ある研究員の記録

晴日青

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翌日

記録その1

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 ――記録その一。

 今日からここに勤めることになった。
 先輩たちは親切に施設のあちこちを案内してくれたが、まだ全ては覚え切れていない。さすがに中身が広すぎて、覚えるまでにはだいぶ時間がかかることだろう。
 自分が担当することになる部署は後日発表されるらしい。今日はあくまでオリエンテーションというわけだ。
 今日を迎えるに辺り、実はいくつか過去の資料を読み漁ってきた。
 先輩たちは真面目すぎると笑っていたが、ここは危険動物もいる重要な施設だ。万が一自分のせいで取り返しのつかないことになったらと考えるだけで震え上がる。いつかの失敗を起こさないために、今から学んでおくのは必要なことだろう――。

 がや、とどよめく声が聞こえた。
 そのすぐ後に、けたたましく警報が鳴り始める。

「『緊急事態発生、緊急事態発生。速やかに避難してください』」

 オリエンテーションは、その騒ぎによって一時中断した。
 今の今まで前を歩いていた研究員が、新人たちの顔を見渡し、たった一言告げる。

「どうやら、何かあったようだ。とは言え、ここは最新の設備が整っている。君たちが恐れるようなことも、この警報通り逃げ出すようなこともないとだけ言っておく」
「では、我々は何をすれば良いのでしょうか?」
「また、しばらくすればオリエンテーションを再開する。それまで、ここで待機していてくれ」
「はい、分かりました」

 駆ける音。そして、新人たちは興奮を抑えきれないように囀り始める。

「なぁ、緊急事態ってなんだろうな?」
「警報が鳴ってるのに逃げなくていいって、どんだけ設備に自信あるんだよ」
「さすが大手企業ってとこか?」
「新人向けの演習だったりしてー」

 わいわい新人たちが面白おかしく騒ぐ中。
 現場では、あまり愉快ではない状況が起きていた。

***

「……ひどいな」

 とある水槽に近付いた研究員の一人が顔をしかめる。
 普段は閉じているはずの蓋が開いており、そこにべったりと赤黒い液体が付着していた。こんなものはいちいち成分を分析しなくとも、どういったものなのか見ればすぐに分かる。
 これは、人間の血液だ。

「ひっ……!」

 集まった研究員の一人が悲鳴を上げる。
 幾人かがそちらに近付くと、そこには無残にちぎれた人の身体が落ちていた。
 当然、その物体の持ち主がどうなったのか、考えなくても予想は容易い。

「今日の見回り担当ですね。朝七時から八時の間に、事故が起きたと推測されます」
「なるほどな」
「新人たちは何らかの演習だと思っているようです。どういたしますか」
「そのままでいい。ここに何があるのか、何が起きたのか、まだ教えるには早すぎる」
「ですが……」
「……ああ」

 二人の研究員の視線が、空いた水槽に向けられる。
 本来、そこにいるべき生き物は影すら見当たらない。

「……逃げたな」
「どうやって、でしょう」
「この蓋を開けられるはずはないんだが……」
「はい。外側からコードをはずす必要がありますし……」
「逃げたとすれば、いつだ?」
「…………」
「……まだ、この辺りに潜んでいる可能性もあるということだな」
「……そうです」

 それに気付いた二人の間だけに緊張が走る。
 他の者にその感覚が伝染してしまわないよう、互いに目配せし合い、その話を強制的に終了する。

「こいつの世話係はどこへ行った?」
「それが、連絡がつかないとのことです」
「まさか、そいつも逃げたのか?」
「その可能性はありえます。最近、どうも様子がおかしかったという声も聞きますから……」
「最優先で捜索しろ。家族も友人も、関係のある奴は全員調べ上げろ」
「はい」

 指示を出していた男が、側の機械にもたれてため息を吐く。

「余計な仕事を増やしやがって……」

 自然と、目が空の水槽へ向けられる。
 濁った液体の中で、こぽりと小さく泡が立つ。
 そして、彼は気付いた。
 水槽の底に沈んだ、小さな名札に――。

***

 しばらくして、新人たちのもとに先輩研究員たちが戻ってきた。

「先ほどの警報は誤作動だということが分かった。心配しなくてもいい」

 好き勝手に原因を話していた新人たちが、つまらなそうに囁き交わす。

「なんだ。オリエンテーションの一環ですらなかったのか」
「しょっぱなからびびっちゃったよ」
「まぁセキュリティ万全のここで、あんな警報鳴るわけないもんな」
「ちょっとだけわくわくしたんだけどなー」
「静かに。オリエンテーションを再開する」

 研究員について、新人たちが歩き始める。
 その中の一人、列の一番後ろについた男が何げなく後ろを振り返る。
 外に通じる勝手口、その先にある海の方で。

 ――とぷん、と何かが飛び込む音を聞いたような気がした。
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