愛に抗うまで

白樫 猫

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31話

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汰久がリビングに戻ると、聡が一人残っていた。

「おっ、汰久‥虎太郎は寝たのか?」
「ああ、しばらく寝かせるよ‥」

聡の隣に座ると、もう少し飲みたい気分になり、自分のグラスを手に取る。

「‥ワインで良いの?」

汰久のグラスが残り少ない事に気が付き、聡はワインを持ち上げる。

「ああ、ありがとう」

グラスに注いでもらい、汰久はゆっくりと口に運ぶ。

「お前は酒が強いよなー。酔っ払ったところ見た事ないぜ」
「‥まぁ、そうかも‥」
「‥で?あの事は、まだ虎太郎に言ってないのか?」

汰久は聡の顔をジッと見つめる。

「‥まだ、言ってない」

ポツリと口にした言葉に、聡が大きくため息を付いた。

「はぁ~お前なぁ、会社の取引先で偶然って‥無理があるだろ?虎太郎は気が付いてないのか?」
「いや‥多分、勘付いてはいるかも‥」

自分のグラスに視線を落とし、言い辛そうに言葉を選びながら話す汰久。

「‥自分の口から、ちゃんと話した方が、虎太郎は嬉しいと思うけど?」

追い打ちをかけるように聡が正論を言う。

「‥っ‥‥分かってる」

聡の言いたいことは分かる。
いつまでも、自分の親の会社の事を秘密にする必要はないと言っているのだ。
汰久もそう思っていた。
そこまで隠しておくべき事ではないし、ただ話すタイミングを失ってしまっただけ。
むしろ今になっては、そんな些細な事、どうでも良かった。

就職が決まったと話した時、汰久は虎太郎に違う会社の名前を言った。
ただそれだけなら良かった。

汰久は、就職した後も虎太郎の様子をちょくちょく見に大島食品を訪れていた。
望月奏も来栖遥人も、汰久にとっては邪魔でしかない。
調べてみれば、来栖遥人はゲイで、簡単に男と寝る軽い男だった。
そんな男に、大切な虎太郎を奪われる訳にはいかないと目を光らせていたのに、あの日、来栖遥人は自宅に虎太郎を連れ込んだ。
よりによってあんな尻軽男を選ぶ虎太郎にも、怒りが湧いてくる。
伊藤食品は虎太郎の就職先の大島食品と取引のある会社で、虎太郎が来栖と一緒に伊藤食品に挨拶に来た時、汰久は遠くから見ていた。
二人で仲良さげに歩く様子は、遠目で見てもすぐに分った。
怒りで我を忘れそうになるとはこの事だと、自分の心に正直に行動した結果がこれだ。

そして今、虎太郎が自分に優しく接してくれる度に、自分の事をあたかも好きでいる様に接してくれる度に、自分がやってしまった罪の重さが汰久を押し潰している。
それは、自業自得ではあるが、汰久はそこから抜け出せないでいる。
許しを請うなんてことは、一生出来ないと思う。
そんな事をすれば、虎太郎は簡単に自分の手から離れていくと分かっているから。
汰久は、どんなことをしてでも、虎太郎を手放すなんて事は出来ないと思っていた。

ワインを飲みながら、汰久はこれ以上、口を開くことはなかった。
真っ直ぐに見てくる聡の瞳が、すべてを知ってそうで、汰久は目を逸らした。




夜が更けシンと静まり返っている中、自分の部屋のドアが小さく叩かれているのに気が付いたのは虎太郎だった。
いつの間にがぐっすりと眠ってしまった身体をゆっくりと起こすと、隣のベットでは汰久が寝息を立てているのが見えた。
起さないように、ドアに近づきカチャリと開く。
目の前には聡が、やあ!と片手を上げ笑顔で立っていた。
手招きされるがまま廊下に出ると。

「汰久は?寝てる?」

そう聞いてきたので、小さく頷く。
別荘内はみんな寝ているのか静まり返り、無意識に声も小さくなる。

「‥なに?‥どうかした?」

虎太郎の声に、聡は申し訳なさそうな顔をする。

「‥ごめん‥ちょっといい?」

そう言って、階段を降りていく聡の後ろを虎太郎も静かに付いて行く。
リビングに着くと聡が振り返る。

「虎太郎‥俺さ、なんか分かんないけど‥あの人放っておけなくて‥余計なお世話だったら、ごめん。だけど‥あの人は、真剣だよ。もう一度、話をしてみて‥」

何の事を言っているのか分からず、虎太郎の瞳が動揺している。

「‥ごめん‥なんのこと?‥あの人って‥誰?」

虎太郎の問いには答えず、聡はリビングの窓を開くと、外のウッドデッキに虎太郎の背を押し出す。
外はひんやりとした空気が纏い、暗闇の中に、少し離れた別荘の街灯が光を放っていた。

「‥聡?」

外に出され戸惑いを感じ、リビングに残っている聡の方を振り返ると、聡がなんとも言えない顔をして、リビングの窓を閉めた。

「おっ‥おい‥‥」

夜中に大きな声を出すのを憚られた虎太郎は、窓を叩こうとした手を握り締める。
自分は外に締め出されたのだろうか?そう考えている時に、背後から声がした。

「‥若奈」

自分を呼ぶ懐かしく優しい来栖の声が‥。
声を聞いただけで、心臓が飛び出るほど喜び出す。
虎太郎はゆっくりと声の方を振り向くと、少し離れた場所に来栖が立っていた。

「‥どうして‥‥ここに?」
「‥ごめん。俺が鶴木君に頼んで、教えてもらって‥鶴木君は悪くないから、怒らないでくれ。もう一度、どうしても若奈と話がしたくて‥」

目の前の来栖は、以前一緒に仕事をしていた頃の自信満々の姿ではなく、少し頼りなく見えた。
そんな姿に、虎太郎の胸がキュッと誰かに握られたような痛みを感じた。
そして、あの時の自分のみっともない姿を見られている事を思い出し、羞恥心から下を向いた虎太郎に、以前と全く変わらない声が聞こえる。

「‥こんな事、俺が言える立場じゃないって事は分かってる。若奈‥本当に会社を辞めるのか?あんなに頑張っていたのに‥これから、お前はもっともっと成長する。俺は‥またお前と一緒に働きたい‥‥俺は‥」

こんな事を言いに来た訳じゃない、来栖は言葉を止めた。
自分が発した言葉が、上辺だけの言葉に聞こえたが、今はこれ以外、何て言えば虎太郎の心を動かせるのか、来栖には自信がなかった。

「‥来栖主任。僕は、もう決めたんです。僕は‥汰久と一緒にいます」

来栖は一歩近づくと、虎太郎の両腕を掴む。

「本当に?‥本当にそれでいいのか?あいつ‥お前の事、脅して‥」

これ以上、口にしてしまうと虎太郎が傷付いてしまうのではないかと、そんな気がして言葉に出来ない。
脅していたものはすべて消えていると、そう教えたいが、来栖はそれが言えなかった。

「‥脅されている事は、もう関係ありません‥あいつには僕が必要なんです。僕にもあいつが‥。もう会社にも戻るつもりはありません」

自分の中に汰久と同じ気持ちがないことくらい、とうに分かっている。
だが、いざ汰久を目の前にすると、汰久の苦しそうな顔を見ると、放っておけなくなる。
自分を求めている汰久を見捨てたり出来ない自分がいる。

「若奈‥俺は‥お前を助けたい」
「主任‥僕は、助けてもらわなくて大丈夫です」

来栖の顔を正面から見据え、堂々と言葉を口にする虎太郎に、来栖は大きく頭を振った。

「‥‥ダメだ!‥俺は何を言っている‥」

小さく呟いた来栖が虎太郎の腕を離した。
離された腕から来栖の温度が消え、虎太郎はブルッと身体を震わせた。

「俺は、こんな事を言うために来た訳じゃない‥」

来栖はそう言いながら、自分が着ている薄手のアウターを脱ぐと、虎太郎の肩に掛ける。

「‥‥僕は大丈夫です」

虎太郎が脱ごうとすると、来栖はそれを制した。

「‥俺は、お前が大切で仕方がない。‥お前が悲しむと‥お前が泣くと思うだけで、心が苦しい‥こんな事は初めてで、この感情が何なのか、上手く言えないが、俺は‥お前の傍に居たい‥お前には俺の隣で笑っていて欲しい」

真っ直ぐに見つめる瞳には、来栖の想いが沢山詰まっているようで、虎太郎は目を逸らすことが出来なかった。
来栖の傍に居る時は、自分らしく素直でいれた。
とても居心地が良く、楽しかった。
ただ、虎太郎もまた、その感情が何なのか答えを出せていなかった。
その答えを見つける前に、自分の心を閉ざしてしまった虎太郎には、来栖の言葉になんて返事をしたらいいのか分からず、ただその真剣な瞳を長い時間見つめていた。

「‥来栖主任‥僕は‥‥ごめんなさい」

ゆっくりと頭を下げる虎太郎を見て、もう自分に出来る事は無いと来栖は感じた。
これが虎太郎の出した結論ならば、自分はそれを受け止めなければならないと、そう思った。

「‥俺の方こそ、勝手に来てごめんな‥」

来栖はそう言って、虎太郎の身体をフワリと優しく抱き締めると、すぐに離し今にも泣きそうな顔で小さく呟いた。

「‥ありがとう」

ホントに小さな声でそう伝えると、来栖は足早に去って行った。

「‥‥っ‥うっ‥‥‥ううっ‥‥」

一度も振り返ることなく、段々と小さくなる来栖の背を見ている虎太郎の瞳からは、なぜか次々と涙が溢れ零れ落ちる。
自分には泣く理由などないと分かっているはずなのに、なぜか涙が止まる事はなかった。
遠くで車のエンジン音が聞こえ、来栖が立ち去った事が分かっても、虎太郎はずっと立ち尽くしていた。
冷たく頬を撫でる風が、虎太郎の身体を冷やしていく。
縋りつくように来栖のアウターを握り締めると、もう戻れない自分と決別するように、また涙が零れ落ちた。

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