嫌われオメガは死に戻った世界でベータに擬態する

灰鷹

文字の大きさ
表紙へ
3 / 41
1巻

1-3

しおりを挟む
 確かに、今回の映画は戦争もので、食べるものに困っていた時代だし、三間のように筋骨たくましすぎる男がいることに違和感を覚える人もいるかもしれない。

「年末から時間があるときには有酸素運動をしているが、今のところ効果がない」
「はぁ」
「食事を減らすべきなんだろうが、腹が減るとイライラするから、演技に影響が出ても困る」
「はぁ」

 三間が一方的に話を続け、僕は聞き役に徹する。
 会話の終着点が見えてこない。

「おからで痩せられるって言うんなら、それを試してみたい」
「はぁ」
「だから、俺に飯を作ってくれないか?」
「はぁ。……って、え? えええ?」

 思わず頓狂とんきょうな声を上げてしまい、慌てて口に手を当てた。
 きょろきょろと辺りを見回す。幸い近くには人がいなかった。

「飯を作ってくれるんなら、材料費とここの会費は俺が出す。俺の家はここから近いから、演技リハが終わったあと、ここでトレーニングしてうちに来ればいい。飯食ったら家まで車で送って行く」
「いや、でも。そういうわけには……」
「他にいい方法が思いつかないから、協力してくれると助かる。早い時間なら、飯食ったあと、台本ほん読みに付き合ってもいい。人助けと思って、お願いします」

 深々と頭を下げられ、僕は一層焦った。
 一歩踏み出し、距離を縮める。その上で、声のトーンを落とした。

「あ、あの、頭を上げてください!」

 トレーニングジムの会費を払ってくれる上に、トップ俳優が台本ほん読みに付き合ってくれるなんて、これほどありがたい話はない。相手が三間でさえなければ、喜んで話に飛びついていただろう。

「協力したい気持ちは山々ですが、僕が三間さんの家に出入りして変な噂でも流れたら、三間さんも困るでしょう?」
「変な噂? オメガならともかく、ベータの俳優仲間がアルファの家に出入りしたところで、仲のいい友人と思われるだけだろ?」

 さも何でもないことのように言われて、自分がベータに擬態していたことを思い出した。
 一度目の人生では、中島佑美と結婚目前とささやかれていた三間が、僕と食事後にラブホテルに行ったという記事が出て、彼は「二股男」と世間からバッシングを受けた。でも、それは僕がオメガだったからだ。同性のベータがアルファの家に出入りしたところで、仲を疑われるようなことはないのかもしれない。
 だからと言って、気が進まないことには変わりない。この男に近づきすぎては駄目だと、失った時間が警鐘を鳴らしている。
 断る理由を探しあぐねて返答できずにいると、三間が小さく嘆息した。

「どうしても嫌なら、断ってくれていい。先輩の特権で無理いしたいわけじゃない。料理なら家事代行を雇うという手もあるが、単に俺が、信用できない人間を家に入れたくないだけだ」
「僕も、三間さんと会うのは今日で二度目ですよ。そう簡単に信用しないほうがいいんじゃないですか?」

 現に、自分がベータだと嘘をついている。オメガがベータと偽ってアルファに近づく行為は、何か裏があると思われても仕方がない。医者には「抑制剤を飲みすぎると耐性ができる」と言われているし、もしかしたらそのせいでヒート事故が起こる可能性もないわけではない。
 親しくなれば面倒ごとに巻き込んでしまうかもしれないと、暗に警告したつもりだった。けれど、三間の眼差しは少しも揺らがなかった。

「お前が信用できる奴かどうかは、今はまだわからない。でも――信じたいと、思っている」

 たかが食事ごときで大袈裟おおげさな。そう思うのに、強い意志を感じさせる瞳から、目を逸らすことができなかった。
 三間に近づくのは怖い。でも、頼られることを嬉しいと思ってしまう自分もいる。少なくとも、「信じたい」という言葉に、何か裏があるとは思えない。
 僕も同じだからかもしれない。
 一度目の人生で、僕を殺したのが三間かどうかはわからない。でも、そうでなければいいと思っている。彼に近づきたくないと思う心の片隅で、彼を信じたいとも思っている。

「迷ってるんなら、すぐに返事しなくていいから。とりあえず、もう帰るんだったら送って行く。車取ってくるから、着替えて待ってろ」

 三間は喋りながら椅子から立ち上がった。
 思考を断ち切られ、現実に引き戻される。

「い、いや、大丈夫です。まだ電車動いてるし、一人で帰れます」

 慌てて引き留めたが、三間は構わず、更衣室へと歩いて行く。

「夜遅くに一人で帰して、ストーカーに襲われでもしたら寝覚めが悪い」

 そう言い残す後ろ姿を、僕は茫然ぼうぜんと見送った。


    ***


 臭い……自分が、オメガ臭い。
 頭がくらくらし、気持ちが悪いのに、気分は激しく高揚している。
 濃度の濃いアルコールを一気飲みしたらこんなふうになるのだろうかと、体を預けるようにして歩きながら、ぼんやりと思った。
 でも、先ほどの店で飲んだのは、グラスに三分の一ほどのワインだけだ。発情期ヒートと言われても、普段のそれとは違いすぎて、今、自分の体に起こっていることがなんなのか、自分でもよくわからなかった。
 匂いは、オメガの甘い香りだけじゃない。それに混じる、生々しいアルファの雄の香り。
 触れ合う肌の熱さや、ただ歩いているだけなのに荒く乱れる息遣いからも、彼の興奮が伝わってくる。
 発情しているのが自分だけでないことが、発情それを一層加速させる。
 僕の体を支えているのとは逆の手で、三間がドアを開ける。広々とした部屋には、海の底のような青いライトが揺らめいていた。
 室内をじっくり観察する暇はなく、入るなり唇を奪われる。
 ファーストキスの甘酸っぱさなんてものは微塵みじんもなかった。執拗しつように舌を絡められ、歯列や粘膜をねっとりと撫でられる。唇をまれ、舌を吸われるのも、すべてが快感に直結する。
 せわしなく体を這い回る手が、尻を揉み、背中を撫で上げ、尖った胸の先っぽをシャツ越しに指先で押し潰す。体中の至るところでともされた熱が、下へ下へと下りていき、部屋に入る前からきざし始めていたものを一気に硬くする。
 気持ちいいのに。もどかしい。
 もっと。もっと、深いところまで、触ってほしい。
 あれほど苦手だった相手を、なぜこれほど欲しいと思ってしまうのか。僕のことなんて眼中にもないはずなのに、なぜ、彼が僕に欲情するのか。
 不思議だった。
 三間だからか。それとも、他のアルファが相手でも、こんなふうになってしまうのか。
 押し倒すようにうつぶせにベッドに寝かされ、下着ごと、スラックスを引き下ろされる。
 キスだけで痛いほどにち上がった前が、ぷるんと勢いよく飛び出し、先走りを散らして揺れる。
 濡れた後ろが三間の眼前にさらされる。その光景を直視できるほどには理性を手離しておらず、僕は枕に顔をうずめた。

「なぜ、薬を飲まなかった?」

 尋ねると同時にいきなり指をれられる。
 急速に雄を受け入れる場所へと変わりつつあるそこは、指一本くらいでは痛みを感じない。不意打ちだったため、「ひゃっ」と変な声が出て背筋が跳ねた。「薬」というのは抑制剤のことだと、遅れて理解する。

発情期ヒートはもっと先のっ……予定でっ……、いつもこんな……ずれ……ないからっ……」

 後ろの違和感に耐えながら必死に喋る間も、無骨な指は、隘路あいろを広げるような動きで後孔を出入りしていた。

「狭いな。初めてか?」

 チッ、と舌打ちが聞こえた。
 言外に、面倒くさいと言われたように感じる。
 発情期ヒートをコントロールできていない自分が、百パーセント悪いことはわかっている。
 発情期ヒートになれば、自分の体すら制御できない存在。好きでもない相手にすら発情し、一夜の情けを乞わねばならない存在。
 オメガの自分がどうしようもなくみじめに思えて、涙が込み上げた。

「もう……れてもらって大丈夫です……。発情期ヒート中のオメガは……、アルファを受け入れるように……できているので……」
「痛いなら我慢せずにそう言え。初心者としたことがないから、勝手がわからないだけだ」

 声の震えで、泣いていることに気づかれたのか、三間の声がいくらか優しくなったように思う。中をねる指の動きも、多少緩慢になった。
 優しくされて、嬉しかった。
 同時に、優しくしないでほしい、とも思った。
 勘違いしたくない。荒々しく、痛いくらいがちょうどいい。
 たまたま居合わせたアルファのお情けで抱いてやってる、と思わせてくれたほうが……
 途中で指が追加されたのはわかった。今、自分の中に何本入っているのかはわからない。
 その動きも存在感も、まるで別の生き物のようで、人の指とは思えなかった。
 奥で関節を曲げた指先が、自分でするときはぎりぎり届かない内側の膨らみをこすり上げる。それだけで、達してしまいそうなほどに気持ちがいい。発情期ヒート特有の甘く香る分泌液が後孔から溢れ、指の動きに合わせて卑猥な音を立てる。
 イけそうなのにイけないのは、空いているほうの左手で性器の根元を締め付けられているせいだ。先に射精すると、後ろに受け入れるのが辛くなると聞くから、そのためか。
「イけそう」と「イけない」の間を快感が行ったり来たりし、ひっきりなしに嬌声きょうせいが漏れ、涙と唾液で枕を濡らす。

「み、まさ……。もうヤダ……、早くれて……」

 涙ながらに訴えると、一気に指が引き抜かれた。

「あぁあっ!」

 電流のような快感が背筋を走り、体がガクガクと痙攣けいれんする。でも、根元をせき止められているから射精はできない。極限まで張り詰めた性器が痛み、行き場のない重だるい快感が骨盤をしびれさせる。

「イかなかったのは偉い」

 根元を締め付けていた手を緩められ、ねぎらうように濡れそぼった性器を優しく撫でられる。
 崩れ落ちそうになっていた体を引っ張り上げられ、両肘で体を支え尻だけを突き出した、伸びをする猫みたいな体勢になった。
 腰を引くことは許されず、濡れた尻の狭間に熱く硬いものが押し付けられる。
 三間は僕の臀部でんぶを鷲掴みし、自慰をするように狭間に剛直をこすりつけるだけで、すぐには挿入しようとしなかった。
 アルファの雄――そう思っただけで、ひだが期待にひくつき、中の粘膜がうごめくのがわかる。

「なん、で……」

 れてくれないのか。
 たまらなくなって、枕に突っ伏していた顔を振り向かせた。

「欲しい?」

 目に欲情の色を宿しながらも、その口元は意地悪く笑っている。
 唇を引き結んだ情けない顔で、コクコクと頷いた。

「じゃあさ、下の名前で呼んで」
「晴……さん?」

 そう呼ぶのは、初めてではなかった。バラエティ番組や番宣でメディアの前に立つときは、仲の良さをアピールするためにそう呼んでいたから。
 三間は首を横に振った。

「呼び捨てがいい」

 薄い膜をまとった滑らかな先端を、すぼまりに当てられる。円を描くようにぬるぬると表面を撫でられるだけで、それ以上は入って来ない。
 呼び捨てで名前を呼ばないとれてくれないということか。

「は、る……。はや、く……」

 涙ながらに懇願すると、三間が満足気に口の端を上げた。
 先端をすぼまりにぐっと押しつけられ、縁をめいっぱい開かれる。指とは比べものにならない硬さと太さのものが、隘路あいろを満たし、僕の体の中で少しずつその存在を増していく。
 息ができなくて苦しい。息をするのも苦しい。
 でも、ひっきりなしに涙が溢れてくるのは、きっと苦しいからだけじゃない。
 その熱をずっと待ちびていたことを、オメガの体によって知らされる。
 何度となく繰り返してきた一人で発情期ヒートを過ごすむなしさが、今、初めて、「満たされる」というよろこびに変わる。
 一番太いところを呑み込んでからは、わずかに痛みがやわらいだ。ただ、異物感は半端ない。
 両側から腰を掴まれ、中の熱芯がゆっくりと動く。最後はズンと根元まで突き入れられ、ピストンで押し出されたように、鈴口から先走りの液が散った。
 両脇に手を入れられ、深く繋がったままの体を起こされる。二人とも膝立ちの体勢だ。
 後頭部の髪を軽く掴まれ顔を後ろに向かされて、キスをされた。最初のむさぼるようなキスと違って、優しかった。
 もしかしたら、今すぐ動きたいのを我慢してくれているのかもしれない。じゃれるような舌の動きに、そんなことを考える。
 両手が脇の下から胸の前へと伸びて来て、ささやかな胸の粒をいじられる。
 甘いうずきが下腹へと広がり、挿入の痛みで力をくしていた性器が硬さを取り戻していく。
 口接を解いた唇が、頬を辿り、耳たぶをみ、耳の後ろを吸って、首筋へと下りてくる。そこに巻かれたチョーカーに噛みつくように、皮膚に歯を立てられる。
 発情期ヒート中のオメガのうなじを噛みたくなるのは、アルファの本能なのだろう。相手が僕だからじゃない。そして、それを嬉しく思ってしまうのも、きっとオメガの本能だ。
 チョーカーと皮膚との隙間を舐められて。深く繋がったままの腰を揺すられる。
 結合をなじませるような動きに、嫌でも中のものを意識させられる。
 自分の中に、アルファがいる。僕の中に、三間が。
 フェロモンのせいだと頭ではわかっているのに、心が満たされる。彼のことがいとおしく思えてしまう。

「動くけど、いいか?」

 うなじにささやかれ、僕はコクコクと首肯した。
 奥の圧迫感がやわらぎ、浅いところにある官能のしこりを、小刻みな動きでこすられる。
 すぐにそれは、長大なものを抜き挿しする激しい突き上げへと変わった。
 摩擦の濡れた音と、皮膚と皮膚のぶつかる音。それに、悲鳴とも泣き声ともつかない僕の声が混じり合い、海の底のような青い空間に響く。
 気持ちよすぎて辛い。辛いのに、こすられ、突かれるたびに、も言われぬよろこびがとめどなく湧き上がってくる。
 自分が、性感を享受するだけの、別の生き物になったようだった。身をよじり肩甲骨を浮き上がらせ、快楽の荒波に翻弄ほんろうされる。
 絶頂まで押し上げられるのに、さして時間はかからなかった。

「みまさ……、っ……ぁ、あっ、……もう、イクっ……」
「晴、だ」

 尻に叩きつけるように激しく腰を送られ、切っ先が最奥を貫く衝撃で全身がガクガクと大きく震える。

「はるっ――!」

 ぐっと腰を押し付けたまま、三間が動きを止めた。
 たくましい腕が前に回され、僕の体をぎゅっと抱きこむ。
 腹に付きそうなほどに反り返った性器から、白濁が噴き出す。いざなうように、れた粘膜が彼を引き絞る。
 僕の中で、めいっぱいかさを増した雄が、ドクンと脈打つのがわかった。
 三間が、僕の中で――その予感に、自分が達する以上のよろこびを覚え、涙が溢れた。
 重ったるい熱液が大量に放たれるのを、薄い膜越しに感じた瞬間――

「――ゆうみ」

 切なげな声が耳をかすめた。


    ***


 あたたかい泥のような無の世界で、遠くから何か聞こえてくる。やがてそれは誰かの声になり、どこか懐かしさを覚えながら、重いまぶたをゆっくりと持ち上げた。
 ぼんやりとした視界に映ったのは、大きな窓の向こう、街灯の明かりに照らされた、見慣れた道路だった。
 次に感じたのは、匂い。香水だろうか、甘さを感じるオリエントな香りと、それにかすかに混ざる、いとおしさと痛みを呼び覚ます匂い。つい今しがた、その匂いに包まれていたように思えて、自分が夢を見ていたのだと、寝起きの鈍い思考で理解した。

「起きたか」

 呆れたような声を耳にし、首を傾けると、こちらを覗き込む顔があった。
 街灯の淡い光を帯びた顔は陰影が際立ち、表情が判然としない。けれど、それが誰かはすぐにわかった。一気に頭が覚醒し、見ていた夢の内容が内容なだけに、気まずさが込み上げてくる。
 トレーニングジムを出た後、三間に車で送ってもらった。その車内でいつのまにか寝てしまったようだ。
 今は僕の自宅アパートの前の小道に、エンジンを切った状態で停まっていた。

「警戒してんのか、気を許してんのか、よくわかんねー奴だな」
「……すみません。顔合わせとかいろいろあって、緊張していたので……。無事に終わって、気が緩んだんだと思います」

 一番の原因は、三間と再び顔を合わせることを考えて、昨夜はろくに眠れなかったせいだが。その相手と普通に会話ができたことで、気が緩んだのも確かだ。

「ナビの通りに来たけど、ここでいいんだよな? そこのアパートに住んでんのか?」
「あ、はい。こんなところまで送っていただいて、本当にすみません」
「事務所の寮とかじゃねーの?」
「うちの事務所は、オメガは専用の寮がありますけど、それ以外の寮は僕クラスだと入るのが難しいんです」

 会社の寮はどこも都内の中心地にありセキュリティも充実しているため、所属タレントは皆入りたがる。オメガ以外も入れる一般の寮だと、基本的に人気のあるタレントが優先される。
 高校を卒業した時点でほぼ無名だった僕は当然、寮に入ることはできず、子供の頃から住んでいる都営アパートにそのまま住み続けていた。ここに住むには一定の条件を満たす必要があるが、オメガであることと年収が低いことで、今のところ入居を許されている。

「ここ、大丈夫なのか?」
「と言いますと?」

 三間は一瞬、言葉に詰まったようだった。

「セキュリティ……とか……」

 一応鉄筋だが、黒ずんだ外壁が年季を感じさせる建物を見れば、言いたくなる気持ちもわかる。

「オートロックではないけど、お子さんのいる家庭も多いし、治安は問題ないと思いますよ」

 三間はまだ何か言いたげだった。その気配を察し、黙して返事を待つ。
 先ほどよりも長い沈黙が流れた。

「もし……、ここにオメガの人間が住んでいたとしたら……、発情期ヒートのときに匂いが漏れて、アルファやベータを引き寄せたりしないのか?」

 奥歯に物が挟まったような物言いだった。隙間だらけの家だと揶揄やゆしているわけではないことはわかる。
 表向きはベータの僕が、オメガのフェロモンに引き寄せられて犯罪まがいのことをしないか、案じているのだろうか。映画やドラマでは、たとえ脇役であっても、撮影中や公開後に役者が不祥事を起こせば、撮影や興行に多大な影響を及ぼすことになる。

「気になったことはないです。オメガのいる家は、隙間テープを張ったりして対策をしているんじゃないですか?」

 実際にうちではそうしている。今のところ、それで発情期ヒート中に不審者が訪ねてきたこともない。

「それで大丈夫ならいいが……。だが、この辺りはほとんど人通りがないし、夜遅くにここを歩くのはやめておいたほうがいい」

 三間は愛想はないが、基本的に面倒見がいいのだろう。こうしてわざわざ家まで送ってくれているし、一度目の人生でも、発情期ヒートに巻き込まれたにもかかわらず、朝まで一緒にいてくれた。
 そのことに気づいたから、僕も警戒を解いて、一歩踏み込んでみる気になったのかもしれない。
「気をつけます」と返し、体ごと運転席のほうに向き直った。

「三間さん。あの、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「三間さんの家でご飯を作る話ですけど……。あれは僕がベータだから頼もうと思ったんですよね? もし……、もしもの話ですけど……、僕がオメガだったとしたら、頼まなかったですよね?」

 心なしか、空気が張りつめたように感じられる。
 三間はすぐには返事をしなかった。質問の真意を探るように、じっと目を見つめられる。

「そうかもしれない」

 やがて、間延びした口調で答えると、前方へと顔を向けた。
 もし、この質問に三間が「そうだ」と答えたら、この話は断るつもりだった。
 本当のところは、僕はオメガだから。オメガなら夕飯作りを頼まなかったのだとしたら、ベータと偽って引き受けるわけにはいかない。
 けれど、断る隙は与えられず、無機質な横顔が淡々と話を続ける。

「ベータのほうが面倒事にはならないだろうからな。だが、ベータだから頼みたいと思ったわけでもない。オメガかベータかは関係なく、お前に頼りたいと思った」

「オメガなら頼まなかった」という答えとは矛盾しているように思える。三間が何を言いたいのか、僕にはわからなかった。

「賭けてみたんだ」
「賭け、ですか?」

 三間がおもむろにこちらを向く。

「オメガでもベータでも、どちらでもかまわない。助けてくれるなら、お前を頼りたい。そうでなければ、お前とはそういう巡り合わせだったと思って、これからは他の共演者と同じように付き合っていく」

 淡々と話す表情は、変わらず喜怒哀楽に乏しい。頼りたいと言いながら、冷たく突き放しているようでもあった。
 気持ちは、「応えたい」のほうへ傾きつつある。でも、三間の話に納得できない部分が、気持ちにブレーキをかける。
 僕の逡巡しゅんじゅんを見て取ったのか、三間はさとすように言葉を畳みかけた。

「引き受けるかどうかは、お前が俺を助けたいと思うかどうかで決めたらいい。お前にとってはきっと……、いいことは何もないだろうから。そのかわり、助けてくれるなら、俺もお前のために、できる限りのことはする」

 たかが料理の話で随分と大袈裟おおげさなと再び戸惑う一方で、その言葉に背中を押されたのも事実。
 助けたいと思うかどうかで考えたら、天秤の針は、ゆっくりとそちらに傾いていった。「怖い」以上に、「助けたい」。三間が本気で困っていて、僕に助けてほしいと思っているのなら、役に立ちたかった。
 彼の恋人と噂される国民的人気女優の顔が頭をよぎり、ベータとして関わるのなら、彼女への裏切りにはならないと、自分に言い訳する。
 時間を置いたら、決心が鈍る気がした。

「僕でよければ……、お手伝いします」

 僕の返事に、三間は一瞬、面食らった顔をした。すぐにそれは、普段通りの無表情ポーカーフェイスに戻る。

「そうしてくれると助かる」

 わずかに口元を和ませたが、笑っているのに目は笑っていない不穏な表情からは、やはり感情を読み取ることはできなかった。ただ、真っすぐに向けられた眼差しは、覚悟のようなものを秘めていて、僕を通り越し、別の何かを見ているようにも思える。
 三間に礼を言って車を降り、アパートの外階段を上った。
 二階にある2DKの部屋に入り、電気をつけると、荷物も置かずに部屋の奥へと向かう。き出し窓のカーテンの隙間から、路上に停まっていた車が発進するのが見えた。
 もしかしたら、僕の部屋の明かりがつくまで待っていたのだろうか。
 そう考えたら、三間という人間がますますわからなくなる。
 別れてみれば、ジムで彼と会ってからのやりとりが、まるで夢でも見ていたように感じられた。
 一度目の人生なら、三間はたとえ食事のことで困っていたとしても、僕を頼るという発想は浮かばなかったのではないだろうか。
 なぜこうなったのか、一度目と二度目の違いがどこから来るものかはわからない。
 三間のことを信じたい、役に立ちたいと思った気持ちにも、自信がなかった。
 それはオメガの本能とは完全に切り離せるものだろうか。
 早まったことをしてしまったという後悔が、じわじわと込み上げてくる。
 車がいなくなった道路を見下ろしたまま、いつまでもそこから動くことができなかった。
 ……佑美さん……、三間のこと、「晴」って呼んでたな。
 狐につままれたような現実感のない頭で、そんなことを思い出していた。



    第三章 クランクイン


 夏に公開予定の映画『空を見上げて』の顔合わせから二週間が経った。
 主役の二人が多忙なこともあり、この二週間は二人のスケジュールに合わせて変則的に演技リハーサルが行われていた。
 今回の映画は戦争ものだが、二人の切ない恋が話の主軸で、脇役の僕は出番のないシーンのほうが多い。二週間のうち、僕がリハーサルに参加したのは今日を含めて四日だけだ。それでも、バイトや他の仕事が入っていない日はなるべくリハを見学するようにしていて、二日に一度くらいの頻度でスタジオに通っていた。
 今回の映画は業界トップクラスの映画会社が制作するだけあり、主演の二人は人気実力ともに申し分なく、脇も経験豊富なベテラン俳優で固めてある。表情や立ち居振る舞い、の取り方など、リハーサルを見ているだけでも学ぶことは多い。
 今日は衣装合わせのため朝から撮影所に来ていたが、午前中はリハの出番はないため、衣装合わせを終えた後はスタジオの隅で見学していた。
 部屋の中心には、主演の二人がいる。
 三間が演じる陸軍飛行学校の教官、平田ひらた中尉と、佑美さん演じる食堂の娘、寿美子は、秘かに思いを寄せ合っている。今二人が演じているのは、戦況が厳しくなり、教官を辞めて特攻隊に志願することを決意した平田中尉が、寿美子に別れを告げるシーンだった。
 熱のこもった演技に、稽古とは思えない緊迫した空気が漂っていた。誰もが息を呑み、魅せられているのがわかる。

『どうか、末永くお元気で』

 去ろうとする中尉のシャツの袖を、寿美子が後ろからそっと引いた。

『どうしても特攻に行くって言うんなら……、せめて一晩だけ、傍にいてくださいませんか……』

 震える声が、彼女の勇気と覚悟を物語っている。
 中尉は寿美子に背を向けたまま肩を強張こわばらせ、何かをこらえるように表情をゆがめた。

『死にゆく者のことなどお忘れください。そのほうがお互いのためです』

 袖に絡みついた彼女の指を、優しくほどこうとする。

『どうか、私に……、あなたを送り出す勇気を……』

 くぐもった声は、嗚咽おえつのようにも聞こえた。
 僕の位置からは中尉の背後にいる寿美子はほとんど見えなかったが、彼の背中に額を押し付けて、子供がいやいやをするように小さく首を振る彼女の姿が目に浮かぶようだった。
 中尉は眉根を寄せ、沈鬱ちんうつな面持ちで押し黙っていた。やがて、意を決した表情で振り返り――
 ぽんぽんと肩を叩かれ、顔を横に向ける。
 いつからそこにいたのか、稲垣が立っていた。

「食堂、行かないの?」

 言われて、いつのまにかリハーサルが終わっていたことに気がついた。スタジオ内は人がまばらで、主役の二人と制作陣だけが残り、直前の演技についてディスカッションしている。そういえば、「昼休憩にしましょう」という助監督の声を聞いたような気もする。

「あ、はい、行きます」

 ぼんやりしていた理由を聞かれなくてよかったと思いつつ、稲垣と連れ立ってスタジオを出た。
 他の役者やスタッフは既に食堂に行ったようで、廊下を歩いているのは僕たちだけだった。

「それにしても、さっきのリハ、すごかったよな」

 並んで歩きながら、稲垣が興奮冷めやらぬ様子で話し始める。続く言葉を予想し、僕はひそかに身構えた。

「周りの人間はシャットアウトされてる感じでさ。完全に二人の世界だったよな」

 稲垣は一度背後を振り返り、周囲に誰もいないことを確認すると、身をかがめて僕の肩に顔を寄せてきた。

「あれってさ。二人の演技がうまいからそう見えるんかな? それとも、実際に付き合ってるから、自然とそういう雰囲気になるの?」

 おそらく、あの場にいた全員が、似たようなことを感じていただろう。相愛の二人のやりとりに、誰もが目を奪われていた。

「それは……、『どっちも』なんじゃないですか?」

 なるべく客観的に聞こえるように、平坦な声で答えた。
 リハスタジオがあるのは四階で食堂は二階だ。エレベーターホールには向かわず、どちらからともなくその手前の階段へと折れる。階段にも他に人はいなかった。

「ってことは、やっぱりあの二人、付き合ってるの?」

 下り始めると同時に尋ねられ、僕は、「え?」と驚いた顔を向けた。

「何で僕に聞くんですか?」

 僕だって、週刊誌の記事以上のことは知らない。事務所の後輩である稲垣のほうが、三間のプライベートについてよほど詳しいだろうに。

「俺もずっと気になってるけど、実際のところは知らないんだよ。佑美さんのことになると、晴さん、わかりやすく『何も聞くな』オーラ出してくるから、面と向かっては聞いたことなくて。最近は俺より夏希のほうが晴さんと仲がいいから、何か知ってるかなと思ったんだけど……」

 喉をぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われる。

「……何をもって、僕と三間さんが仲がいいと思ったんですか?」
「この前、稽古が終わったあと兵隊組で飲みに行くことになったとき、夏希はジムに行くからって来なかっただろ? 飲み会終わって駅に向かってたら、夏希と晴さんが一緒に歩いているのを見かけたんだよね」

『兵隊組』というのは、兵隊役の役者たちをひっくるめた総称だ。
 やましいことは何もないはずなのに、「まずいところを見られた」と思ったのは、自分の中に、人に知られてはまずい感情があるからだろうか。

「見かけたんなら、声かけてくださいよ!」

 弾んだ声で笑い、動揺を誤魔化した。口角を意識的に上げたまま、視線を足元の階段へと逸らす。

「駅前にトレーニングジムがあるじゃないですか。僕、あまりに貧相な体なので、ロケまでにもう少し筋肉をつけたくて、あそこの会員になったんです。たまたま三間さんも会員だったので、たまに鉢合わせしたときは、わざわざ車で家まで送ってくださるんです」

 嘘はついていないけど。言葉が上滑りしている気がする。それを自覚したら、余計に稲垣の顔を見られなくなった。
 一拍置いて、「顔に似合わずいい人ですよね」と付け足し、ははは、と乾いた笑い声を上げる。
 あの日は、三間のマンションで先に夕食を食べてから、揃ってジムに行った。飲み会の帰りということは、時間的にはジムから帰っているところを見られたのだろう。
 特に口止めされていたわけではないが、なんとなく、人に知られないほうがいい気がして、事実は伏せておいた。
 三間に夕食を作ってほしいと頼まれた翌日から、撮影所に顔を出した日はほぼ毎回、彼のマンションに寄って粗餐そさんを提供している。他の仕事をセーブしているのか、稽古が始まってからは、三間の帰りがそれほど遅くなることもなかった。

「車で送ってもらったってことは、晴さんのマンションに行ったってこと? 確かこの近くだよね?」

 一瞬迷って、「駐車場までなら」と、今度ははっきりと嘘をついた。

「いいなー。俺もジムの会員になったら、晴さんちに遊びに行けるかな?」

 ちらりと横目で見ると、稲垣の顔は心底羨ましそうだった。

「諒真さんは事務所の後輩だから、頼んだら普通に家に遊びに行けるんじゃないですか?」

「んー」と稲垣がうなる。

「これまでも、晴さんの家に行きたいですって何度か言ったことはあるけど、『散らかってるから』とかなんとか理由つけて、遠回しに断られてるんだよね。晴さんちに行ったことがある人って俺が知ってる限りいないから、余計に私生活が気になってさー」

 確かに何を考えているかよくわからない人なので、私生活が気になるという気持ちはわからないでもない。でも、家を見たところで、彼のことはわからないと思う。

しおりを挟む
表紙へ
感想 137

あなたにおすすめの小説

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する

子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき 「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。 そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。 背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。 結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。 「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」 誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。 叶わない恋だってわかってる。 それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。 君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

側妃は捨てられましたので

なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」 現王、ランドルフが呟いた言葉。 周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。 ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。 別の女性を正妃として迎え入れた。 裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。 あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。 だが、彼を止める事は誰にも出来ず。 廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。 王妃として教育を受けて、側妃にされ 廃妃となった彼女。 その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。 実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。 それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。 屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。 ただコソコソと身を隠すつもりはない。 私を軽んじて。 捨てた彼らに自身の価値を示すため。 捨てられたのは、どちらか……。 後悔するのはどちらかを示すために。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。