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第3章 高校1年生 2学期
第39話 アーティストについてのあれこれ。
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「そこまで。少し休憩」
その声に私はへたりこみそうになった。
ピアノの側を離れて、部屋の隅にあるパイプ椅子の背に掛けてあるタオルを取って座り、汗を拭いミネラルウォーターで水分を補給する。
ここは第3音楽室。
普段はナキが独占状態にしている部屋だ。
放課後、ここで私はボイストレーニングを受けている。
先日までしていた実家のつてを使ったボイストレーナーの指示に沿った練習法は、ナキに止められてしまったのだ。
『クラシックとポップスやと、発声法が違うんよ。知り合いにポップスの有名なトレーナーがおるから紹介したるわ』
そんなナキの提案で、私は毎日放課後レッスンを受けている。
勉強時間が減ってしまうが、この際仕方がない。
人前で恥をかくよりはずっとましだ。
ボイトレの先生は40代くらいに見える女性で、プロのポップスアーティストの指導を行っている人である。
ベリーショートの髪のボーイッシュな雰囲気をした人で、とても快活な声が特徴的だ。
学園にはきちんと立ち入り申請をして来て貰っている。
一週間の超短期特訓である。
レッスン料金はびっくりするほど高い。
それほど優秀な先生なのだ。
「いやー。クラシック畑の子だってナキから聞いてたから、こりゃあ難問だと思っていたけれど、案外いけるね?」
気安い調子で話しかけてくる先生。
ここ数日の付き合いでわかったことだけれど、竹を割ったようなサバサバした性格で、とても感じのいい人だ。
「クラッシクの子はベルカントのお化けに毒されてる……って言うとクラシックの人に怒られちゃうけれど、とにかくポップスには合わない歌唱法に染まっちゃってる子が多くてね。修正するのが難しいんだ」
「そうなんですか」
ベルカントとは声楽用語の1つで、本来はクラシックな声楽、特にイタリアン・オペラにおいて理想とされた歌唱法を指す。
古典的ベルカントにおいては、ファルセット(裏声)とファルセットでない声の両方を鍛え上げたあと両者の統一を図る。
その結果、広い音域で無理のない発声となり、技巧的自由度が大きく、効率的であるとされる。
ただ、ベルカントという概念はとても曖昧な概念であり、これこれこういうものがベルカントというよりは、優れた歌唱法がベルカントであるという捉え方のほうが正しいらしい。
「90年代に入ってから、ベルカントはポップスのボイストレーナーも盛んに取り入れ始めたんだけれどね。多分、ポップスの歌唱法とクラシックの歌唱法って違うと私は思うんだ」
たとえば呼吸法。
「お腹から声を出す」とか「腹式呼吸が大事」とかいう意見を聞いたことはないだろうか?
これらはコーネリウス・ベルカントの著書「リードのベルカント」に依拠した考え方なのだそうだ。
古典的ベルカントを日本に輸入する際に解釈がなされた別種のベルカントと考えるべき歌唱法なのだとか。
「ほら、オペラ歌手の歌い方とポップス歌手の歌い方って全然違うでしょ? それなのにおんなじ練習法や歌唱法をやるなんておかしいと私は思うんだよ」
勘違いしている人もいるが、そもそも「お腹から声を出す」とは抽象的な表現であって、実際にお腹から声が出る訳ではない。
声帯は喉にしかないのだから。
腹式呼吸でさえも、イタリア式とドイツ式の2種類があって、息を吸う時吐く時のどちらでお腹が膨らむかが全く逆なのだ。
「一線で活躍してるポップスアーティストで腹式呼吸を意識している人なんて、実際にはそんなにいないのよ」
「はぁ」
「その点、和泉ちゃんはいいよ。理論とか頭で考えずに身体で自然に出来てる。あとは練習すればするだけ上手くなる」
これは和泉だけでなく、私という人格があるせいかもしれない、と思った。
前世、高校時代は引きこもりだったけれど、中学時代にはカラオケに行ったりもした。
その時はベルカントなんて意識もしていなかったから、自然と現代風のポップスの歌唱法になっていたのだろう。
今の私はその両者が相まって、結果的にいい声が出るようになっているのではないだろうか。
「ボイストレーナーの私が本当は言っちゃいけないことなんだけど、結局、歌って天性なんだよね。そりゃあ、努力で改善されることは絶対にあるんだけど、初めから呼吸するように歌える人には、どうしたって敵わない」
先生がぶっちゃけた。
「喉ってね、一人ひとり形が違うの。だからこれこそが唯一の正しいトレーニング方法だっていうものはない。私たちボイストレーナーに出来るのは、出来るだけ幅広い知識や練習方法を身につけて、相手に最適のトレーニングを提供することだと私は思ってる」
先生は笑顔を浮かべながらそう語った。
確かに、先生の指導は私にとってとても体現しやすい。
楽では決して無いけれど、無理なことや理解不能なことをさせられているという感じがまるでしないのだ。
これは先生が私に適した練習方法を教えてくれているからだろうと思う。
「さ。難しい話はおしまいおしまい。休憩はここまで。もうひと頑張りするよ」
「はい」
私はタオルを椅子にかけると、再びピアノのそばに立った。
◆◇◆◇◆
「はい。今日はここまで。お疲れ様」
「ありがとうございました」
今日もたっぷりしごかれた。
中学時代の和泉の研鑽がなければ、とうに喉が潰れていたことだろう。
和泉に感謝である。
「しっかし、ナキがおもろい奴がおるなんて言うからどんな子かと思ってたけど、確かに面白いわキミ」
帰り支度をしていると、先生がそんなことを言ってきた。
「どの辺りがですか?」
「んー、そうね。上手く言えないんだけれど、陰かな」
暗いですか、そうですか。
「いやいや、暗いって訳じゃないよ? ただね、何というか、何かこの子も抱えてるなーっていう感じ」
ひやりとした。
まさか転生のことがバレた訳ではないだろうが、芸術家肌の人たちは感性で色んな事を感じ取ってくるから困る。
「私なんてただのつまらない凡人ですよ」
「そういう自分は一般人です的な思考を突き抜けたら、人生もっと楽しくなるよ。私が保証する」
先生は自信たっぷりに笑った。
「でも実際一般人ですし」
「ううん? キミにその気があるなら、シンガーの道に招待することだって出来る」
私が歌手?
まさか。
「冗談にしても笑えません」
「本気だって。キミは歌声にも独特の陰がある。なんだろうね。月属性っていうのかな?」
月属性って何だろう。
「個人的なカテゴライズなんだけどね。ガンガン気持ちを高めていったり、先を指し示すタイプが光属性。逆に暗澹たる気持ちをそのまま昇華させて美化するのが闇属性。月属性はそのどちらとも違う、ほんのりと闇を照らすようなそんなタイプ」
「今ひとつ良くわかりません」
私は正直な所を口にした。
「本当に傷ついたり、疲れきって立ち止まってしまった人たちには、光属性は眩しすぎて疲れるし、闇属性は引きずり込まれちゃう。月属性の人はそんな人たちをゆっくりとだけど確実に癒していくような力がある」
「はぁ……」
「月属性の人は闇と光の合間で揺れ動いている人が多いかな。キミのことはまだあんまりよく知らないけど、私の印象はそんな感じ。根底の部分ではナキに近い気がする」
ナキに?
私の印象では、彼は純然たる光属性だと思うのだけれど。
「昔のナキは光属性しかなかった。でも詩織ちゃんの一件で変わったと思う。今の彼の音色は闇属性に近くなっちゃっているけど、立ち直ったら月属性も覚えて全属性制覇の怪物になると思うよ」
だからキミには期待してるんだ、と先生は言った。
「なまじこういう業界にいるからね。アーティストというものに幻想はあんまり持ってない。平和を歌ったジョン・レノンだって、仲間と袂をわかったわけだし」
それでも、と先生は続けた。
「彼らの音楽は人々に多大な影響を与えたことは確か。彼らほどとは言わないけれど、キミの歌声にもその片鱗は感じる。職に困ったらウチにおいで。もっとも、一条のお嬢さんにそんな心配はいらないと思うけどね」
からからと笑う先生に、私はどう答えればいいのか分からなかった。
私に出来ることなんて、精々勉強して少しでもいい学歴を取得して、職業選択の幅を広めるくらいしかないと思っていた。
その幅の中にアーティストなんていう選択肢は間違いなくなかった。
そう言えば以前、冴子様にも似たようなことを言われた気がする。
自分で自分はこうと思い込むな、みたいなことを。
――可能性。
先生の言葉に、私はそんなことを考えた。
その声に私はへたりこみそうになった。
ピアノの側を離れて、部屋の隅にあるパイプ椅子の背に掛けてあるタオルを取って座り、汗を拭いミネラルウォーターで水分を補給する。
ここは第3音楽室。
普段はナキが独占状態にしている部屋だ。
放課後、ここで私はボイストレーニングを受けている。
先日までしていた実家のつてを使ったボイストレーナーの指示に沿った練習法は、ナキに止められてしまったのだ。
『クラシックとポップスやと、発声法が違うんよ。知り合いにポップスの有名なトレーナーがおるから紹介したるわ』
そんなナキの提案で、私は毎日放課後レッスンを受けている。
勉強時間が減ってしまうが、この際仕方がない。
人前で恥をかくよりはずっとましだ。
ボイトレの先生は40代くらいに見える女性で、プロのポップスアーティストの指導を行っている人である。
ベリーショートの髪のボーイッシュな雰囲気をした人で、とても快活な声が特徴的だ。
学園にはきちんと立ち入り申請をして来て貰っている。
一週間の超短期特訓である。
レッスン料金はびっくりするほど高い。
それほど優秀な先生なのだ。
「いやー。クラシック畑の子だってナキから聞いてたから、こりゃあ難問だと思っていたけれど、案外いけるね?」
気安い調子で話しかけてくる先生。
ここ数日の付き合いでわかったことだけれど、竹を割ったようなサバサバした性格で、とても感じのいい人だ。
「クラッシクの子はベルカントのお化けに毒されてる……って言うとクラシックの人に怒られちゃうけれど、とにかくポップスには合わない歌唱法に染まっちゃってる子が多くてね。修正するのが難しいんだ」
「そうなんですか」
ベルカントとは声楽用語の1つで、本来はクラシックな声楽、特にイタリアン・オペラにおいて理想とされた歌唱法を指す。
古典的ベルカントにおいては、ファルセット(裏声)とファルセットでない声の両方を鍛え上げたあと両者の統一を図る。
その結果、広い音域で無理のない発声となり、技巧的自由度が大きく、効率的であるとされる。
ただ、ベルカントという概念はとても曖昧な概念であり、これこれこういうものがベルカントというよりは、優れた歌唱法がベルカントであるという捉え方のほうが正しいらしい。
「90年代に入ってから、ベルカントはポップスのボイストレーナーも盛んに取り入れ始めたんだけれどね。多分、ポップスの歌唱法とクラシックの歌唱法って違うと私は思うんだ」
たとえば呼吸法。
「お腹から声を出す」とか「腹式呼吸が大事」とかいう意見を聞いたことはないだろうか?
これらはコーネリウス・ベルカントの著書「リードのベルカント」に依拠した考え方なのだそうだ。
古典的ベルカントを日本に輸入する際に解釈がなされた別種のベルカントと考えるべき歌唱法なのだとか。
「ほら、オペラ歌手の歌い方とポップス歌手の歌い方って全然違うでしょ? それなのにおんなじ練習法や歌唱法をやるなんておかしいと私は思うんだよ」
勘違いしている人もいるが、そもそも「お腹から声を出す」とは抽象的な表現であって、実際にお腹から声が出る訳ではない。
声帯は喉にしかないのだから。
腹式呼吸でさえも、イタリア式とドイツ式の2種類があって、息を吸う時吐く時のどちらでお腹が膨らむかが全く逆なのだ。
「一線で活躍してるポップスアーティストで腹式呼吸を意識している人なんて、実際にはそんなにいないのよ」
「はぁ」
「その点、和泉ちゃんはいいよ。理論とか頭で考えずに身体で自然に出来てる。あとは練習すればするだけ上手くなる」
これは和泉だけでなく、私という人格があるせいかもしれない、と思った。
前世、高校時代は引きこもりだったけれど、中学時代にはカラオケに行ったりもした。
その時はベルカントなんて意識もしていなかったから、自然と現代風のポップスの歌唱法になっていたのだろう。
今の私はその両者が相まって、結果的にいい声が出るようになっているのではないだろうか。
「ボイストレーナーの私が本当は言っちゃいけないことなんだけど、結局、歌って天性なんだよね。そりゃあ、努力で改善されることは絶対にあるんだけど、初めから呼吸するように歌える人には、どうしたって敵わない」
先生がぶっちゃけた。
「喉ってね、一人ひとり形が違うの。だからこれこそが唯一の正しいトレーニング方法だっていうものはない。私たちボイストレーナーに出来るのは、出来るだけ幅広い知識や練習方法を身につけて、相手に最適のトレーニングを提供することだと私は思ってる」
先生は笑顔を浮かべながらそう語った。
確かに、先生の指導は私にとってとても体現しやすい。
楽では決して無いけれど、無理なことや理解不能なことをさせられているという感じがまるでしないのだ。
これは先生が私に適した練習方法を教えてくれているからだろうと思う。
「さ。難しい話はおしまいおしまい。休憩はここまで。もうひと頑張りするよ」
「はい」
私はタオルを椅子にかけると、再びピアノのそばに立った。
◆◇◆◇◆
「はい。今日はここまで。お疲れ様」
「ありがとうございました」
今日もたっぷりしごかれた。
中学時代の和泉の研鑽がなければ、とうに喉が潰れていたことだろう。
和泉に感謝である。
「しっかし、ナキがおもろい奴がおるなんて言うからどんな子かと思ってたけど、確かに面白いわキミ」
帰り支度をしていると、先生がそんなことを言ってきた。
「どの辺りがですか?」
「んー、そうね。上手く言えないんだけれど、陰かな」
暗いですか、そうですか。
「いやいや、暗いって訳じゃないよ? ただね、何というか、何かこの子も抱えてるなーっていう感じ」
ひやりとした。
まさか転生のことがバレた訳ではないだろうが、芸術家肌の人たちは感性で色んな事を感じ取ってくるから困る。
「私なんてただのつまらない凡人ですよ」
「そういう自分は一般人です的な思考を突き抜けたら、人生もっと楽しくなるよ。私が保証する」
先生は自信たっぷりに笑った。
「でも実際一般人ですし」
「ううん? キミにその気があるなら、シンガーの道に招待することだって出来る」
私が歌手?
まさか。
「冗談にしても笑えません」
「本気だって。キミは歌声にも独特の陰がある。なんだろうね。月属性っていうのかな?」
月属性って何だろう。
「個人的なカテゴライズなんだけどね。ガンガン気持ちを高めていったり、先を指し示すタイプが光属性。逆に暗澹たる気持ちをそのまま昇華させて美化するのが闇属性。月属性はそのどちらとも違う、ほんのりと闇を照らすようなそんなタイプ」
「今ひとつ良くわかりません」
私は正直な所を口にした。
「本当に傷ついたり、疲れきって立ち止まってしまった人たちには、光属性は眩しすぎて疲れるし、闇属性は引きずり込まれちゃう。月属性の人はそんな人たちをゆっくりとだけど確実に癒していくような力がある」
「はぁ……」
「月属性の人は闇と光の合間で揺れ動いている人が多いかな。キミのことはまだあんまりよく知らないけど、私の印象はそんな感じ。根底の部分ではナキに近い気がする」
ナキに?
私の印象では、彼は純然たる光属性だと思うのだけれど。
「昔のナキは光属性しかなかった。でも詩織ちゃんの一件で変わったと思う。今の彼の音色は闇属性に近くなっちゃっているけど、立ち直ったら月属性も覚えて全属性制覇の怪物になると思うよ」
だからキミには期待してるんだ、と先生は言った。
「なまじこういう業界にいるからね。アーティストというものに幻想はあんまり持ってない。平和を歌ったジョン・レノンだって、仲間と袂をわかったわけだし」
それでも、と先生は続けた。
「彼らの音楽は人々に多大な影響を与えたことは確か。彼らほどとは言わないけれど、キミの歌声にもその片鱗は感じる。職に困ったらウチにおいで。もっとも、一条のお嬢さんにそんな心配はいらないと思うけどね」
からからと笑う先生に、私はどう答えればいいのか分からなかった。
私に出来ることなんて、精々勉強して少しでもいい学歴を取得して、職業選択の幅を広めるくらいしかないと思っていた。
その幅の中にアーティストなんていう選択肢は間違いなくなかった。
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自分で自分はこうと思い込むな、みたいなことを。
――可能性。
先生の言葉に、私はそんなことを考えた。
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