ある研究員の記録

晴日青

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X日後

記録その7

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 ――記録その七。

 真夜中。全ての実験動物が寝静まり、暗闇に機械の音だけがごうんごうんと鳴り響く。
 ぼんやりと電源のライトが付くばかりで、他に視界を照らす光はなかった。
 その中に、ふわりと光が灯る。
 その光を手にした男は、辺りの様子を窺いながら真っ直ぐとある水槽へと向かった。
 水槽もまた、他の設備と同じく電気が消えていた。そこにいる一匹、否、一人の生き物は眠っているのか、じっと身動きもせず目を閉じている。
 男はこつんと水槽を叩いた。ほんの僅かに水槽の水が揺れ、その振動が生き物に伝わる。
 ぱちりと虚ろな目が開いた。
 人魚と呼ばれていたその生き物は、自分を迎えに来た男の姿を認め、ぱぁっと顔を輝かせる。

「…………!」
「静かにしろ」
「…………?」
「誰かが来たら困るだろ?」
「…………」
「……よし、いい子だ。そのまま大人しくしてろよ」
「…………」
「……すぐに出してやるからな」

 男はそう囁くと、持っていたライトを口に咥えた。 
 危なっかしい手つきで、今まで餌をやっていたときと同じように、水槽の横にあるはしごに足をかける。いつもは何てことのないはしごだと思っていたそれは、今こうしているとひどく長く感じられた。やましいことをしている自覚を、これは彼女を救うためなのだと懸命に押さえつける。
 かつん、かつん。一段一段、慎重にはしごを上る。
 男の手には汗が滲んでいた。ライトを咥える口が震え、今にも取り落としそうになる。

「…………」

 それを、彼女だけが心配そうに、何も光を宿さない瞳で見つめていた。

「……狭いな」

 男は舌打ち混じりに呟いた。
 はしごの頂上には、水槽の蓋がある。ただし、このままの状態だと蓋が開く間隔は狭く、とても彼女が外に出られるだけの隙間は確保できない。
 せめて周りにあるコードを外せば、それなりの空間は確保出来るだろう。ただし、それをすればこの水槽は機能しなくなり、下手をすれば彼女の命に関わってしまう。
 ほんの数秒、男は思案した。このまま水槽に飼われ続けるのと、ここを逃げ出して広い世界で暮らすのと、どちらの方が彼女にとって幸せなのか。
 そんなものは、考えるまでもなかった。
 男は水槽に寄生するコードを乱暴に押しのけた。
 一本、特に太いコードが男の意図しないタイミングで外れ、大きな音を立てて床に落ちる。

「…………!」

 その音に驚いたのは彼女も同じだった。
 誰かが来るのかもしれないという恐怖。その時間を、男はただじっと待って過ごした。
 ぽたりとその汗が額から顎を伝って地面に落ちた頃、ようやく男は息を吐いた。どうやら、今の物音は誰にも気付かれなかったらしい。

「もうちょっとだ」

 邪魔なコードを一本一本どけていく。細いコードも太いコードも外し、ようやくそれなりのスペースを確保した。
 たったそれだけの作業で息を切らした男は、やっとの思いで水槽の蓋を開く。

「お前は……君は、これで自由だよ」
「…………?」

 ふわ、と彼女があくびをした。

「外に出れば、すぐ海がある。今の時期は少し寒いかもしれないな」
「…………」
「一緒に逃げるんだ」

 男は少し口調を強めた。
 自分の頑張りに対し、彼女があまりにものんびりしていたせいだろう。

「君は陸上でも生活が出来る。そんな水槽に閉じ込められていなくても、充分外で生きられるんだ」
「…………?」
「俺が連れて行ってやる」
「…………」
「おいで、人魚」

 男は普段餌をやるときのように、水槽の中に向かって手を差し入れた。
 今日違うのは、男が『人魚』に触れたことだけ――。
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