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4巻

4-2

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「……ッ……!」

 いや、違う。その結界は、破れてしまったのだ。騰蛇に壊されてしまった。
 あの火柱が、それだ。だから、四獣が一時的に別の結界を張ったんだ。

『いいか? 太常。今から四獣で結界を張る。一日はもたせてやる。いいか? 一日だ!』

 白虎の言葉を思い出す。
 一日――。つまり、明日まで。明後日には、太常・大陰・天后が凶日で力を発揮できない状態にもかかわらず、四獣の結界を維持する力も尽きてしまう。
 あの屋敷は、完全に無防備な状態になる――。

「……そんな……」

 山を覆う結界のほうはどうなっているかわからないけれど、屋敷すべてが穢れに覆われてしまえば、今は生きていたとしても、すぐにそっちも壊れてしまうだろう。

「…………」

 言葉もない僕に、太常が目を伏せる。

「過去にも二度ほどございましたが、一度目は、土地がまだ所有者を失ったことがないとき。二度目は、二回目の所有者喪失の前でございました」
「……つまり……」

 二度とも、騰蛇が荒ぶり、屋敷の西側が穢れに沈む前――。

「今の状態になってからは、はじめて……」
「……ええ」
「ッ……! お前、なぁ……!」

 思わず大きく嘆息し、僕はグシャグシャと前髪をき混ぜた。

『とにもかくにも、二度の所有者不在により、道具の一部が壊れ、一部が逃げ出し、一部が使用不能となってしまいました。つまり、この国の守護は不完全な状態なのです。残された者たちでなんとかしのいできましたが――それでも徐々にこの国はみ、人々は病み、疲れてきている。次に何かが起こったときは、おそらく耐えることはできないでしょう』

 強引に主に据えられた――あの日の太常の言葉を思い出す。
 次に『何か』が。太常の頭の中には、きっとこの凶日のこともあったのだろう。

『この国は、沈みます』

 あの言葉は、おどしでもなんでもなかったんだ。

「ッ……!」

 僕は唇を噛み締めた。

『あまり猶予ゆうよもございませんし』

 その言葉どおり、だからこそ急いでいた。
 ああ、そういうことかよ! ようやく納得できた!
 あからさまな脅迫きょうはくをしてまで、僕を強引に『主』にしたのはなぜか。
 どうして、じいちゃんたちのように『所有者』では駄目だったのか。
 今までのように、土地を所有されているだけの状態では、もう凶日を乗り越えられないと太常はわかっていたんだ。
 だから、道具たちと直接きずなを深められる『主』こそが必要だったんだ。自分が、神たちが、道具たちが、存分に力を発揮できるように。

「っ……太常っ……!」

 僕は盛大に舌打ちして、傍らの子狐を手に取り、勢いよく立ち上がった。

「華!」

 小さく呼ぶと、近くの小岩に座っていた華が、すぐさま僕の気持ちを察して答えてくれる。

「ああ、よいぞ。ヌシさま。我は頑丈がんじょうだからな。構わん! 思いっきりゆけ!」
「――そうする」
「はい……? あの、主さま?」

 僕は頷き、いぶかしげに眉を寄せた太常の垂纓冠すいえいかんを、有無を言わさず引っぺがした。
 そして、そのままの勢いで子狐を振り上げる。

「っ⁉ あ、主さま⁉」

 あたりに、ゴツンという――耳に痛い音が響いた。

「ひ、ひえぇ……」

 朔の情けない声が聞こえたけれど、それは黙殺する。
 頭を抱えて倒れ込むように上体を伏せた太常を見下ろして、僕は大きく息を吸った。
 もちろん、怒鳴りつけてやるためだ。

「そういうことは、ちゃんと言えってんだよっ! 馬鹿野郎っ!」
「っ……⁉ え……⁉ あ、主……さま……⁉」
「ふざけんなよ! クソ太常! そのまま平身低頭! 地べたに額を打ちつけて謝れっ! この大馬鹿野郎がっ!」
「…………」

 なぐられたことが――そして今、怒鳴り散らされていることがよっぽど信じられないのか、太常がこれでもかというほど呆然として僕を見上げる。

「おい、馬鹿。なんで顔上げてんだ。馬鹿。言葉が理解できないのかよ? 僕は、地べたに額を打ちつけて謝れって言ったんだ!」
「い、いえ、あ……あの……? 理解はできておりますが……」

 あぁ? 理解ができてるならやれよ! 本当の馬鹿か! お前は!
 僕は再度すさまじい舌打ちをして、腕を組んで冷ややかに太常を見下ろした。

「主さま、ね……。そう呼ばれていても、僕には何もできない。なんの力もないから」

 いや、ないのは力だけじゃない。知識もだ。
 少しずつ勉強してはいるけれど、まったく追いついていない。
 当然――主といったところで、ほとんどお飾りみたいなもんだ。

「お前はすごい神さまなんだろ? 最強の式神とうたわれた、十二天将の一人だ。そうだな?そんなお前からしたら、僕はほとんどゴミみたいなもんなんだと思うよ。わかるわかる」
「そ、そんなことは……」
「ないって? まさか。お前だって言ってたじゃないか。僕の霊力はかすみたいなものだって。おまけに知識も何もない。霊能者としてはゴミクズ以下だってな」

 そのとおり。僕は、ただのちっぽけな人間でしかない。その人間の中でも、わりと底辺のほうだろう。

「それでも、そのゴミにしかできないことがある……! だからこそお前は脅しまでして、僕を主に据えたんじゃないか! 太常!」

 あの屋敷が、これ以上壊れないように。
 道具たちが、これ以上逃げ出さないように。
 この日本を、これからも変わらず守ってゆくために。
 安倍晴明を継ぐ『主』が、絶対に必要だった。
 だけど、太常では――神さまでは、『所有者』にも『主』にもなれない。
 僕のようなちっぽけな人間でなくては。

『太常の旦那にだって不得手なものがあるんです。あの完璧に見える唯一無二の神さまでも。だから、この日の本の国を守るには、太常の旦那だけでは足りないんスよ』

 朔だって、以前そう言っていた。
 どれだけ無力でも、人間である以上、僕にしかできないことは必ずある。
 あの『一坪』に関わる人間は、僕だけなんだから。

「太常……。僕に何ができるというわけではないけれど、それでも蚊帳の外はあんまりだ。もちろん、主として言ってるんじゃない」

 僕は垂纓冠を風呂敷の上にポイッと放ると、太常の前に膝をついた。
 一人の人間として。
 ただの、吉祥真備きちじょうまきびとして。

「気持ちだけでもお前に寄り添いたいと思うのは、分相応な願いなのか?」
「っ……それは……」

 太常が苦しげに顔を歪めて、うつむいた。
 はじめて見る、弱々しい太常だった。

「今が危機的状況であることを知れば、僕が逃げ出すとでも思ったのかよ? ふざけんなよ。お前、逃がしてくれるような人間味のある優しさなんて持ち合わせてないだろうが!」
「……それは……」
「いくら無力な僕にだって、黙って話を聞くことぐらいはできる。お前も、そうしてくれたじゃないか!」

 牛鬼ぎゅうきたおした日――。ひどくショックを受けた僕の傍に、お前はずっと控えていてくれたじゃないか。

「どうして、逆はさせてくれない?」
「……そ、れは……」

 太常が唇を噛む。

「何も話さないまま、僕を現世に放り出すことすらできないほど弱ってしまうなんて……。何かあったらどうするつもりだったんだよ」

 その額を子狐でコツンと叩く。今度は、軽く。

「国より先にお前が斃れてどうする。お前は、この国を守りたいんだろう? お前自身が、そう思っているんだろう? 安倍晴明の命令だからではなくて」
「……ええ」

 太常が今にも泣き出しそうな苦笑をもらす。
 そして――一つ大きく息をつくと、抜けるように高い青空を見上げた。

「自分でも、愚かだとは思うのです。間違っているとも。あの方以外の者に使われることを良しとしない神たちや道具たちの思いのほうが、きっと正しく、自然なのでございましょう。けれど、わたくしは……人が好きなのです」

 愛しげに、切なげに、そしてまぶしげに、光と闇のオッドアイを細める。
 やっぱり、はじめて見る表情だった。穏やかで、柔らかくて、とても自然な笑顔。

「神は生まれながらにして己の役目を、宿命さだめを理解しております。神のすべては、天帝より与えられしもの。この姿形も、性質も、性格も、何もかも。そして、宿命に逆らうことなく、役目を粛々と果たしながら、定められたときまで在るのです。ですが、人は違います」

 太常が僕へと視線を戻す。

「人はまったくの無知で生まれます。獣には強く備わっているはずの本能ですら、希薄です。そしてすべてを生まれてから身につけるのです。もがきながら、足掻あがきながら、毎日を生き抜きながら。そう――。人は、己の道を己で選び、己に成るために生きるのです」
「……運命は自ら切り開くもの。その強さ、自由さは、神にはないものだと?」

 僕の言葉に、太常が「ええ、そのとおりですとも」と頷く。

「しかし、人の生は短い。できることに限りがあります。だからこそ、積み重ねる。後世を生きる者たちのために、知識を、技術を、人が歩んできた道程を、記して残す。そうして、先人が遺したものから人は学び、さらにその先へ歩を進めてゆくのです。少しずつ、しかし確実に。何十年も何百年もかけ、自分たちの力で進化してゆく」

 そして、僕を見つめたまま、さらにうっとりと笑みを深めた。

「なんと素晴らしいことでしょうか」

 そういえば、太常はかつて天帝に仕えていた文官だったと言っていた。人間がしたためた書物を読み漁り、人の、世のれきを記憶していたのだと。なぜ人がしたためた書物かというと、神は何かを記録するということをしないからだそうだ。
 ああ、そうか。太常は、その人の積み重ねを――進化を、ずっと見てきたんだ。
 そして、いつしか強く魅せられた。

「弱くはかない、人……。しかし、その生き様はなんと力強く、雄々しいのでございましょうか。それは、神にはないもの。その命の瞬き、輝きに、わたくしはあこがれるのです」
「……太常……」
「生きてみたかったのです。わたくしも、人のように。定められた生をなぞるのではなく。なりふり構わず、ただ己の望みのためだけに、駆けてみたかったのです」
「お前の望み?」
「ええ、そのとおり。ほかの誰でもない、わたくしの望み」

 太常が僕から一瞬たりとも視線をらすことなく、トンと胸を叩く。
 その手は血に濡れていたけれど、その姿はさっきまでとは違い、とても力強かった。

「この国を――人をまもることです!」
「っ……」

 ああ、これこそだ。これこそ、太常が笑顔の仮面で隠していた本心――本音だ。
 胸が熱くなる。
 僕は今まで、彼の手の平の上で転がされるばかりだった。都合のいいように使われているだけだった。
 だけど今、ようやく同じ位置に立てた。そんな気がした。

『なんとでも。それでこの国の未来が得られるのであれば――わたくしは鬼畜にも外道にも喜んで堕ちましょう』

 あの日――。太常は、金と黒のオッドアイを強い決意に煌めかせて言った。
 式神・十二天将が一人、南西を守護する吉将――太常。象意は、五穀・衣食住など、生活の幸を象徴するもの。
 天帝にそう定められたからではない。先の主である安倍晴明に命じられたからでもない。己の意思で、この国を――人を護ると決めていたからこそ、あれほどまで誇り高くあったのだろうと思う。
 自ら望んで、人に寄り添う神さま。
 人の世を、そして人の幸せを守るのに、これ以上の存在があるだろうか。

「……わたくしは、神であって神ではないのかもしれません」

 太常が自嘲気味に笑う。
 ――そうだ。それでも、太常はそう言うのだ。
 神としては、あまりに異質だから。
 太常以外にはいないから。
 人にあこがれ続けた、神さまなんて。

「馬鹿げていようが、間違っていようが、どれだけ無様であろうが構いません。それでも、わたくしは力の限り足掻きます。たとえ天帝に歯向かうことになろうとも。そして、必ずや成し遂げてみせます」

 太常が僕を見つめたまま、にっこりと笑う。

「そのためならなんだっていたしましょう。喜んで鬼畜外道にも堕ちましょう。そんな――わたくしを」

 その笑顔はひどく穏やかで、晴れやかで――それでいて力強く、どこか挑発的で挑戦的。だけど、今まで見た中で一番鮮やかで、はっきりと美しかった。

ぎょせましょうか――」
「っ……!」

 その言葉に、胸が苦しいほどに熱くなる。
 気遣うような、それでいて少し挑発するかのような――ひどく気安い言い回し。そして、愛しさがあふれているような、柔らかな声音。
 夢で聞いた、安倍晴明に向けたそれと寸分違わず同じだった。

「……っ……」

 ああ、もう。こういうところ、本当に――ズルい。
 まだ、手の平の上で転がされている気分だ。
 でも、ようやく、ようやく、ようやくだ!
 僕は大きく息をついて、抜けるように青い空を見上げた。

「やっとかよ……! 心開くの、遅いんだよっ……!」

 神やあやかし、道具たちと縁を結ぶように言っておいて、お前自身が誰よりもかたくなとか、本当に厄介なヤツだよ。
 それだけじゃない。僕を主にしておきながら、お前自身が誰より先の主を――安倍晴明を忘れていなかった。
 主としてみなに認められろと言っておきながら、お前自身が誰より僕を認めていなかった。
 主が必要だと言いながら、お前自身が誰より独りで頑張ろうとしていた。
 やっとだ! やっと――その胸の内を見せやがった!
 その本音を、捕まえることができた!
 僕はもう一つ大きく息をつくと、太常に視線を戻した。

ぎょせるか? どうだかな。そもそも、僕がお前を使う必要なんてないだろ?」

 お前が神であって神ではないのかもしれないと言うなら、僕だってそうだ。
 主とは名ばかりで、主として相応ふさわしいものなど、何一つ持っていない。
 だけど、それでいいじゃないか。

「ともに足掻けばいいさ」

 神さまらしくなくても、主らしくなくてもなりふり構わず、ただ僕らの望みのためだけにともに駆けてゆけば、それだけでいいじゃないか。

「そうだろ?」
「っ……ええ、ええ、本当に……」

 僕の言葉に、太常がくしゃりと顔を歪め、ようやく深々と頭を下げる。

「申し訳ございませんでした。わたくしはあまりにもあなたを軽んじていたようです……。もちろん、意識的にそうしていたわけではないのですが……」
「……そうだな」

 意識してかたくなだったわけではないことぐらい、わかってる。
 そして、仕方ない部分もあったと思う。だって僕は、本当に何もできないから。
 矜持きょうじみたいなものもきっとあったと思うしな。脅迫までして思いどおりに動かした相手に弱音を吐くだなんて、太常じゃなくてもあまりしたくないものだと思う。
 だけど、自身が背負うものの大きさを考えたなら、今回の行動はやっぱり最悪だと言わざるを得ない。
 何も話さず、締め出す。
 嘘をついて、追い出す。
 それでは、なんのための主かわからない。
 僕を危険にさらしたくなかったのだとしても、だ。たしかに、屋敷から締め出しておけば、僕自身が直接騰蛇に傷つけられることはないかもしれない。でも太常が斃れてしまったら、つまりこの国自体が危うくなってしまったら――そんな安全に意味などありはしないんだ。
 だったら僕は、みんなとともに在りたい。
 どんな困難も、みんなとともに乗り越えてゆきたい。
 名ばかりでも、形ばかりでも、僕はみんなの主なのだから。

「お前が引きずり込んだんだ。だったら、最後までつきあわせろよ」

 もちろん何もできないけれど、あの屋敷と――そこに住まう神さま・道具たちと、運命をともにする覚悟はある。
 そのぐらい、お前たちを大切だと思えるようになったんだ。
 今さら、その手を離してくれるなよ。

「っ……本当に……」

 その言葉に、太常が再び平伏する。

「申し訳ございませんでした……」
「ん、思いっきり反省しろ。二度と繰り返すなよ。次は殴るだけじゃ済まないからな」

 僕はそう言うと、再び空を仰いだ。
 さて、説教が済んだら、これからのことを考えなくちゃ。
 四獣が一日の猶予を作ってくれた。その間に、なんとか騰蛇を鎮めなきゃいけない。
 あの屋敷は、もともとは『迷い家』だ。つまり、あやかし。命さえ無事なら、屋敷自体の修復はさほど難しいことじゃない。
 そして、持ち出せなかったものがないとは言わないけれど、神さまや道具たちの避難は、あらかた完了しているって話だった。
 それならば――。

「じゃあ、太常。今回のペナルティとして、一つ」

 僕はニィッと口角を上げると、顔を上げた太常の目の前に人差し指を突きつけた。

「僕の望みを叶えてもらおうか」


        
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