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上皇✕貞実(エブリスタ「桜と橘」)
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人生で一度きりの恋をした。
その清算のために私は山奥深い叡山で出家をして、翻訳が未完成な経典を紐解く日々を過ごしている。
だが世の中から隔離されたこんな山の中にまで不穏な噂が届いている。
どかどかと大きな足音が近づいてきて、私は小さくため息をついた。
「貞実、いるか」
上を開け放ち、閉じている下の格子に手を置き、ひらりと飛び越えて上皇さまが部屋に入ってきた。
法名はいただいたが、上皇さまの中ではいつまでも私は『貞実』のままなのだろう。別にそれをどうこう言うわけでもないが、相変わらず自分中心の性格に心の中で苦笑する。
「そのままでいい」
私が文机から離れて座を譲ろうと立ち上がったが、止まられてまた座り直す。
「お久しゅうございます。ここまでは輿で?」
「馬だ。こんな険しい山道を輿では担ぐ奴らが途中で倒れると思ってな。立ち往生するのはごめんだから使いの者に混ざって来た。座主にお前の事を頼んでおいたぞ。布施もたっぷり持ってきた。それでもあいつは俺にはいい顔しないな」
顎に指を当ててくっくと笑う上皇さま。私は頭の中でざっと家系図を思い出す。
「あいつを引きずり下ろしてお前と交代させたいが、出家して日も浅いしさすがの俺でも難しい」
「またそんなわがままを…」
「いや」
少し眩しそうに私を見ていた目が、鋭利な刃物のような光を宿した。
「戯れではない」
「……」
「鎌倉と戦う」
ああ、ついにその日が来た。
戦は子どもの遊びではない。だが自信過剰なこの方に何を言っても聞き届けてはくださらない。
かつては『貞実どのの言う事だけは聞く』と宮中で噂されたが、そうでもなかった。
「全国に院宣を下した。だがここのえらいさんは本当に言う事聞かないな。だから直接話をしにきたが、俺でも論破できない。あいつ強いなあ」
「そうでしたか。てっきり私に会いに来てくださったものかと早とちりしました」
私は微笑を浮かべたままため息をついてみせた。
「お、言うようになったな。さっそく御仏の効果か?」
「さあ、どうでしょう」
「それとも新しい恋人でも出来たのか?」
「あなたと一緒にしないで下さい」
はたから聞けば喧嘩でもしているように見えるだろうが、昔からこれくらいの軽口はきいていた。
それが自分だけが特別だとだんだん思い上がるようになり、結果自分を苦しめる事になる。
多くの愛人を作りながら『貞実をいちばん愛している』と言う。私の願いはそうではない。
私だけを愛してほしかった。
それがかなわないから煮えたぎるような嫉妬心を鎮めるために仏の道に入ったのだ。
私が身じろぎするたび、衣擦れの音と、上皇さまからいただいた数珠がしゃらりと鳴る。上皇さまの視線が一瞬数珠に落ちてから、再び私を見上げた。
「戦は侍どもが戦うだけではない。情報収集や後方部隊の準備、万が一の退路の確保など根回しすることは山ほどある。ここの座主どのはどうあっても頭を縦にはふってくれぬようだ。俺に勝ち目はないと言ってな」
「さようでございますか」
「お前はどう思う?」
「じゅうぶん勝機はあります。朝廷の権威はまだ地に落ちてはいません。すでに天下に号令を出したならお味方につく者どもが都にあふれましょう」
「そうか、そう思うか」
私の嘘に、上皇さまの目が輝く。まるで遊びの延長のようだ。
時代が変わったことを、この方はわかっていない。
「なあ…貞実」
「はい」
「この戦が終わったら、戻ってきてくれないか」
私はゆっくり立ち上がり、上皇さまに近づいてその膝に体を預けた。
「こうしてあなたに全てをゆだねている時が、私の幸せでございました」
上皇さまの熱い手が、髪をおろした私の頭を優しく撫でる。
あなたに甘えるのはこれで最後。
その清算のために私は山奥深い叡山で出家をして、翻訳が未完成な経典を紐解く日々を過ごしている。
だが世の中から隔離されたこんな山の中にまで不穏な噂が届いている。
どかどかと大きな足音が近づいてきて、私は小さくため息をついた。
「貞実、いるか」
上を開け放ち、閉じている下の格子に手を置き、ひらりと飛び越えて上皇さまが部屋に入ってきた。
法名はいただいたが、上皇さまの中ではいつまでも私は『貞実』のままなのだろう。別にそれをどうこう言うわけでもないが、相変わらず自分中心の性格に心の中で苦笑する。
「そのままでいい」
私が文机から離れて座を譲ろうと立ち上がったが、止まられてまた座り直す。
「お久しゅうございます。ここまでは輿で?」
「馬だ。こんな険しい山道を輿では担ぐ奴らが途中で倒れると思ってな。立ち往生するのはごめんだから使いの者に混ざって来た。座主にお前の事を頼んでおいたぞ。布施もたっぷり持ってきた。それでもあいつは俺にはいい顔しないな」
顎に指を当ててくっくと笑う上皇さま。私は頭の中でざっと家系図を思い出す。
「あいつを引きずり下ろしてお前と交代させたいが、出家して日も浅いしさすがの俺でも難しい」
「またそんなわがままを…」
「いや」
少し眩しそうに私を見ていた目が、鋭利な刃物のような光を宿した。
「戯れではない」
「……」
「鎌倉と戦う」
ああ、ついにその日が来た。
戦は子どもの遊びではない。だが自信過剰なこの方に何を言っても聞き届けてはくださらない。
かつては『貞実どのの言う事だけは聞く』と宮中で噂されたが、そうでもなかった。
「全国に院宣を下した。だがここのえらいさんは本当に言う事聞かないな。だから直接話をしにきたが、俺でも論破できない。あいつ強いなあ」
「そうでしたか。てっきり私に会いに来てくださったものかと早とちりしました」
私は微笑を浮かべたままため息をついてみせた。
「お、言うようになったな。さっそく御仏の効果か?」
「さあ、どうでしょう」
「それとも新しい恋人でも出来たのか?」
「あなたと一緒にしないで下さい」
はたから聞けば喧嘩でもしているように見えるだろうが、昔からこれくらいの軽口はきいていた。
それが自分だけが特別だとだんだん思い上がるようになり、結果自分を苦しめる事になる。
多くの愛人を作りながら『貞実をいちばん愛している』と言う。私の願いはそうではない。
私だけを愛してほしかった。
それがかなわないから煮えたぎるような嫉妬心を鎮めるために仏の道に入ったのだ。
私が身じろぎするたび、衣擦れの音と、上皇さまからいただいた数珠がしゃらりと鳴る。上皇さまの視線が一瞬数珠に落ちてから、再び私を見上げた。
「戦は侍どもが戦うだけではない。情報収集や後方部隊の準備、万が一の退路の確保など根回しすることは山ほどある。ここの座主どのはどうあっても頭を縦にはふってくれぬようだ。俺に勝ち目はないと言ってな」
「さようでございますか」
「お前はどう思う?」
「じゅうぶん勝機はあります。朝廷の権威はまだ地に落ちてはいません。すでに天下に号令を出したならお味方につく者どもが都にあふれましょう」
「そうか、そう思うか」
私の嘘に、上皇さまの目が輝く。まるで遊びの延長のようだ。
時代が変わったことを、この方はわかっていない。
「なあ…貞実」
「はい」
「この戦が終わったら、戻ってきてくれないか」
私はゆっくり立ち上がり、上皇さまに近づいてその膝に体を預けた。
「こうしてあなたに全てをゆだねている時が、私の幸せでございました」
上皇さまの熱い手が、髪をおろした私の頭を優しく撫でる。
あなたに甘えるのはこれで最後。
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