を震わせ、目尻に涙を浮かべる。
それからしばらくして、ようやくいつもの落ち着きを取り戻した彼女は――。
「さ……さっきのことは、忘れてください……」
グルグルと目を回しながら、真顔でポツリと呟いた。
完璧主義に育てられた彼女にとって、自分の弱った姿を見られることなど、絶対にあってはならないのだろう。
ただ……。
「それ、俺に言うか?」
「……バール……何か、バールのようなものを……っ」
「おいおい、目が本気だぞ……!?」
そんな風にちょっとした冗談を交わしていると、風呂場の方から洗濯乾燥機が元気な叫び声をあげた。
どうやら、無事に任務を果たしたようだ。
「――服が乾いたようなので、着替えてきますね」
「おう」
「……覗いちゃ駄目ですよ?」
「覗かねぇよ」
「ふふっ、冗談です」
彼女はまるで悪戯っ子のようにクスクスと微笑み、脱衣所へ向かっていった。
「ったく……」
まぁ、ちょっとは元気を取り戻してくれたようで何よりだ。
それから俺は、時間も時間だったので、制服に着替えた白雪を彼女の家の近くまで送り届けた。
「――葛原くん、今日はありがとうございました」
「気にするな。たまたま通り掛かっただけだ。……というか、大丈夫なのか?」
「はい、執事長の田中には怒られてしまうでしょうが……。お父様は……私に興味がないようなので、おそらく問題ありません」
「そう、か」
娘が土砂降りの雨の中へ飛び出して行って、『問題なし』――複雑だな。
「では、その……また明日」
どこか気恥ずかしそうに、小さく右手を振る白雪。
「おぅ」
俺は軽く右手をあげ、そのまま帰路につく。
白雪冬花の隣人Aかつ幼なじみAかつクラスメイトA――それが葛原葛男という男の立ち位置だ。
所詮モブキャラの一人に過ぎない俺が、それ以上の関係に進むことなど決してなく、白雪と運命が重なり合うことなんてあり得ない。
このときはまだ、そんな風に思っていたのだが……。
その考えは、明日にも吹き飛ばされることになった。
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