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章が、夜の浜辺で笑っている。
いつも無表情の彼が笑うと、とても幼く見えた。かわいくて、その笑顔ごと、ショーケースに入れて大事にしまっておきたくなる。
いつまでも見ていたいのに、急にその笑みはぐにゃりと歪み、無表情に変わった。
そして、いつもより冷たい視線を直仁に向けた。
嫌われたくない。
とっさにそう思った。
近くに寄られるのが嫌なら寄らないようにする。
触られたくないなら、触らない。
だから、嫌いにならないで。
睨むように見ないでほしい――。
一歩下がると、章は、背を向け、立ち去っていく。
「ま、待って……」
手を伸ばしても届かない。
「行くな!」
伸ばした手が空を切った瞬間、パッと目が覚めた。
天井へ向けられている手が目に入る。
息が荒く、心拍も早い。
背中が汗でべたつく。
逆に手は冷たくて、乾燥していた。
起きると、胃がキリっと痛んだ。
無意識におなかに手をあててた。
胃の辺りは冷えていて、ひんやりとしていた。
時計を見ると、まだ朝の六時。
胃が痛むのもいつも通り。
だが、章がでてくる夢を見るのは久しぶりのことだった。
章との連絡が途絶えて一年ぐらいが経つ。
必死で忘れようとしていたこともあった。
手を伸ばしても届かないのならば、もう、忘れてしまいたかった。
ベッドから立ち上がり、壁際による。
そこに押しピンで貼り付けている章が笑っている唯一の写真を手でさわった。
剝がしてしまいたい衝動に駆られる時もある。
どうしてだよ。と、見ていると悲しくなる。
けれど、剥がしてしまうと、もう一生会えない気がして、どうしても剥がすことができなかった。
「うまくいかないもんだな……」
ぐしゃっと、髪をかきまわし、ひたいに落ちてくる髪の毛をかき上げた。
章と出会ったのは、大学一年生の今ごろ。風が冷たくなってきて、葉の色に深みが増してきた十月だった。
その日は昼食を軽く済ませ、大学図書館内の空いていた席で、講義に提出しなくちゃならない課題に頭を悩ませていた。
プログラムを組んで、実際に操作してみると不具合が出る。直仁は数字には強かったけれど、英語にはめっぽう弱かった。
数字はひと目見てわかるのに、英語の羅列を見ていると、どれも同じに見えてきて困った。
ずらっと並んだ英数字と記号。
目を凝らしてもどこが間違っているのわからない。
うなっていると、後ろから声がした。
「そこ」
「えっ?」
振り向くと、黒い帽子を目深にかぶった男の人が立っていた。
「やっ……。悪い。なんでもない」
肌は白くほっそりとした手がさっと引っ込められた。
立ち去ろうとする彼を「待って」と呼び止めた。
「さっき、そこって言ったよな。どこが間違ってるかって分かるなら教えてほしいんだけど」
慌てて、イスから立ち上がった。
文字に酔って、時間も迫っていたから胃がキリキリして吐きそうになっていたから、藁にもすがるような思いで、踏みよる。
誰か助けてほしい――と。
彼は、立ち止まって、直仁の横まで戻ってきた。
「……ここ」
と、指で差された箇所を見ても、直仁にはどこがどう間違っているのかわからず、首を傾げた。
「だから……ここ」
画面を食い入るように見ていると、彼の白い腕が伸びてきて、キーボードをたたく。
すぐ後ろに息遣いが聞こえる。
静かで、落ち着くようなリズムだった。
彼が打ち終わることには、キリキリと主張していた胃の痛みがいつの間にか消えていた。
すぐ隣の彼の視線は画面から動くことなく、手はキーボード上をよどみなく動いている。
直仁は、文字列が素早く変わっていく様子に、「すげぇ」と声が漏れた。
(こいつは誰だ?)
そこで初めて疑問がうかんだ。
じっと彼を見ていると、彼の口が動いた。
「終わった」
静かな口調で告げられ、
「……。あ、ありがとう」
呆けたような、声が出た。
「お礼! なにがいい?」
と、聞くと、お礼はいらないと言う。
そんな彼に、半ば強引に飲み物を買って渡した。
すると彼はペットボトルを不思議そうに見つめて、
「ありがと」とだけぼそっと言った。
彼の頭上は直仁の鼻のあたりまでしかない。
どんな表情をしているのか帽子で見えなかったが、受け取ってもらえて少しほっとした。
そこへ「川畑ー」と友人がやってきて、彼は去っていった。
友人にさっきの出来事を話すと、その彼が、学校で優秀で変人な藤森章だ教えてくれた。
そんなことを思い出しながら、ヤカンに水を入れ、コンロにかけた。
今日は、連休の初日だ。
お湯が沸くのを待つ間、まだ予定を決めていないこの休みをどうするか考えた。
ただ、休みといえど、たまに仕事の電話がかかってくる。そうなったら、行くしかなくなるだろうと考えると、また、胃がきりっと痛んだ。
お湯が沸き、白湯を飲む。
胃のあたりがほかほかとしてきて、少し落ち着いた。
軽く朝食を食べ、胃薬を白湯で流し込む。
ふと、読み散らかしてテーブルに置いていた雑誌が目に入った。
「そういえば、この映画、章が好きだったよな」
章はアクションものが好きだった。
彼が好んで観ていた映画の続編が公開していた。
「久しぶりに映画でも観るか」
独り言ち、テーブルの上を簡単に片付けた。
紺の長袖シャツに、ベージュのスラックスに着替えると外へと出かけた。
いそいそと映画館に着いてみれば、観たかった映画の放映期間が終わっていた。
ついていない。と、ため息が出る。
別のを観ようと思ってもそれほど観たくはなかった。
それよりも、章の話をしてから彼のことが気になって仕方がなかった。
映画館に着く間も、ずっと彼とのことを思い返していた。
どうして電話をしてもつながらなくて、メールをしても返ってこなくなったのかわからない。
急にだった。ずいぶん仲が良くなった、そう思っていたのは自分だけだったのかと落ち込んだ。
それまでは、大学在学期間も、卒業してからも、たまに彼の家に行き話をした。メールだって送ればなんらかの返信はあった。
どうして、返信がなくなったのだろう。
嫌いになった?会いたくなくなった?
でも、連絡が来なくなった当時は、章の口から、そんな否定的な言葉は聞きたくなかった。
会う勇気も、怖くて持てなかった。
きっと。彼のとって自分は、なくてもいいものになったのだ。
などと理由をつけて、章のことを忘れようとしてきた。
けれど、今、無性に会いたくてたまらなかった。
嫌いと言われれば傷つくし、事実に直面して平気でいられ自信もない。
それでも、ずっと忘れられないんだったら、会ってハッキリと章の意見を聞いてみたかった。
行ってみるだけ行ってみるか――。
映画が観れなかったから、時間はたっぷりとある。
ただ、章が今も、同じマンションにいるかどうかわからない。
まあ、居なかったら今度こそあきらめもつくというものだ。そう思って、電車に乗った。
いつも無表情の彼が笑うと、とても幼く見えた。かわいくて、その笑顔ごと、ショーケースに入れて大事にしまっておきたくなる。
いつまでも見ていたいのに、急にその笑みはぐにゃりと歪み、無表情に変わった。
そして、いつもより冷たい視線を直仁に向けた。
嫌われたくない。
とっさにそう思った。
近くに寄られるのが嫌なら寄らないようにする。
触られたくないなら、触らない。
だから、嫌いにならないで。
睨むように見ないでほしい――。
一歩下がると、章は、背を向け、立ち去っていく。
「ま、待って……」
手を伸ばしても届かない。
「行くな!」
伸ばした手が空を切った瞬間、パッと目が覚めた。
天井へ向けられている手が目に入る。
息が荒く、心拍も早い。
背中が汗でべたつく。
逆に手は冷たくて、乾燥していた。
起きると、胃がキリっと痛んだ。
無意識におなかに手をあててた。
胃の辺りは冷えていて、ひんやりとしていた。
時計を見ると、まだ朝の六時。
胃が痛むのもいつも通り。
だが、章がでてくる夢を見るのは久しぶりのことだった。
章との連絡が途絶えて一年ぐらいが経つ。
必死で忘れようとしていたこともあった。
手を伸ばしても届かないのならば、もう、忘れてしまいたかった。
ベッドから立ち上がり、壁際による。
そこに押しピンで貼り付けている章が笑っている唯一の写真を手でさわった。
剝がしてしまいたい衝動に駆られる時もある。
どうしてだよ。と、見ていると悲しくなる。
けれど、剥がしてしまうと、もう一生会えない気がして、どうしても剥がすことができなかった。
「うまくいかないもんだな……」
ぐしゃっと、髪をかきまわし、ひたいに落ちてくる髪の毛をかき上げた。
章と出会ったのは、大学一年生の今ごろ。風が冷たくなってきて、葉の色に深みが増してきた十月だった。
その日は昼食を軽く済ませ、大学図書館内の空いていた席で、講義に提出しなくちゃならない課題に頭を悩ませていた。
プログラムを組んで、実際に操作してみると不具合が出る。直仁は数字には強かったけれど、英語にはめっぽう弱かった。
数字はひと目見てわかるのに、英語の羅列を見ていると、どれも同じに見えてきて困った。
ずらっと並んだ英数字と記号。
目を凝らしてもどこが間違っているのわからない。
うなっていると、後ろから声がした。
「そこ」
「えっ?」
振り向くと、黒い帽子を目深にかぶった男の人が立っていた。
「やっ……。悪い。なんでもない」
肌は白くほっそりとした手がさっと引っ込められた。
立ち去ろうとする彼を「待って」と呼び止めた。
「さっき、そこって言ったよな。どこが間違ってるかって分かるなら教えてほしいんだけど」
慌てて、イスから立ち上がった。
文字に酔って、時間も迫っていたから胃がキリキリして吐きそうになっていたから、藁にもすがるような思いで、踏みよる。
誰か助けてほしい――と。
彼は、立ち止まって、直仁の横まで戻ってきた。
「……ここ」
と、指で差された箇所を見ても、直仁にはどこがどう間違っているのかわからず、首を傾げた。
「だから……ここ」
画面を食い入るように見ていると、彼の白い腕が伸びてきて、キーボードをたたく。
すぐ後ろに息遣いが聞こえる。
静かで、落ち着くようなリズムだった。
彼が打ち終わることには、キリキリと主張していた胃の痛みがいつの間にか消えていた。
すぐ隣の彼の視線は画面から動くことなく、手はキーボード上をよどみなく動いている。
直仁は、文字列が素早く変わっていく様子に、「すげぇ」と声が漏れた。
(こいつは誰だ?)
そこで初めて疑問がうかんだ。
じっと彼を見ていると、彼の口が動いた。
「終わった」
静かな口調で告げられ、
「……。あ、ありがとう」
呆けたような、声が出た。
「お礼! なにがいい?」
と、聞くと、お礼はいらないと言う。
そんな彼に、半ば強引に飲み物を買って渡した。
すると彼はペットボトルを不思議そうに見つめて、
「ありがと」とだけぼそっと言った。
彼の頭上は直仁の鼻のあたりまでしかない。
どんな表情をしているのか帽子で見えなかったが、受け取ってもらえて少しほっとした。
そこへ「川畑ー」と友人がやってきて、彼は去っていった。
友人にさっきの出来事を話すと、その彼が、学校で優秀で変人な藤森章だ教えてくれた。
そんなことを思い出しながら、ヤカンに水を入れ、コンロにかけた。
今日は、連休の初日だ。
お湯が沸くのを待つ間、まだ予定を決めていないこの休みをどうするか考えた。
ただ、休みといえど、たまに仕事の電話がかかってくる。そうなったら、行くしかなくなるだろうと考えると、また、胃がきりっと痛んだ。
お湯が沸き、白湯を飲む。
胃のあたりがほかほかとしてきて、少し落ち着いた。
軽く朝食を食べ、胃薬を白湯で流し込む。
ふと、読み散らかしてテーブルに置いていた雑誌が目に入った。
「そういえば、この映画、章が好きだったよな」
章はアクションものが好きだった。
彼が好んで観ていた映画の続編が公開していた。
「久しぶりに映画でも観るか」
独り言ち、テーブルの上を簡単に片付けた。
紺の長袖シャツに、ベージュのスラックスに着替えると外へと出かけた。
いそいそと映画館に着いてみれば、観たかった映画の放映期間が終わっていた。
ついていない。と、ため息が出る。
別のを観ようと思ってもそれほど観たくはなかった。
それよりも、章の話をしてから彼のことが気になって仕方がなかった。
映画館に着く間も、ずっと彼とのことを思い返していた。
どうして電話をしてもつながらなくて、メールをしても返ってこなくなったのかわからない。
急にだった。ずいぶん仲が良くなった、そう思っていたのは自分だけだったのかと落ち込んだ。
それまでは、大学在学期間も、卒業してからも、たまに彼の家に行き話をした。メールだって送ればなんらかの返信はあった。
どうして、返信がなくなったのだろう。
嫌いになった?会いたくなくなった?
でも、連絡が来なくなった当時は、章の口から、そんな否定的な言葉は聞きたくなかった。
会う勇気も、怖くて持てなかった。
きっと。彼のとって自分は、なくてもいいものになったのだ。
などと理由をつけて、章のことを忘れようとしてきた。
けれど、今、無性に会いたくてたまらなかった。
嫌いと言われれば傷つくし、事実に直面して平気でいられ自信もない。
それでも、ずっと忘れられないんだったら、会ってハッキリと章の意見を聞いてみたかった。
行ってみるだけ行ってみるか――。
映画が観れなかったから、時間はたっぷりとある。
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