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02.身代わり魔女、騎士に疑われる
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***
「申し訳ない、ヴェンデール隊長」
聖女セレスとの謁見後、アスターは神官長から呼び止められてそう切り出された。
「聖女様はいつもああなのですか?」
アスターはセレスがつかんでぶんぶんと振った手を見つめながら、問いかける。
「言動が突飛な方ではありますが、儀式では威厳のある、皆が思うような聖女様を演じ、いえ、聖女様らしい振る舞いをされますよ。今日はどうされたんでしょうね」
はあ、と老齢な神官長がため息をつく。
神官長は長年聖女に仕えている人物だ。その人物がおかしいというのだから、今日の聖女はおかしかったのだろう。
「……まるで他人みたい、でしたか?」
アスターが確認すると、そうですね、と神官長が頷いた。
「まあ、あの方はただの人間ではありませんからね。我々の尺度で測ってはいかんのでしょう」
「そうですね。この三百年ずっと、変わらない姿で王都の結界を維持し、この国を魔物たちから守っている……聖女どころか、セレス様は創世神の化身なのかもしれませんね」
アスターの言葉に、神官長も同意したものの、
「あんなおてんばな女神がいらっしゃったら驚きますけどねえ」
しみじみと呟いた。苦労しているらしい。
神官長と別れたあと、アスターは今日から護衛の責任者となる神殿を見て回ることにした。
神殿は決して大きくない。
この国を守る聖女の住まいにしては質素だな、と思う。現在のバルディア王家の祖でもある人なのに。
ふと人の気配を感じて見上げると、女官を複数人引き連れ、銀色の髪をなびかせて聖女セレスが回廊を歩いていく姿が目に入った。
――まるで他人みたい、か……。
アスターは決して聖女セレスに詳しいわけではない。
質素な暮らしをしているとはいえ、セレスはこの国にとっては最重要人物であるため、めったに人前に姿を現さない。バルディアの民のほとんどはセレスの名を知っていても、セレス本人を目にする機会はない。
それはバルディアの侯爵家出身であるアスターもそう。
しかし、アスターの前に膝をついて手を握ってきた時に、セレスから懐かしいにおいがした。
それはセレスからにおってくるはずがないものだ。
――だってあの人は魔女だ。
セレスは三百年も前からここで聖女をやっている。
なのにその聖女から、よりにもよってアスターの恩人であり捜し求めている魔女のにおいがするなんて、どういうことだろう。
あのにおいを忘れるはずがない。
遠ざかるセレスを見つめながら、アスターはぎゅっと拳を握り締めた。
まっすぐな黒髪、赤い瞳、縦長の瞳孔、とがった耳……あの魔女は、美しくもまがまがしい見た目をしていた。それなのに、まとうにおいは甘くて優しい。
その名前を知る者はおらず、実在するのかどうかもあやしい。
対価に魂を要求するかわりに、どんな呪いも解いてくれる。
竜騎士は魔物を退治することはできても、呪いを解くことはできない。
魔物が跋扈するこの世界において、厄介な呪いを解ける存在は貴重だ。その対価に誰かの命を要求されるのだとしても、彼女に救いを求める人は後を絶たなかった。
美しい女の姿をしており、大陸の東に広がる森のどこかに住んでいるらしいことから、彼女は「東の魔女」と呼ばれていた。
魔女にとって自分はどうでもいい存在だった。
縁もゆかりもないから助ける義理もない。なのに彼女は、魔物に厄介な呪いをかけられた人間の子どもを助けるために、魔物と戦ってくれた。
そのせいで彼女は魔力の根源である竜のうろこを失った。それでも彼女はアスターを責めるようなことは言わなかったし、「元に戻れてよかったわね」と微笑んでくれさえした。
その時、心に誓ったのだ。
強くなろう、と。
魔女が助けてよかったと思えるような大人になろう。
その後、魔女の噂はぱったりと途絶えた。
東の魔女は死んだらしい、という噂さえ流れてきた。
死んでいないことは知っている。でもきっとうろこを失って困っている。
魔女の助けになりたいと思った。
竜騎士になったのは、もともと魔物に狙われるくらい強い魔力を持っていたこともあったが、魔物との関わりが多ければ魔女の情報が手に入るのではないかと思ったからだ。
けれど、この十五年、魔女の足取りはまったくつかめなかった。
気が狂いそうなほど想い続けた。
自分でも「どうして」と思わないでもない。
ほかにいくらでも美しい娘はいる。
けれどどんなに美しい娘を見ても、なんとも思わないのだ。まったく心が動かない。
なのに、黒髪の魔女のことを思うと心臓がドキドキして、会いたくて、声が聞きたくて、気が狂いそうになる。
その魔女の気配を見つけることができた。なぜか、バルディアの聖女に。
聖女セレスと東の魔女にどういう関係があるのかわからないが、ようやく見つけた手がかりだ。
――必ずあの魔女を捜し出す。東の魔女カイエを。……まずは聖女に近付くことだな。
聖女は東の魔女となんらかの関係があるはずだ。
でなければ、アスターが捜し求めている東の魔女のにおいがするはずがない。
***
身代わり三日目。
カイエは行儀悪く、神殿の一階にある自室の窓辺に腰掛けて、空を眺めていた。
ふわもこな雲が風に乗って流れていく。
セレスは今頃、推しのライブに熱狂しているだろうか。
聖女という役目に一筋なセレスがどうしても行きたいと、カイエに任務を押し付けてまで出かけたライブだ。楽しんでくれていないと困る。
昨日の着任式のあと、神官長と女官長(あの立場がある女官は女官長だったらしい)に問い詰められ「何か変なものを食べてしまい、記憶がふわふわと曖昧になっていて……」と苦しい言い訳をする羽目になった。
驚いたことに神官長も女官長も「聖女様ならやりかねない」と納得したことだ。
姉の普段の生活態度が気になる。三百年もここで聖女をしている人なのに、それでいいのか。
記憶喪失は一時的なもので、十日もすれば元に戻るから、それまでは重要な儀式などは入れないでほしいと頼んだ結果、「聖女様は体調不良につき休養中」ということにしてもらえた。
それ自体は「しめしめ」なのだが、そうすると今度は退屈でしかたがない。
――まあ私がここにいてこれを握り締めていれば、代役は務まるんだけど。
竜のうろこを呼び出して眺める。
手のひらサイズのそれは半透明で七色の光を放っている。
もとは創世の竜の体をおおっていたうろこだ。かつてカイエも持っていた。
でも、魔物に呪われた子どもを助けた時に砕け散ってしまった。
そのことは後悔していないけれど、そのせいで魔力は弱まり、今も魔力の流出が止まらない。たぶん寿命も減っている。
証拠に、髪の毛や爪が伸びるスピードが早くなったように思う。少し背も伸びたし、胸も大きくなったような? セレスには及ばないけれど。
魔力の流出とともに老いは加速していくのだろう。
――なら、いずれ年老いて死を迎えるのかな。
まるで人間みたい。
――セレスは人間になりたいって言ってたなぁ……。
愛した人と一緒に老いて死にたい。それがセレスの願いだった。何を言うの、無理でしょそんなこと。あの時はそんなふうに答えた気がする。だって私たちは「そういうふうにはできていないのだから」と。
無理ではなかったようだ。
今からセレスに教えようかな?
――遅すぎるか……。
うろこをしまい、再び空に目をやる。
さっき眺めていたふわもこな雲はどこかに消え、別な雲がもこもこと漂ってきていた。
「ご気分が優れませんか」
ぼんやりしていたところにいきなり声をかけられて、驚きのあまりカイエはバランスを崩してしまった。
窓の外に体が投げ出される。
とっさのことで何もできなかった。
誰かがカイエの体に腕を回す。
体中に衝撃が走る。
不思議と痛みはなかった。
おそるおそる目を開けると、至近距離にアスターの整った顔があった。
カイエは地面に膝をついたアスターに抱き留められていた。
「申し訳ございません。聖女様を驚かせるつもりはなかったのですが、見回りをしていたら一人で窓辺にいるところが目に入ったもので、つい」
アスターが気遣わしげにカイエを見つめる。
吸い込まれそうな美しい氷色の瞳に、思わず見入ってしまう。
その瞳の奥で何かが揺れた。
はっと我に返る。
「ご、ごめんなさい! 重たいわよね」
急いでアスターの腕から逃れようとしたが、なぜかアスターは腕を離さない。それどころか、ぎゅっと力を込めてカイエを抱きしめてきた。
アスターがカイエの首筋に顔を埋めて深く息を吸う。
「……このにおい、間違いない」
「におい?」
「なぜ聖女様がこのにおいをまとっているのですか? これは……東の魔女のにおいです」
「は……はあ!?」
東の魔女のにおいだと!?
「教えてください。聖女様は東の魔女とどういう関係が? 何かつながりがあるのでは……!?」
バッと体を離し、今度は肩を掴まれて顔を覗き込まれる。
――もっ、もしかして私が東の魔女だとバレた……?
だが東の魔女は十数年前に姿を消したままだ。
アスターはせいぜい二十代半ば。
東の魔女は謎めいた存在だ。カイエ自身、正体をはっきりと明かしたことがない。自分のことを知る人間がそうそういるはずがない。
これは勘違いか、激しい思い込みの類に違いない。
「なんのこと?」
というわけで、カイエはしらばっくれることにした。
「ですが」
「鼻がきくのね、坊や」
カイエはそう言ってアスターの鼻をつまんだ。ふがっ、と美青年がらしくもない変な声を上げる。腕の力が緩んだところでカイエはアスターの腕の中から抜け出し、距離をとった。
「私はセレス、この国の聖女。東の魔女なんて知らないわ。私の前で魔物の名前なんて出さないでちょうだい」
「東の魔女は魔物ではありません。彼女は素晴らしい女性です」
カイエの言葉にアスターがむっとしたような顔で食らいつく。
「魔物よ。人の魂を貪って何百年も変わらない姿で生き続ける、そんなものが素晴らしい存在のはずがない」
セレスもカイエも人の魂を糧としなければ魔力の維持ができない。
セレスがどうやって人の魂を調達しているのかは知らないが、人付き合いの苦手なカイエがそれでも人と関わっていたのは、魔力を差し出す対価として魂をもらうためだ。
「……それでいったら聖女様はどうなのですか。何百年も変わらない姿のまま生き続けていらっしゃる」
「私が魔物とでも? あなたたちを守るこの結界を張り続けている私を?」
カイエが睨むと、アスターがはっとしたように目を伏せた。
「申し訳ございません。口が過ぎました」
「本当よ。ひどいわ。もう行きなさい、騎士アスター。私はあまり気分がよくないの」
カイエはそれだけ言い残すと踵を返し、アスターの前を立ち去った。
姉っぽく、というより聖女っぽく振る舞えただろうか。
それはそれとして、
――素晴らしい女性ですって? 私が?
アスターの姿が見えない場所まで来たところで、カイエは立ち止まり、唐突にうろたえ始めた。
自分の人生でそんなことを言われたことは一度もない。
――でも、においって言ったよね、あの人。におい? 私ってにおう? くさい?
試しに自分の腕を持ち上げてクンクンしてみる。毎日風呂には入っているし、服だって洗濯しているので、くさいということはないはずだ。
――あの口ぶりだと、本当に私を知っているみたいね。どこかで会ったことあるのかしら?
うろこを失って以降は特に人目を避けているから、まったく心当たりがない。とすると、それよりも前。
ただ、あのひたむきな瞳には見覚えがある気がする。
どこで見たんだったかなぁ、と記憶を手繰っていて思い出した。
――しばらく預かっていた子犬があんな目をしていたんだわ。大きな目をクリクリさせながら、おやつを楽しみにしていたわよね。
あの犬を預かったのは、今から十五年ほど前のことだ。
十歳くらいの男の子が力のある魔物に捕まって厄介な呪いをかけられ、どこかでカイエの噂を聞きつけたのだろう、身なりのいい男女が「私たちの命をとってもいいから助けてくれ」と泣きながら駆け込んできたことがあった。
あちこちをたらいまわしになり、どこからか聞きつけた「東の魔女」の噂を頼りに、カイエのもとにたどりついたのだ。
昼は犬になり、夜は人間に戻る呪いはだんだん男の子の体を蝕み、犬でいる時間が長くなっていく。犬でいる間は人間の意識がない。人間に戻った時も同様に、犬でいたことを覚えていない。
たいした呪いではないと思った。この程度の呪いの解呪のために命を対価に要求する「東の魔女」を頼るなんて酔狂ねえ、などと感心しつつ、あまりにもコロコロとかわいい子犬だったので依頼を引き受けてしまった。
カイエはもふもふに弱かった。
人間を犬に変える程度の呪いなんて、たいしたことじゃない。呪い主がどんなに力がある魔物だと言っても、創世の竜の力をそのまま受け継ぐ自分に匹敵するわけがないとタカをくくっていた。
だが呪いは魂に食い込んで、カイエではどうすることもできなかった。
夫妻が「東の魔女」にすがりたくなるのもわかる。
そしてカイエにもプライドはある。
けなげに呪いに耐える少年に同情できるくらいの心も持ち合わせている。
何より、その子犬はかわいかった。
だからカイエは、少年に呪いをかけた魔物を殺しに行くという方法で呪いを解いた。
その時にうろこは砕け散り、少年の呪いは解けたけれどカイエも魔力の大半を失った。
今のカイエは、かつての一割にも満たない魔力しか持っていない。そしてその一割の魔力が体から流れ出ていくのを、止めることができない。
――あの子……?
アスターは二十代半ばに見えた。
あの男の子は、十五年前に十歳くらいだった。
確かに計算は合う。でも自分のことを覚えているはずがない。
第一、カイエは、子犬の世話しかしていない。あの子が人間に戻れる時間は本当に少なかったし、呪いに体力を奪われて、戻っている時間はずっと朦朧としていた。
だからあの子に懐かれる理由がないのだ。
子犬は本当にかわいかったので、もふもふしまくったけれど。
――わからん。
どうせあと七日程度でここを立ち去る。相手は実力のある竜騎士。今のカイエなら彼の剣に勝てないだろう。
あんまり深入りしないほうがよさそうだという結論を出し、カイエは再び歩き出した。
その後ろ姿を追いかけてきたアスターがそっと見つめていたことなど、当然気付くわけもなく。
「申し訳ない、ヴェンデール隊長」
聖女セレスとの謁見後、アスターは神官長から呼び止められてそう切り出された。
「聖女様はいつもああなのですか?」
アスターはセレスがつかんでぶんぶんと振った手を見つめながら、問いかける。
「言動が突飛な方ではありますが、儀式では威厳のある、皆が思うような聖女様を演じ、いえ、聖女様らしい振る舞いをされますよ。今日はどうされたんでしょうね」
はあ、と老齢な神官長がため息をつく。
神官長は長年聖女に仕えている人物だ。その人物がおかしいというのだから、今日の聖女はおかしかったのだろう。
「……まるで他人みたい、でしたか?」
アスターが確認すると、そうですね、と神官長が頷いた。
「まあ、あの方はただの人間ではありませんからね。我々の尺度で測ってはいかんのでしょう」
「そうですね。この三百年ずっと、変わらない姿で王都の結界を維持し、この国を魔物たちから守っている……聖女どころか、セレス様は創世神の化身なのかもしれませんね」
アスターの言葉に、神官長も同意したものの、
「あんなおてんばな女神がいらっしゃったら驚きますけどねえ」
しみじみと呟いた。苦労しているらしい。
神官長と別れたあと、アスターは今日から護衛の責任者となる神殿を見て回ることにした。
神殿は決して大きくない。
この国を守る聖女の住まいにしては質素だな、と思う。現在のバルディア王家の祖でもある人なのに。
ふと人の気配を感じて見上げると、女官を複数人引き連れ、銀色の髪をなびかせて聖女セレスが回廊を歩いていく姿が目に入った。
――まるで他人みたい、か……。
アスターは決して聖女セレスに詳しいわけではない。
質素な暮らしをしているとはいえ、セレスはこの国にとっては最重要人物であるため、めったに人前に姿を現さない。バルディアの民のほとんどはセレスの名を知っていても、セレス本人を目にする機会はない。
それはバルディアの侯爵家出身であるアスターもそう。
しかし、アスターの前に膝をついて手を握ってきた時に、セレスから懐かしいにおいがした。
それはセレスからにおってくるはずがないものだ。
――だってあの人は魔女だ。
セレスは三百年も前からここで聖女をやっている。
なのにその聖女から、よりにもよってアスターの恩人であり捜し求めている魔女のにおいがするなんて、どういうことだろう。
あのにおいを忘れるはずがない。
遠ざかるセレスを見つめながら、アスターはぎゅっと拳を握り締めた。
まっすぐな黒髪、赤い瞳、縦長の瞳孔、とがった耳……あの魔女は、美しくもまがまがしい見た目をしていた。それなのに、まとうにおいは甘くて優しい。
その名前を知る者はおらず、実在するのかどうかもあやしい。
対価に魂を要求するかわりに、どんな呪いも解いてくれる。
竜騎士は魔物を退治することはできても、呪いを解くことはできない。
魔物が跋扈するこの世界において、厄介な呪いを解ける存在は貴重だ。その対価に誰かの命を要求されるのだとしても、彼女に救いを求める人は後を絶たなかった。
美しい女の姿をしており、大陸の東に広がる森のどこかに住んでいるらしいことから、彼女は「東の魔女」と呼ばれていた。
魔女にとって自分はどうでもいい存在だった。
縁もゆかりもないから助ける義理もない。なのに彼女は、魔物に厄介な呪いをかけられた人間の子どもを助けるために、魔物と戦ってくれた。
そのせいで彼女は魔力の根源である竜のうろこを失った。それでも彼女はアスターを責めるようなことは言わなかったし、「元に戻れてよかったわね」と微笑んでくれさえした。
その時、心に誓ったのだ。
強くなろう、と。
魔女が助けてよかったと思えるような大人になろう。
その後、魔女の噂はぱったりと途絶えた。
東の魔女は死んだらしい、という噂さえ流れてきた。
死んでいないことは知っている。でもきっとうろこを失って困っている。
魔女の助けになりたいと思った。
竜騎士になったのは、もともと魔物に狙われるくらい強い魔力を持っていたこともあったが、魔物との関わりが多ければ魔女の情報が手に入るのではないかと思ったからだ。
けれど、この十五年、魔女の足取りはまったくつかめなかった。
気が狂いそうなほど想い続けた。
自分でも「どうして」と思わないでもない。
ほかにいくらでも美しい娘はいる。
けれどどんなに美しい娘を見ても、なんとも思わないのだ。まったく心が動かない。
なのに、黒髪の魔女のことを思うと心臓がドキドキして、会いたくて、声が聞きたくて、気が狂いそうになる。
その魔女の気配を見つけることができた。なぜか、バルディアの聖女に。
聖女セレスと東の魔女にどういう関係があるのかわからないが、ようやく見つけた手がかりだ。
――必ずあの魔女を捜し出す。東の魔女カイエを。……まずは聖女に近付くことだな。
聖女は東の魔女となんらかの関係があるはずだ。
でなければ、アスターが捜し求めている東の魔女のにおいがするはずがない。
***
身代わり三日目。
カイエは行儀悪く、神殿の一階にある自室の窓辺に腰掛けて、空を眺めていた。
ふわもこな雲が風に乗って流れていく。
セレスは今頃、推しのライブに熱狂しているだろうか。
聖女という役目に一筋なセレスがどうしても行きたいと、カイエに任務を押し付けてまで出かけたライブだ。楽しんでくれていないと困る。
昨日の着任式のあと、神官長と女官長(あの立場がある女官は女官長だったらしい)に問い詰められ「何か変なものを食べてしまい、記憶がふわふわと曖昧になっていて……」と苦しい言い訳をする羽目になった。
驚いたことに神官長も女官長も「聖女様ならやりかねない」と納得したことだ。
姉の普段の生活態度が気になる。三百年もここで聖女をしている人なのに、それでいいのか。
記憶喪失は一時的なもので、十日もすれば元に戻るから、それまでは重要な儀式などは入れないでほしいと頼んだ結果、「聖女様は体調不良につき休養中」ということにしてもらえた。
それ自体は「しめしめ」なのだが、そうすると今度は退屈でしかたがない。
――まあ私がここにいてこれを握り締めていれば、代役は務まるんだけど。
竜のうろこを呼び出して眺める。
手のひらサイズのそれは半透明で七色の光を放っている。
もとは創世の竜の体をおおっていたうろこだ。かつてカイエも持っていた。
でも、魔物に呪われた子どもを助けた時に砕け散ってしまった。
そのことは後悔していないけれど、そのせいで魔力は弱まり、今も魔力の流出が止まらない。たぶん寿命も減っている。
証拠に、髪の毛や爪が伸びるスピードが早くなったように思う。少し背も伸びたし、胸も大きくなったような? セレスには及ばないけれど。
魔力の流出とともに老いは加速していくのだろう。
――なら、いずれ年老いて死を迎えるのかな。
まるで人間みたい。
――セレスは人間になりたいって言ってたなぁ……。
愛した人と一緒に老いて死にたい。それがセレスの願いだった。何を言うの、無理でしょそんなこと。あの時はそんなふうに答えた気がする。だって私たちは「そういうふうにはできていないのだから」と。
無理ではなかったようだ。
今からセレスに教えようかな?
――遅すぎるか……。
うろこをしまい、再び空に目をやる。
さっき眺めていたふわもこな雲はどこかに消え、別な雲がもこもこと漂ってきていた。
「ご気分が優れませんか」
ぼんやりしていたところにいきなり声をかけられて、驚きのあまりカイエはバランスを崩してしまった。
窓の外に体が投げ出される。
とっさのことで何もできなかった。
誰かがカイエの体に腕を回す。
体中に衝撃が走る。
不思議と痛みはなかった。
おそるおそる目を開けると、至近距離にアスターの整った顔があった。
カイエは地面に膝をついたアスターに抱き留められていた。
「申し訳ございません。聖女様を驚かせるつもりはなかったのですが、見回りをしていたら一人で窓辺にいるところが目に入ったもので、つい」
アスターが気遣わしげにカイエを見つめる。
吸い込まれそうな美しい氷色の瞳に、思わず見入ってしまう。
その瞳の奥で何かが揺れた。
はっと我に返る。
「ご、ごめんなさい! 重たいわよね」
急いでアスターの腕から逃れようとしたが、なぜかアスターは腕を離さない。それどころか、ぎゅっと力を込めてカイエを抱きしめてきた。
アスターがカイエの首筋に顔を埋めて深く息を吸う。
「……このにおい、間違いない」
「におい?」
「なぜ聖女様がこのにおいをまとっているのですか? これは……東の魔女のにおいです」
「は……はあ!?」
東の魔女のにおいだと!?
「教えてください。聖女様は東の魔女とどういう関係が? 何かつながりがあるのでは……!?」
バッと体を離し、今度は肩を掴まれて顔を覗き込まれる。
――もっ、もしかして私が東の魔女だとバレた……?
だが東の魔女は十数年前に姿を消したままだ。
アスターはせいぜい二十代半ば。
東の魔女は謎めいた存在だ。カイエ自身、正体をはっきりと明かしたことがない。自分のことを知る人間がそうそういるはずがない。
これは勘違いか、激しい思い込みの類に違いない。
「なんのこと?」
というわけで、カイエはしらばっくれることにした。
「ですが」
「鼻がきくのね、坊や」
カイエはそう言ってアスターの鼻をつまんだ。ふがっ、と美青年がらしくもない変な声を上げる。腕の力が緩んだところでカイエはアスターの腕の中から抜け出し、距離をとった。
「私はセレス、この国の聖女。東の魔女なんて知らないわ。私の前で魔物の名前なんて出さないでちょうだい」
「東の魔女は魔物ではありません。彼女は素晴らしい女性です」
カイエの言葉にアスターがむっとしたような顔で食らいつく。
「魔物よ。人の魂を貪って何百年も変わらない姿で生き続ける、そんなものが素晴らしい存在のはずがない」
セレスもカイエも人の魂を糧としなければ魔力の維持ができない。
セレスがどうやって人の魂を調達しているのかは知らないが、人付き合いの苦手なカイエがそれでも人と関わっていたのは、魔力を差し出す対価として魂をもらうためだ。
「……それでいったら聖女様はどうなのですか。何百年も変わらない姿のまま生き続けていらっしゃる」
「私が魔物とでも? あなたたちを守るこの結界を張り続けている私を?」
カイエが睨むと、アスターがはっとしたように目を伏せた。
「申し訳ございません。口が過ぎました」
「本当よ。ひどいわ。もう行きなさい、騎士アスター。私はあまり気分がよくないの」
カイエはそれだけ言い残すと踵を返し、アスターの前を立ち去った。
姉っぽく、というより聖女っぽく振る舞えただろうか。
それはそれとして、
――素晴らしい女性ですって? 私が?
アスターの姿が見えない場所まで来たところで、カイエは立ち止まり、唐突にうろたえ始めた。
自分の人生でそんなことを言われたことは一度もない。
――でも、においって言ったよね、あの人。におい? 私ってにおう? くさい?
試しに自分の腕を持ち上げてクンクンしてみる。毎日風呂には入っているし、服だって洗濯しているので、くさいということはないはずだ。
――あの口ぶりだと、本当に私を知っているみたいね。どこかで会ったことあるのかしら?
うろこを失って以降は特に人目を避けているから、まったく心当たりがない。とすると、それよりも前。
ただ、あのひたむきな瞳には見覚えがある気がする。
どこで見たんだったかなぁ、と記憶を手繰っていて思い出した。
――しばらく預かっていた子犬があんな目をしていたんだわ。大きな目をクリクリさせながら、おやつを楽しみにしていたわよね。
あの犬を預かったのは、今から十五年ほど前のことだ。
十歳くらいの男の子が力のある魔物に捕まって厄介な呪いをかけられ、どこかでカイエの噂を聞きつけたのだろう、身なりのいい男女が「私たちの命をとってもいいから助けてくれ」と泣きながら駆け込んできたことがあった。
あちこちをたらいまわしになり、どこからか聞きつけた「東の魔女」の噂を頼りに、カイエのもとにたどりついたのだ。
昼は犬になり、夜は人間に戻る呪いはだんだん男の子の体を蝕み、犬でいる時間が長くなっていく。犬でいる間は人間の意識がない。人間に戻った時も同様に、犬でいたことを覚えていない。
たいした呪いではないと思った。この程度の呪いの解呪のために命を対価に要求する「東の魔女」を頼るなんて酔狂ねえ、などと感心しつつ、あまりにもコロコロとかわいい子犬だったので依頼を引き受けてしまった。
カイエはもふもふに弱かった。
人間を犬に変える程度の呪いなんて、たいしたことじゃない。呪い主がどんなに力がある魔物だと言っても、創世の竜の力をそのまま受け継ぐ自分に匹敵するわけがないとタカをくくっていた。
だが呪いは魂に食い込んで、カイエではどうすることもできなかった。
夫妻が「東の魔女」にすがりたくなるのもわかる。
そしてカイエにもプライドはある。
けなげに呪いに耐える少年に同情できるくらいの心も持ち合わせている。
何より、その子犬はかわいかった。
だからカイエは、少年に呪いをかけた魔物を殺しに行くという方法で呪いを解いた。
その時にうろこは砕け散り、少年の呪いは解けたけれどカイエも魔力の大半を失った。
今のカイエは、かつての一割にも満たない魔力しか持っていない。そしてその一割の魔力が体から流れ出ていくのを、止めることができない。
――あの子……?
アスターは二十代半ばに見えた。
あの男の子は、十五年前に十歳くらいだった。
確かに計算は合う。でも自分のことを覚えているはずがない。
第一、カイエは、子犬の世話しかしていない。あの子が人間に戻れる時間は本当に少なかったし、呪いに体力を奪われて、戻っている時間はずっと朦朧としていた。
だからあの子に懐かれる理由がないのだ。
子犬は本当にかわいかったので、もふもふしまくったけれど。
――わからん。
どうせあと七日程度でここを立ち去る。相手は実力のある竜騎士。今のカイエなら彼の剣に勝てないだろう。
あんまり深入りしないほうがよさそうだという結論を出し、カイエは再び歩き出した。
その後ろ姿を追いかけてきたアスターがそっと見つめていたことなど、当然気付くわけもなく。
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