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2巻
2-2
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向かいのパン屋さんって、最近出来たお店のことかしら。私がモカさんのお店に納品するようになった時にはなかったのよね。確か二ヶ月くらい前に開店していたはず。
「ありがとうございます。実は私も気になっていたお店なので、嬉しいです」
「良かった。朝食にでも食べてみて。しっとりしてるのに、ふんわりと軽くて、本当に美味しかったから」
「明日の朝食でさっそくいただきますね」
モカさんと話していると、ぽちゃんと湖に何かが入って行く音が聞こえた。ガゼボから二人で覗き込むと、リコリスが泳いでいた。水の中が好きなのかしら。
「メルちゃん、あの子、泳いでいるけど!?」
驚きのあまりリコリスを指さしながら、モカさんは私とリコリスを何度も交互に見る。気持ちは分かるわ。私も初めてリコリスが泳いでいるのを見た時は、何かの間違いかと思ったもの。
「実は、リコリスはお兄様のお友達が作ってくれた魔道具なんです。防水仕様だったみたいで、私もいつも新しい機能を知る度に驚いています」
「へぇー……何か本当に色々すごいね」
「ふふっ、そうですね」
楽しい時間はあっという間に過ぎ、辺りがオレンジ色に染まっていく。そろそろお開きかしらね。何時間もお喋りしていたというのに、まだ話していたいと思ってしまう。それだけ楽しかったということかしら。
「それじゃ、メルちゃん。今日はお招きありがとうございました。もー、絵本の中のお姫様になったみたいだったよ! ガゼボもお菓子も全てが完璧だった! あっ、でも次からはこんなに気合入れないでね? さすがに毎回これだと気軽にお茶しにくくなっちゃうから、今日だけということで!」
「分かりました。次からは控えめにしますね。今日は初めてお友達を招いたから記念になるようなお茶会にしたくて、つい張り切っちゃいました」
「メルちゃんにとっても特別な日になったのなら、私も嬉しいよ。それじゃ、またね」
「えぇ、また次の納品の時に」
トーリに先導されて森を去っていくモカさんの後ろ姿を見つめながら、ここに来て初めて寂しいと感じた。楽しい時間の後は、その分だけ寂しさが募るのね。
「また……お茶会に招けばいいだけよね」
自分を慰めるようにそう呟いた時、モモンガが木と木の間を飛んでいるのが見えた。そうだ、私には新しい仲間とリコリス達がいるものね。
そう気を取り直して、私は肩に乗ったリコリスをひと撫でし、家に入った。
モカさんとのお茶会から数日後。
そういえば、ここに来てからまだ街と森の往復だけで、未だに苗の買い付けに行けていない。苺の苗を買おうと思っていたけれど、あれもこれもと手を出していたらすっかり忘れていた。苺の苗を植える時期を考えると、そろそろ買いに行きたいところ。
「あと二ヶ月もすれば涼しくなるし、ブルーベリーとマスカットの苗も買って植えようかしら」
果樹は、結界の外に植えた方が暑さや寒さで実が甘くなるはずだから、植えていたレモンとオレンジも結界の外に移動させた。植物魔法で果樹の成長は促せるけれど、味を甘くすることは出来ない。そうなると改良が必要だけれど……さすがにそこまではしなくても良いかなと思っている。
ただ、品種改良されていない果樹なので、結界の外に植えて虫に食われてしまわないか心配なのだけど……
「お兄様に領民が育てているオレンジの苗を送ってもらって、味はそのままで虫が付きにくくなるように品種改良しようかしら」
我が領のオレンジはハリ艶が良く、甘みも強い。そのため、虫が付きにくくなるように改良するだけで十分なのだ。
ブルーベリーとマスカットも品種改良することは簡単だけど、それを我が領の特産品として売り出せば、これらを特産として売っている他の領地の収入が減ってしまう。それはあまり良いことではないので、虫よけの改良をして家の周りに植えるだけにしよう。
「さて、今日は苗の販売所に向かいましょう」
トーリを護衛に付け、馬車で苗の販売所へと向かう。そこは果樹ごとに売り場が分かれていて、全てを見て回るのは大変そうだった。
今回は目的の果樹が決まっていたため、入り口にいる案内係の方に聞き、スムーズに購入することが出来た。
帰りの馬車に乗り込み、しばらく走っていると、突然馬車が停止した。今まで感じたことのない馬車の揺れに驚き、倒れそうになる体を足で踏ん張ることで支える。何があったのかと窓を覗き込もうとしたところで、外から扉をノックされ、トーリが声を掛けてきた。
「メルティアナ様、そのまま声は出さずに。囲まれました」
……囲まれた? 強盗とかそういう類かしら? どうしよう、トーリ一人で相手が出来るものなの? 防御魔法になら自信があるし、私の力も助けになるのではないかしら。
「トーリ、私も――」
「メルティアナ様、今すぐ馬車の周りに結界をお張りください」
「でも、あなた一人では」
「ご心配なく、護衛は私だけではありません。早く結界を」
「……分かったわ」
これ以上、彼の邪魔をするわけにもいかないので、すぐに馬車に結界を張る。私が結界を張ることで、トーリは私を気にせず戦えるはずだ。
それにしても、護衛ってトーリだけじゃなかったのね……。敵の数が分からないから心配だけど、他にも護衛がいるならきっと大丈夫よね。我が家の騎士が、強盗如きに後れを取るわけがない。
そう思っていると、馬車の外から剣を合わせる音と罵声が響いた。どうかみんなが怪我をしませんようにと目を閉じ祈っていると、強盗と思われる男達の声が聞こえてきた。
「馬車に結界を張っているだと!?」
「いいか、必ず中の女を引きずり出せ!」
……狙いは私? 女としか言っていなかったけれど、それを知っているということは、私が乗っていると確信している? それにしても、狙われるような覚えはないのだけれど……
肩に乗ったリコリスは、トーリから話しかけられた時点で扉の前に陣取っていた。その姿は姫を守る騎士のような凜々しさで、敵に扉を開けられたら飛び出すつもりなのだろうか。リコリスを見ていると、少し心を落ち着かせることが出来た。
さっきからずっとリコリスの目が赤くなっているが、お兄様の声は聞こえてこない。お兄様に繋いでいるわけではないなら、今何をしているのだろうか。
外の音に耳を澄ましても、どうなっているのか全く分からないが、声や足音などで人数は多そうだと感じた。思った以上に長引いている現実に、徐々に不安が募る。大丈夫なのだろうか。みんなは怪我をしていないだろうか。
私は、力の弱い水属性の治癒魔法しか使えない。そのため、大怪我をしていた場合はポーションを使って、何とか自力で回復してもらうしかないのだ。
ふと、聖女のアンナ嬢を思い出す。聖属性の治癒魔法が使える彼女がこの場にいれば、どんな状態であろうと回復させることが出来る。でも……いない人のことを考えたところで、どうしようもない。私は、彼らの無事を祈って待つことしか出来ないのだ。
鳴り止まぬ剣がぶつかる音の中、トーリが叫んだのが聞こえた。
「君! 下がって!」
君? 誰か来た? まさか……通り掛かった人が巻き込まれた? どうしよう。私に何か……でも、私が結界を解いて外に出れば、最悪の事態を招く。彼らの狙いは私なのだから。それに、護衛達も私に気を取られてしまう……。どうにか、無事に逃げてくれていますように。怪我をしていませんように。
私は目を閉じ、手をぎゅっと握り締めて神へと祈った。
「悪い、遅くなった」
そこへ、また初めて耳にする声が聞こえてくる。今度は誰だろう。遅くなったということは、私の護衛の一人が合流したのかしら。良かった……人が増えれば有利に戦えるはず。
事実、彼が来てから少しして外は静かになった。
結界を解き、馬車の扉を開けようとしたが、外から押さえられて開けることが出来ない。
「メルティアナ様、まだ外には出ないようお願いします」
「怪我人がいないか確認したいのだけど……」
「周辺に浄化魔法を掛けて綺麗にしますので、しばらくお待ちください。怪我もかすり傷程度ですので問題ありません」
浄化魔法……斬り合った血で汚れているということね。トーリは私が見るには凄惨な状態だと考えているのだろう。
「あの……トーリ、途中で誰か通り掛かったのかしら?」
「はい。危ないので下がってもらおうと思ったのですが、剣の腕に覚えがあるとのことで、そのまま加勢していただきました」
まぁ……巻き込んでしまったのに加勢までしてくれたなんて……何てお礼を言えばいいのか。普通の人だったら怪我では済まなかったかもしれない。
「その方にお怪我は? それとお礼を言いたいので、引き留めてほしいわ」
「私もそう思いまして、その方にはお待ちいただいています」
「敵の人数が多く感じたけど……どれくらいいたか聞いても?」
「はい、二十人ほどおりましたでしょうか」
「二十人……多いわね。私の護衛は何人いたのかしら?」
私に付いている護衛はトーリだけだと思っていたから、本当は何人いたのか知らないのよね。
「護衛騎士が五人付いておりまして、通りすがりの青年が加勢してくれた後に、『影』が一名合流致しました」
「……『影』が?」
「街中では私達護衛騎士が、森の中では影である彼が護衛をしております。メルティアナ様が気兼ねなく過ごせるようにと、常に側に仕えているのは私ですが、それだけではメルティアナ様の身に何かあった場合、不安が残りますので」
そうだったのね。それにしても、数少ない影の一人を私に付けるなんて……。影というのは、ミズーリ伯爵家が雇っている諜報員だ。情報収集をメインにしているのだけど、その影が次期当主であるお兄様でもない私の護衛に付くなんて考えてもいなかった。ただ、そのおかげで今回の襲撃にも耐えられたのよね。
でも、森の中に潜んでいたなら、何故この短時間で駆け付けられたのだろう。
「森の中にいたのに、よくすぐに合流出来たわね」
「リコリスが彼に救難信号を送ってくれたからです」
扉の前にいるリコリスを見ると、瞳の色が元に戻っていた。あの時赤く光っていたのは、影の一人に信号を送っていたからなのね。
「メルティアナ様、片付きましたので、もう馬車から出ていただいて大丈夫です」
そう言うとトーリは扉を開けて、手を差し出す。その手を取り馬車から降りると、どこにも血痕は見当たらないし、死体も見当たらない。全てが片付けられた状態になっていた。
そこにいたのは我が家の騎士三人。トーリを入れて五人なら、四人いるはずでは?
「トーリ、護衛は全部で五人なのよね? 一人足りないのではないかしら?」
「あぁ、事後処理のために先に街に向かわせました。フェルナンド様にも報告しなければいけませんので」
「そうなのね。えっと、影とは面識がないから挨拶をしたいのだけれど、問題ないかしら?」
「はい、問題ありません」
「それと、通りすがりの方は……」
「加勢いただいた青年は……ちょうど馬車の陰になっていて見えないですね、あちらにおりますよ」
そう言われて連れられた先にいたのは、お兄様より少し年が上だと思われる、背の高い爽やかな雰囲気の男性だった。彼は私に気付くと柔らかく微笑み、亜麻色の髪を揺らす。
騎士のように逞しい体躯ではないけれど、白いシャツから伸びた腕は筋肉が程よく付いており、鍛えていることが想像出来た。しかし、見た感じが優しそうな印象なので、腰に剣を下げていなければ彼が戦ったと言われても信じられなかっただろう。
「この度は、助けていただきありがとうございました。私はメルティアナと申します。お怪我はないですか?」
「大丈夫ですよ。街へ行く途中にたまたま見かけてつい出しゃばってしまいましたが、お力になれたのなら何よりです。私はルディと申します。お嬢様に何もなくて良かった」
お嬢様……護衛がこれだけたくさんいれば、そう思われてしまうわよね。さすがに平民のふりは無理がある。
「ルディ殿、お礼をしたいので、後日ご自宅を訪ねても良いでしょうか?」
トーリがルディさんに尋ねる。
「ルディと呼んでいただいて構いませんよ。お礼……必要ないと言っても、引いてくださらないですよね」
「そうですね、お嬢様を助けていただいたお礼をしなければ、家の者も納得致しませんから」
ミズーリ伯爵家からお礼として何か品物を渡されるはず。彼の場合、何かを希望することはなさそうだから、謝礼金を渡すのかもしれない。
トーリが話をまとめてくれるみたいなので、私は大人しくそれを見守る。
「それでは……街の薬屋はご存じですか?」
「はい、よく伺いますので分かります」
ルディさんの問いに、トーリが頷く。私が薬を卸しているお店だものね。よく知っていて当然だわ。
「その近くに、コーヒーショップがあるのは?」
あら、そこもよく知っている場所だわ。私がパウンドケーキを卸しているところだし、何と言ってもモカさんのお店だもの。
「はい、そこにもよく行きますので」
「それは良かった。私の父がそのコーヒーショップの店主なんですよ。だから、店に来ていただければ私に会えますよ」
「えっ!?」
驚きで思わず声が漏れてしまった。ジェロさんのご子息なの!? でも私、一度もあなたに会ったことないわよ!?
「ジェロさんのご子息だったのですか?」
「父の名前をご存じなんですね。うちの常連さんですか?」
「常連というか……お嬢様の作ったお菓子を納品させていただいているのです。一度もお店であなたをお見かけしたことがありませんが」
そうなのよね。トーリの言う通り、ルディさんを一度も見たことがなかった。だから、トーリが少し疑いの眼差しでルディさんを見てしまうのも仕方ない。それに彼は私の護衛だから、周りを疑うのも仕事の一つだ。たとえ助けに入ってくれた相手だとしても……
「あぁ、兄が王都でお店を出すので、その手伝いでしばらく家を空けていたんですよ。ちょうど帰る途中で、あなた達が襲われているところに出くわしたということです」
ルディさんは、トーリの疑いの眼差しを気にした風もなく答えた。気を悪くしないか心配だったからホッとした。
「だから、次から納品にいらっしゃる時は私もお店にいますよ」
「分かりました。では、近いうちにお伺いしますので、よろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくても良いですけど……分かりました。では、お店で待っています」
トーリとルディさんとの間で話がまとまり、私からも再度お礼を言う。
「本当に、危ないところをありがとうございました。モカさんのごきょうだいとは知らずに、危険なことに巻き込んでしまい申し訳ないです。モカさんとジェロさんにも、よろしくお伝えください。それと……私もよくお店に伺いますので、出来れば楽に話していただけると嬉しいです」
「モカと仲良くしてくれているんですね。ではお言葉に甘えて――私が勝手に首を突っ込んだので、そんなに気にしないでほしい。申し訳なさそうな顔よりも……そうだな、笑顔を見せてくれた方が助けに入った甲斐があるかな?」
笑顔……笑顔ね。それなら社交をするために習うから、貴族令嬢は得意にしている。
私はすぐにルディさんに微笑んだ。
「……とても綺麗に笑うんだね。次に会った時は、可愛い笑顔も見てみたいな」
「え……?」
笑顔に綺麗とか可愛いとかあるの? それは習わなかったから、ちょっと分からないわ……
「あー、ごめんね? 変なこと言っちゃった。気にしないで。じゃ、そろそろ行くね。お嬢様も疲れたでしょ。もう帰ってゆっくり休んだ方がいい」
「はい、ありがとうございます。それと、私のことはメルとお呼びください。モカさんもそう呼んでいるので」
「分かった。では、メル。また会おう」
そう言うと、ルディさんは馬に跨り、颯爽と駆けていった。そんな彼の背を見送りながら、私はトーリに声を掛ける。
「ルディさん、ジェロさんのご子息だったのね」
「ラス、ルディ、モカの三人きょうだいであることはすでに調べておりましたが、顔までは知らなかったので、私も気付くことが出来ませんでした」
……そうよね。私の納品先だもの、調べていないわけがないわよね。
「それにしても、強盗だと思ったけれど……もしかして、人攫いが目的だったのかしら? 二十人で馬車を襲ってくるなんて」
「それについては、調査致します。その辺の破落戸に絡まれる程度を想定して、護衛の数を五人にしていましたが、今後は護衛を追加しなければなりません。補充の護衛が到着するまでは、メルティアナ様には森の家から出ないようにしていただきたいです」
「そうね……。また同じようなことがあると、護衛が五人では対処出来ないものね。やっぱり彼らは私を狙っていたと思う?」
犯人の一人が「馬車の中の女」って言っていたわよね。ただの物取りとは思えない。私を狙う理由は何なのだろうか。
「現時点では何とも言えませんが……フェルナンド様に、何かしら情報をいただけるかもしれません」
「分かったわ。お兄様からの情報を待ちましょう。えっと、それで、影の人……名前は何ていうのかしら?」
「彼の名は、レンといいます」
ちらりとレンの方を見るも、顔を布で覆っていて目の色しか分からない。ここからだと黒っぽく見えるけど、日が当たる度に赤くも見える不思議な色合いだ。手足はすらっと長く、背はルディさんと同じくらい高い。
「彼……目しか見えないのだけど、顔を出してもらって良いのかしら? 顔を見ちゃ駄目とか、何か制限がある?」
「いえ、彼はメルティアナ様専属として付けられている影ですので、主人であるメルティアナ様が見てはいけないということはありません」
……ん? 私専属の影なんているの? お兄様の影を私に付けているのではなくて? つまり、今まで自分の影なのに知らなかったということ!?
「……えっと、レンの主人はお兄様じゃなくて?」
「難しいところですね。確かにフェルナンド様のご指示で、メルティアナ様に付いていますので……。ですが、これからはメルティアナ様から指示していただいてよろしいですよ」
「指示……これといって特にないわね。今まで通りにしてくれて問題ないと思うわ」
「分かりました。では、レンを呼びますね」
トーリに呼ばれて駆け寄ってきた彼は、顔を隠していた布を解き、膝をついて頭を垂れた。黒い布に覆われて見えなかった髪の色は白く艶やかで、風が吹く度に一本一本がさらりと靡き、絹糸のようだ。影なのに、この髪色だと目立つから布で覆って隠しているのかしら。
何より一番驚いたのは、とても顔が整っていることだった。すっと通った鼻筋に、目は二重の幅が浅めで凜々しい。先ほど黒だと思っていた瞳の色は、実は濃い赤だった。光を浴びると赤が強く見え、雲が日を隠すと瞳の色が黒に変わり、思わず見入ってしまう。白い肌にとても映える印象的な瞳だ。
「お初にお目に掛かります。お嬢様の影を任されております、レンと申します」
「レン、初めまして。今まで私に影が付いているなんて知らなかったの。挨拶が遅くなって、ごめんなさいね」
「いえ、陰ながら護衛するのが私の役目ですので、お嬢様が気付かないのも当然です」
「ふふっ、そうよね。何も知らされていない私が気付いた方が問題ね。今までありがとう。そして、これからもよろしくお願いね?」
「仰せのままに、お嬢様」
そう言って薄く笑ったレンは、色気のある人だなと思った。
家に帰ったものの何も手につかず、私はソファーに座りクッションを抱き締めながらお兄様の報告を待った。買って来た苗をちらりと見るも、先ほどの襲撃のことで頭がいっぱいで今は植える気にならない。
お兄様への報告はトーリからするから、私は待っていればいいと聞いている。ただ待つだけ……。私に出来ることは何もない事実に、溜息が漏れてしまう。
あんなことがあったからか、リコリスは私の側を離れようとしない。いつもなら木々を飛び回ってリス達と遊んでいるのに、まだ警戒しているのかしら。
尻尾を撫でながら癒されていると、急にリコリスの瞳の色が赤く染まっていった。
『メル。今、大丈夫かな?』
「はい、大丈夫です。お兄様」
『トーリから襲撃があったと聞いてね。馬車の中にいて見ずに済んだとはいえ、怖い思いをしただろう? 心配になってね……』
みんなが守ってくれるから大丈夫だと分かってはいた。でも、彼らに何かあったらと心配で馬車の中で緊張していたし、怖くなかったわけではない。
「……そうですね。護衛騎士達がいますし結界を張っていたので、馬車の中に入って来られないと分かってはいたのですが、緊張して体に力が入ってしまいましたわ……」
『側で慰めてあげることが出来ないのは、私も応えるな。ちゃんと調べて、二度と同じことがないようにするから、今は結界の中でゆっくり過ごすんだよ?』
「はい、分かりました。報告お待ちしておりますね。あっ、お兄様! 今日、私の影という人物に会いましたわ!」
お兄様ったら、私に影を付けていることを隠し続けるつもりだったのかしら。
『あぁ、レンか。本来、令嬢に影は必要ないが……念のため、メルに付けておいて良かったよ。レンが駆け付けて、すぐに片が付いたと聞いた』
「確かに、彼の声が聞こえてから、すぐに静かになりました。強い方なのですね」
『強くなければ影にはなれないよ。情報収集だけでなく戦闘も仕事のうちだからね。奇襲を仕掛けるのが得意だけど、正面から戦っても問題なく勝てる。そうでなければ、情報を持ち帰ることなど出来ないしね』
確かにそうね、強さがあってこその仕事よね。今回、レンが来なければ戦闘が長引いていたかもしれない。最初に影の存在を聞いた時は驚いたけれど、レンがいてくれて良かったと思った。
「私は知らないことばかりです。あの、レンはお兄様の影ではないのですよね?」
『元々は私の影だったのを、メル専属にしたんだよ』
「それでしたら、初めに私に紹介してほしかったですわ」
『んー……、メルに影を付けると言ったら、不要だと断られそうな気がしてね。だから黙って付けたんだ』
ただ森でスローライフをするだけなら、影が必要だとは思わない。でも、今日みたいなことがあった場合は心強い。普通に生活していれば、襲撃されることなどないとは思うけれど。
「否定は出来ないですね。彼は今、お兄様の指示に従っているのですか?」
『あぁ。メルを守ることに加えて、定期的に私に報告してもらっているよ』
「報告?」
『元気に過ごしているか、心配だからね』
お兄様の優しい言葉に胸が温かくなる。
「あっ、お兄様! 話は変わるのですが、今日モカさんのお兄様に会いました」
『トーリから聞いたよ。偶然通り掛かった青年に加勢してもらったと。こちらで謝礼は準備しておくから、メルは心配しなくていいよ』
「分かりました。でも、私からもささやかですが何かお渡ししておきますね」
『メルは優しいね』
そうしてお兄様との通信が終わり、私はルディさんへのお礼をどうするか考えた。男性へのプレゼントに何が適しているのか、よく分からない……
ルディさんはコーヒーショップで働いているから、お茶やお菓子を贈るのは微妙よね。日常的に使えるもので、あっても困らないもの……ハンカチに刺繍をして贈ろうかしら。これなら、汚れて捨てることもあるから何枚あっても困らないわよね。七枚ほど刺繍して贈ろう。ハンカチ程度であれば、恐縮されることもないだろうし。
安全のためしばらく家から出られないから、のんびり刺繍に勤しみましょう。ハンカチの生地は、爽やかな白がいいわね。ルディさんの髪色に合わせて亜麻色の糸を使って、アクセントに他の色も少し入れて仕上げてもいいかもしれないわ。
護衛達にも何かお礼がしたい。彼らは仕事をしただけと言うだろうけれど、それでもやっぱり感謝の気持ちを伝えるのは大事だ。そうだ、コーヒーセットを渡すのはどうだろう。でも、私は買いに行けないから、トーリに頼むことになってしまう。トーリにも渡すものを本人に買わせるのも気が引けるけど……仕方ない。
そういえば、レンは森に潜んでいると言っていたわね。声を掛ければ反応があったりするのかしら。
私は家の扉を開けて、声を掛ける。
「レン、いるのなら出てきてくれるかしら?」
それほど大きな声を出していないにもかかわらず、すぐに木の上からレンが飛び下りてきた。
「ありがとうございます。実は私も気になっていたお店なので、嬉しいです」
「良かった。朝食にでも食べてみて。しっとりしてるのに、ふんわりと軽くて、本当に美味しかったから」
「明日の朝食でさっそくいただきますね」
モカさんと話していると、ぽちゃんと湖に何かが入って行く音が聞こえた。ガゼボから二人で覗き込むと、リコリスが泳いでいた。水の中が好きなのかしら。
「メルちゃん、あの子、泳いでいるけど!?」
驚きのあまりリコリスを指さしながら、モカさんは私とリコリスを何度も交互に見る。気持ちは分かるわ。私も初めてリコリスが泳いでいるのを見た時は、何かの間違いかと思ったもの。
「実は、リコリスはお兄様のお友達が作ってくれた魔道具なんです。防水仕様だったみたいで、私もいつも新しい機能を知る度に驚いています」
「へぇー……何か本当に色々すごいね」
「ふふっ、そうですね」
楽しい時間はあっという間に過ぎ、辺りがオレンジ色に染まっていく。そろそろお開きかしらね。何時間もお喋りしていたというのに、まだ話していたいと思ってしまう。それだけ楽しかったということかしら。
「それじゃ、メルちゃん。今日はお招きありがとうございました。もー、絵本の中のお姫様になったみたいだったよ! ガゼボもお菓子も全てが完璧だった! あっ、でも次からはこんなに気合入れないでね? さすがに毎回これだと気軽にお茶しにくくなっちゃうから、今日だけということで!」
「分かりました。次からは控えめにしますね。今日は初めてお友達を招いたから記念になるようなお茶会にしたくて、つい張り切っちゃいました」
「メルちゃんにとっても特別な日になったのなら、私も嬉しいよ。それじゃ、またね」
「えぇ、また次の納品の時に」
トーリに先導されて森を去っていくモカさんの後ろ姿を見つめながら、ここに来て初めて寂しいと感じた。楽しい時間の後は、その分だけ寂しさが募るのね。
「また……お茶会に招けばいいだけよね」
自分を慰めるようにそう呟いた時、モモンガが木と木の間を飛んでいるのが見えた。そうだ、私には新しい仲間とリコリス達がいるものね。
そう気を取り直して、私は肩に乗ったリコリスをひと撫でし、家に入った。
モカさんとのお茶会から数日後。
そういえば、ここに来てからまだ街と森の往復だけで、未だに苗の買い付けに行けていない。苺の苗を買おうと思っていたけれど、あれもこれもと手を出していたらすっかり忘れていた。苺の苗を植える時期を考えると、そろそろ買いに行きたいところ。
「あと二ヶ月もすれば涼しくなるし、ブルーベリーとマスカットの苗も買って植えようかしら」
果樹は、結界の外に植えた方が暑さや寒さで実が甘くなるはずだから、植えていたレモンとオレンジも結界の外に移動させた。植物魔法で果樹の成長は促せるけれど、味を甘くすることは出来ない。そうなると改良が必要だけれど……さすがにそこまではしなくても良いかなと思っている。
ただ、品種改良されていない果樹なので、結界の外に植えて虫に食われてしまわないか心配なのだけど……
「お兄様に領民が育てているオレンジの苗を送ってもらって、味はそのままで虫が付きにくくなるように品種改良しようかしら」
我が領のオレンジはハリ艶が良く、甘みも強い。そのため、虫が付きにくくなるように改良するだけで十分なのだ。
ブルーベリーとマスカットも品種改良することは簡単だけど、それを我が領の特産品として売り出せば、これらを特産として売っている他の領地の収入が減ってしまう。それはあまり良いことではないので、虫よけの改良をして家の周りに植えるだけにしよう。
「さて、今日は苗の販売所に向かいましょう」
トーリを護衛に付け、馬車で苗の販売所へと向かう。そこは果樹ごとに売り場が分かれていて、全てを見て回るのは大変そうだった。
今回は目的の果樹が決まっていたため、入り口にいる案内係の方に聞き、スムーズに購入することが出来た。
帰りの馬車に乗り込み、しばらく走っていると、突然馬車が停止した。今まで感じたことのない馬車の揺れに驚き、倒れそうになる体を足で踏ん張ることで支える。何があったのかと窓を覗き込もうとしたところで、外から扉をノックされ、トーリが声を掛けてきた。
「メルティアナ様、そのまま声は出さずに。囲まれました」
……囲まれた? 強盗とかそういう類かしら? どうしよう、トーリ一人で相手が出来るものなの? 防御魔法になら自信があるし、私の力も助けになるのではないかしら。
「トーリ、私も――」
「メルティアナ様、今すぐ馬車の周りに結界をお張りください」
「でも、あなた一人では」
「ご心配なく、護衛は私だけではありません。早く結界を」
「……分かったわ」
これ以上、彼の邪魔をするわけにもいかないので、すぐに馬車に結界を張る。私が結界を張ることで、トーリは私を気にせず戦えるはずだ。
それにしても、護衛ってトーリだけじゃなかったのね……。敵の数が分からないから心配だけど、他にも護衛がいるならきっと大丈夫よね。我が家の騎士が、強盗如きに後れを取るわけがない。
そう思っていると、馬車の外から剣を合わせる音と罵声が響いた。どうかみんなが怪我をしませんようにと目を閉じ祈っていると、強盗と思われる男達の声が聞こえてきた。
「馬車に結界を張っているだと!?」
「いいか、必ず中の女を引きずり出せ!」
……狙いは私? 女としか言っていなかったけれど、それを知っているということは、私が乗っていると確信している? それにしても、狙われるような覚えはないのだけれど……
肩に乗ったリコリスは、トーリから話しかけられた時点で扉の前に陣取っていた。その姿は姫を守る騎士のような凜々しさで、敵に扉を開けられたら飛び出すつもりなのだろうか。リコリスを見ていると、少し心を落ち着かせることが出来た。
さっきからずっとリコリスの目が赤くなっているが、お兄様の声は聞こえてこない。お兄様に繋いでいるわけではないなら、今何をしているのだろうか。
外の音に耳を澄ましても、どうなっているのか全く分からないが、声や足音などで人数は多そうだと感じた。思った以上に長引いている現実に、徐々に不安が募る。大丈夫なのだろうか。みんなは怪我をしていないだろうか。
私は、力の弱い水属性の治癒魔法しか使えない。そのため、大怪我をしていた場合はポーションを使って、何とか自力で回復してもらうしかないのだ。
ふと、聖女のアンナ嬢を思い出す。聖属性の治癒魔法が使える彼女がこの場にいれば、どんな状態であろうと回復させることが出来る。でも……いない人のことを考えたところで、どうしようもない。私は、彼らの無事を祈って待つことしか出来ないのだ。
鳴り止まぬ剣がぶつかる音の中、トーリが叫んだのが聞こえた。
「君! 下がって!」
君? 誰か来た? まさか……通り掛かった人が巻き込まれた? どうしよう。私に何か……でも、私が結界を解いて外に出れば、最悪の事態を招く。彼らの狙いは私なのだから。それに、護衛達も私に気を取られてしまう……。どうにか、無事に逃げてくれていますように。怪我をしていませんように。
私は目を閉じ、手をぎゅっと握り締めて神へと祈った。
「悪い、遅くなった」
そこへ、また初めて耳にする声が聞こえてくる。今度は誰だろう。遅くなったということは、私の護衛の一人が合流したのかしら。良かった……人が増えれば有利に戦えるはず。
事実、彼が来てから少しして外は静かになった。
結界を解き、馬車の扉を開けようとしたが、外から押さえられて開けることが出来ない。
「メルティアナ様、まだ外には出ないようお願いします」
「怪我人がいないか確認したいのだけど……」
「周辺に浄化魔法を掛けて綺麗にしますので、しばらくお待ちください。怪我もかすり傷程度ですので問題ありません」
浄化魔法……斬り合った血で汚れているということね。トーリは私が見るには凄惨な状態だと考えているのだろう。
「あの……トーリ、途中で誰か通り掛かったのかしら?」
「はい。危ないので下がってもらおうと思ったのですが、剣の腕に覚えがあるとのことで、そのまま加勢していただきました」
まぁ……巻き込んでしまったのに加勢までしてくれたなんて……何てお礼を言えばいいのか。普通の人だったら怪我では済まなかったかもしれない。
「その方にお怪我は? それとお礼を言いたいので、引き留めてほしいわ」
「私もそう思いまして、その方にはお待ちいただいています」
「敵の人数が多く感じたけど……どれくらいいたか聞いても?」
「はい、二十人ほどおりましたでしょうか」
「二十人……多いわね。私の護衛は何人いたのかしら?」
私に付いている護衛はトーリだけだと思っていたから、本当は何人いたのか知らないのよね。
「護衛騎士が五人付いておりまして、通りすがりの青年が加勢してくれた後に、『影』が一名合流致しました」
「……『影』が?」
「街中では私達護衛騎士が、森の中では影である彼が護衛をしております。メルティアナ様が気兼ねなく過ごせるようにと、常に側に仕えているのは私ですが、それだけではメルティアナ様の身に何かあった場合、不安が残りますので」
そうだったのね。それにしても、数少ない影の一人を私に付けるなんて……。影というのは、ミズーリ伯爵家が雇っている諜報員だ。情報収集をメインにしているのだけど、その影が次期当主であるお兄様でもない私の護衛に付くなんて考えてもいなかった。ただ、そのおかげで今回の襲撃にも耐えられたのよね。
でも、森の中に潜んでいたなら、何故この短時間で駆け付けられたのだろう。
「森の中にいたのに、よくすぐに合流出来たわね」
「リコリスが彼に救難信号を送ってくれたからです」
扉の前にいるリコリスを見ると、瞳の色が元に戻っていた。あの時赤く光っていたのは、影の一人に信号を送っていたからなのね。
「メルティアナ様、片付きましたので、もう馬車から出ていただいて大丈夫です」
そう言うとトーリは扉を開けて、手を差し出す。その手を取り馬車から降りると、どこにも血痕は見当たらないし、死体も見当たらない。全てが片付けられた状態になっていた。
そこにいたのは我が家の騎士三人。トーリを入れて五人なら、四人いるはずでは?
「トーリ、護衛は全部で五人なのよね? 一人足りないのではないかしら?」
「あぁ、事後処理のために先に街に向かわせました。フェルナンド様にも報告しなければいけませんので」
「そうなのね。えっと、影とは面識がないから挨拶をしたいのだけれど、問題ないかしら?」
「はい、問題ありません」
「それと、通りすがりの方は……」
「加勢いただいた青年は……ちょうど馬車の陰になっていて見えないですね、あちらにおりますよ」
そう言われて連れられた先にいたのは、お兄様より少し年が上だと思われる、背の高い爽やかな雰囲気の男性だった。彼は私に気付くと柔らかく微笑み、亜麻色の髪を揺らす。
騎士のように逞しい体躯ではないけれど、白いシャツから伸びた腕は筋肉が程よく付いており、鍛えていることが想像出来た。しかし、見た感じが優しそうな印象なので、腰に剣を下げていなければ彼が戦ったと言われても信じられなかっただろう。
「この度は、助けていただきありがとうございました。私はメルティアナと申します。お怪我はないですか?」
「大丈夫ですよ。街へ行く途中にたまたま見かけてつい出しゃばってしまいましたが、お力になれたのなら何よりです。私はルディと申します。お嬢様に何もなくて良かった」
お嬢様……護衛がこれだけたくさんいれば、そう思われてしまうわよね。さすがに平民のふりは無理がある。
「ルディ殿、お礼をしたいので、後日ご自宅を訪ねても良いでしょうか?」
トーリがルディさんに尋ねる。
「ルディと呼んでいただいて構いませんよ。お礼……必要ないと言っても、引いてくださらないですよね」
「そうですね、お嬢様を助けていただいたお礼をしなければ、家の者も納得致しませんから」
ミズーリ伯爵家からお礼として何か品物を渡されるはず。彼の場合、何かを希望することはなさそうだから、謝礼金を渡すのかもしれない。
トーリが話をまとめてくれるみたいなので、私は大人しくそれを見守る。
「それでは……街の薬屋はご存じですか?」
「はい、よく伺いますので分かります」
ルディさんの問いに、トーリが頷く。私が薬を卸しているお店だものね。よく知っていて当然だわ。
「その近くに、コーヒーショップがあるのは?」
あら、そこもよく知っている場所だわ。私がパウンドケーキを卸しているところだし、何と言ってもモカさんのお店だもの。
「はい、そこにもよく行きますので」
「それは良かった。私の父がそのコーヒーショップの店主なんですよ。だから、店に来ていただければ私に会えますよ」
「えっ!?」
驚きで思わず声が漏れてしまった。ジェロさんのご子息なの!? でも私、一度もあなたに会ったことないわよ!?
「ジェロさんのご子息だったのですか?」
「父の名前をご存じなんですね。うちの常連さんですか?」
「常連というか……お嬢様の作ったお菓子を納品させていただいているのです。一度もお店であなたをお見かけしたことがありませんが」
そうなのよね。トーリの言う通り、ルディさんを一度も見たことがなかった。だから、トーリが少し疑いの眼差しでルディさんを見てしまうのも仕方ない。それに彼は私の護衛だから、周りを疑うのも仕事の一つだ。たとえ助けに入ってくれた相手だとしても……
「あぁ、兄が王都でお店を出すので、その手伝いでしばらく家を空けていたんですよ。ちょうど帰る途中で、あなた達が襲われているところに出くわしたということです」
ルディさんは、トーリの疑いの眼差しを気にした風もなく答えた。気を悪くしないか心配だったからホッとした。
「だから、次から納品にいらっしゃる時は私もお店にいますよ」
「分かりました。では、近いうちにお伺いしますので、よろしくお願いします」
「そんなに畏まらなくても良いですけど……分かりました。では、お店で待っています」
トーリとルディさんとの間で話がまとまり、私からも再度お礼を言う。
「本当に、危ないところをありがとうございました。モカさんのごきょうだいとは知らずに、危険なことに巻き込んでしまい申し訳ないです。モカさんとジェロさんにも、よろしくお伝えください。それと……私もよくお店に伺いますので、出来れば楽に話していただけると嬉しいです」
「モカと仲良くしてくれているんですね。ではお言葉に甘えて――私が勝手に首を突っ込んだので、そんなに気にしないでほしい。申し訳なさそうな顔よりも……そうだな、笑顔を見せてくれた方が助けに入った甲斐があるかな?」
笑顔……笑顔ね。それなら社交をするために習うから、貴族令嬢は得意にしている。
私はすぐにルディさんに微笑んだ。
「……とても綺麗に笑うんだね。次に会った時は、可愛い笑顔も見てみたいな」
「え……?」
笑顔に綺麗とか可愛いとかあるの? それは習わなかったから、ちょっと分からないわ……
「あー、ごめんね? 変なこと言っちゃった。気にしないで。じゃ、そろそろ行くね。お嬢様も疲れたでしょ。もう帰ってゆっくり休んだ方がいい」
「はい、ありがとうございます。それと、私のことはメルとお呼びください。モカさんもそう呼んでいるので」
「分かった。では、メル。また会おう」
そう言うと、ルディさんは馬に跨り、颯爽と駆けていった。そんな彼の背を見送りながら、私はトーリに声を掛ける。
「ルディさん、ジェロさんのご子息だったのね」
「ラス、ルディ、モカの三人きょうだいであることはすでに調べておりましたが、顔までは知らなかったので、私も気付くことが出来ませんでした」
……そうよね。私の納品先だもの、調べていないわけがないわよね。
「それにしても、強盗だと思ったけれど……もしかして、人攫いが目的だったのかしら? 二十人で馬車を襲ってくるなんて」
「それについては、調査致します。その辺の破落戸に絡まれる程度を想定して、護衛の数を五人にしていましたが、今後は護衛を追加しなければなりません。補充の護衛が到着するまでは、メルティアナ様には森の家から出ないようにしていただきたいです」
「そうね……。また同じようなことがあると、護衛が五人では対処出来ないものね。やっぱり彼らは私を狙っていたと思う?」
犯人の一人が「馬車の中の女」って言っていたわよね。ただの物取りとは思えない。私を狙う理由は何なのだろうか。
「現時点では何とも言えませんが……フェルナンド様に、何かしら情報をいただけるかもしれません」
「分かったわ。お兄様からの情報を待ちましょう。えっと、それで、影の人……名前は何ていうのかしら?」
「彼の名は、レンといいます」
ちらりとレンの方を見るも、顔を布で覆っていて目の色しか分からない。ここからだと黒っぽく見えるけど、日が当たる度に赤くも見える不思議な色合いだ。手足はすらっと長く、背はルディさんと同じくらい高い。
「彼……目しか見えないのだけど、顔を出してもらって良いのかしら? 顔を見ちゃ駄目とか、何か制限がある?」
「いえ、彼はメルティアナ様専属として付けられている影ですので、主人であるメルティアナ様が見てはいけないということはありません」
……ん? 私専属の影なんているの? お兄様の影を私に付けているのではなくて? つまり、今まで自分の影なのに知らなかったということ!?
「……えっと、レンの主人はお兄様じゃなくて?」
「難しいところですね。確かにフェルナンド様のご指示で、メルティアナ様に付いていますので……。ですが、これからはメルティアナ様から指示していただいてよろしいですよ」
「指示……これといって特にないわね。今まで通りにしてくれて問題ないと思うわ」
「分かりました。では、レンを呼びますね」
トーリに呼ばれて駆け寄ってきた彼は、顔を隠していた布を解き、膝をついて頭を垂れた。黒い布に覆われて見えなかった髪の色は白く艶やかで、風が吹く度に一本一本がさらりと靡き、絹糸のようだ。影なのに、この髪色だと目立つから布で覆って隠しているのかしら。
何より一番驚いたのは、とても顔が整っていることだった。すっと通った鼻筋に、目は二重の幅が浅めで凜々しい。先ほど黒だと思っていた瞳の色は、実は濃い赤だった。光を浴びると赤が強く見え、雲が日を隠すと瞳の色が黒に変わり、思わず見入ってしまう。白い肌にとても映える印象的な瞳だ。
「お初にお目に掛かります。お嬢様の影を任されております、レンと申します」
「レン、初めまして。今まで私に影が付いているなんて知らなかったの。挨拶が遅くなって、ごめんなさいね」
「いえ、陰ながら護衛するのが私の役目ですので、お嬢様が気付かないのも当然です」
「ふふっ、そうよね。何も知らされていない私が気付いた方が問題ね。今までありがとう。そして、これからもよろしくお願いね?」
「仰せのままに、お嬢様」
そう言って薄く笑ったレンは、色気のある人だなと思った。
家に帰ったものの何も手につかず、私はソファーに座りクッションを抱き締めながらお兄様の報告を待った。買って来た苗をちらりと見るも、先ほどの襲撃のことで頭がいっぱいで今は植える気にならない。
お兄様への報告はトーリからするから、私は待っていればいいと聞いている。ただ待つだけ……。私に出来ることは何もない事実に、溜息が漏れてしまう。
あんなことがあったからか、リコリスは私の側を離れようとしない。いつもなら木々を飛び回ってリス達と遊んでいるのに、まだ警戒しているのかしら。
尻尾を撫でながら癒されていると、急にリコリスの瞳の色が赤く染まっていった。
『メル。今、大丈夫かな?』
「はい、大丈夫です。お兄様」
『トーリから襲撃があったと聞いてね。馬車の中にいて見ずに済んだとはいえ、怖い思いをしただろう? 心配になってね……』
みんなが守ってくれるから大丈夫だと分かってはいた。でも、彼らに何かあったらと心配で馬車の中で緊張していたし、怖くなかったわけではない。
「……そうですね。護衛騎士達がいますし結界を張っていたので、馬車の中に入って来られないと分かってはいたのですが、緊張して体に力が入ってしまいましたわ……」
『側で慰めてあげることが出来ないのは、私も応えるな。ちゃんと調べて、二度と同じことがないようにするから、今は結界の中でゆっくり過ごすんだよ?』
「はい、分かりました。報告お待ちしておりますね。あっ、お兄様! 今日、私の影という人物に会いましたわ!」
お兄様ったら、私に影を付けていることを隠し続けるつもりだったのかしら。
『あぁ、レンか。本来、令嬢に影は必要ないが……念のため、メルに付けておいて良かったよ。レンが駆け付けて、すぐに片が付いたと聞いた』
「確かに、彼の声が聞こえてから、すぐに静かになりました。強い方なのですね」
『強くなければ影にはなれないよ。情報収集だけでなく戦闘も仕事のうちだからね。奇襲を仕掛けるのが得意だけど、正面から戦っても問題なく勝てる。そうでなければ、情報を持ち帰ることなど出来ないしね』
確かにそうね、強さがあってこその仕事よね。今回、レンが来なければ戦闘が長引いていたかもしれない。最初に影の存在を聞いた時は驚いたけれど、レンがいてくれて良かったと思った。
「私は知らないことばかりです。あの、レンはお兄様の影ではないのですよね?」
『元々は私の影だったのを、メル専属にしたんだよ』
「それでしたら、初めに私に紹介してほしかったですわ」
『んー……、メルに影を付けると言ったら、不要だと断られそうな気がしてね。だから黙って付けたんだ』
ただ森でスローライフをするだけなら、影が必要だとは思わない。でも、今日みたいなことがあった場合は心強い。普通に生活していれば、襲撃されることなどないとは思うけれど。
「否定は出来ないですね。彼は今、お兄様の指示に従っているのですか?」
『あぁ。メルを守ることに加えて、定期的に私に報告してもらっているよ』
「報告?」
『元気に過ごしているか、心配だからね』
お兄様の優しい言葉に胸が温かくなる。
「あっ、お兄様! 話は変わるのですが、今日モカさんのお兄様に会いました」
『トーリから聞いたよ。偶然通り掛かった青年に加勢してもらったと。こちらで謝礼は準備しておくから、メルは心配しなくていいよ』
「分かりました。でも、私からもささやかですが何かお渡ししておきますね」
『メルは優しいね』
そうしてお兄様との通信が終わり、私はルディさんへのお礼をどうするか考えた。男性へのプレゼントに何が適しているのか、よく分からない……
ルディさんはコーヒーショップで働いているから、お茶やお菓子を贈るのは微妙よね。日常的に使えるもので、あっても困らないもの……ハンカチに刺繍をして贈ろうかしら。これなら、汚れて捨てることもあるから何枚あっても困らないわよね。七枚ほど刺繍して贈ろう。ハンカチ程度であれば、恐縮されることもないだろうし。
安全のためしばらく家から出られないから、のんびり刺繍に勤しみましょう。ハンカチの生地は、爽やかな白がいいわね。ルディさんの髪色に合わせて亜麻色の糸を使って、アクセントに他の色も少し入れて仕上げてもいいかもしれないわ。
護衛達にも何かお礼がしたい。彼らは仕事をしただけと言うだろうけれど、それでもやっぱり感謝の気持ちを伝えるのは大事だ。そうだ、コーヒーセットを渡すのはどうだろう。でも、私は買いに行けないから、トーリに頼むことになってしまう。トーリにも渡すものを本人に買わせるのも気が引けるけど……仕方ない。
そういえば、レンは森に潜んでいると言っていたわね。声を掛ければ反応があったりするのかしら。
私は家の扉を開けて、声を掛ける。
「レン、いるのなら出てきてくれるかしら?」
それほど大きな声を出していないにもかかわらず、すぐに木の上からレンが飛び下りてきた。
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