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1巻
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その後もしばらくは、本当に時間が巻き戻ったのか、あるいはリアルな夢を見ていただけなのか、自分でも確証が持てずにいた。見聞きすることの多くが既に記憶の中にあり、まるで自分が予知能力者にでもなったかのような既視感を繰り返すうちに、「時間が巻き戻った」というありえない結論に達した。
たとえば、オリンピックで誰が金メダルを取るかとか、放送中のドラマの結末だとか。そうした世の中の出来事は、記憶の中と寸分違わずに繰り返される。
けれど、自分自身に関することは、一度目と二度目では大きく違っていた。
今回は事務所と契約する際に、ベータだと嘘をついたからだ。
俳優の仕事にはやりがいを感じていたので、一度目の人生と同様に、スカウトされた翌日に事務所に出向き、タレントとして仮登録してもらい、高校卒業を機に正式に契約を交わした。本来なら、契約にあたって第二性別を聞いてはいけないことになっているが、それは就職試験の面接と同じく、あってないようなものらしい。「タレントの体調管理やスケジュールを調整する上で、どうしても必要な情報なので」と前置きして尋ねられ、今回はベータだと答えた。
僕はもともと、話に聞く他のオメガほどには発情期が酷くないため、強めの抑制剤を使えば、フェロモンを誤魔化せる自信があった。一度目の人生でも、どうしても仕事を休めないときは強めの抑制剤を使い、香水で香りを誤魔化し、仕事をすることもあった。抑制剤を使うと眠気が酷くて格段に集中力は落ちる。できれば休みのほうがいいが、そこまでのハードスケジュールでなければ、どうにかやれないこともない。
第二性別を偽った一番の理由は、おそらく自分がオメガでなければ、殺されることもなかったからだ。それに、オメガであることを前面に押し出したタレントとしてのキャラ作りも、一度目の人生で後悔していることの一つだった。
他人から意にそぐわないことを言われても反論できない性格で、正直にオメガだと申告すれば、前回の二の舞になることは予想できた。生き直すのなら、今度は無理してキャラを作らず、タレントとしても素の自分でいたかった。そのためにベータと偽らなければいけないのは、皮肉な話だけれども。その分、挨拶や礼儀は一度目以上に心がけるようにした。
おかげで一度目のときのように、メディア向けのキャラを押し付けられることはなかった。その反面、事務所からの期待が薄いのは、仕方のないことだろう。
一度目はあんなに目をかけてくれていた月城専務も、今回は面接で顔を合わせて以降、一度もレッスンを見に来てくれたことがない。専務は初めて僕に優しくしてくれたアルファで、密かに憧れの気持ちを抱いていたから、それだけが残念でもあった。
当然、一度目のときのようにバラエティの仕事は入って来ないし、俳優としても完全に無名。一年目はコンビニのバイトを続けながら、たまにモデルやミュージックビデオなどの仕事を回してもらい、あとはレッスンとオーディションを受けまくる日々だった。
基本的に一度目のときと同じオーディションを受けていたので、監督や演出家の求めるものはなんとなくわかる。おかげで毎回、何かしらの役はもらうことができ、端役から脇役へと徐々に出演時間も増えていった。
大きな誤算だったのは、三間晴仁との共演を回避するために選んだ次の仕事で、なぜか彼と相見えることになってしまったことだ。
NG大賞の収録後、大晦日までは何かと忙しくしていて、おかげで余計なことを考えずにすんだ。年が明けてからは、伯父の家に形ばかりの年始の挨拶に行き、その帰りに近所の神社で初詣を済ませ、あとはずっと、家にこもって台詞を覚えていた。
そうして、楽しみ半分、不安半分な気持ちで、今年の仕事始めである一月五日を迎えた。その日は、午後から今夏公開予定の戦争映画『空を見上げて』の顔合わせと台本読みが予定されており、午前中に事務所の演技レッスンに参加したのち、都内の映画制作会社のスタジオに向かった。
一度目の人生と違い、今回はマネージャーが毎回仕事場まで送り迎えしてくれるわけではない。担当の白木さんは僕の専属ではなく、他にも何人か担当しているため、初めての現場でもないかぎり、基本、公共交通機関を使って一人で現場に向かう。白木さんからは、たまに次の仕事の相談や様子伺いの電話が来るくらいだ。
初日の今日は、白木さんも顔を出してくれた。彼が事前にマネージャー同士で話を通してくれていたおかげで、ミーティングが始まる前に、主演である中島佑美に挨拶することができた。
彼女は、深窓の令嬢のように美しく儚げな見た目に反して、さっぱりとした性格の気さくな人だった。初対面のときの僕の失礼すぎる挨拶も、特に気にしている様子はなく、「私のことは下の名前で呼んでね」とまで言ってくれた。
その後、監督やらプロデューサーやら、廊下で関係者を見かけるたびに挨拶していたせいで、三間に挨拶する時間はなくなってしまった。頼みの白木さんも、他の仕事があるらしく、「三間さんにもこの前のことを謝罪するんだよ」と言い残し帰って行った。
三間への挨拶を諦め、開始予定の五分前に会議室へと向かった。広々としたスペースには、長方形を形作るように長机が並べられていた。
参加予定のスタッフや役者が全員席についたところで、プロデューサーから順に一人ずつ立ち上がり、挨拶と簡単な自己紹介の言葉を述べていく。その辺りの流れはドラマの撮影と変わらない。全員が喋り終えると、台本読みが始まった。
佑美さんとその相手役である三間は、長方形の角を挟んで、プロデューサーや監督の隣のテーブルに座っていた。
彼らと向かい合う並びの末席にいる僕からは、少し顔を傾ければ二人の様子が見える。台本に集中しようとしても、無意識に視線が彼らに吸い寄せられてしまう。それはおそらく僕だけではなく、この場にいる誰もが、少なからず二人に気を取られているようだった。
今回の映画は、一昔前にあった大戦の時代を舞台にしたもので、僕も三間も兵士を演じる。役作りのためか、彼の艶やかな黒髪は短く刈り込まれていて、シャープな顔立ちにさらに凄味が加わっていた。
黒髪を肩で切り揃えた佑美さんと並んで台本を読んでいると、二人の周りだけ、まるで時代が巻き戻されたような、凛とした空気を感じる。
三間は僕より六つ上の二十六才。佑美さんはそれより二つ上で、もともと二人は同じ事務所の先輩後輩だった。
二人の初共演は今から三年前。当時、佑美さんは既に人気女優として活躍していたが、三間はまだ無名の新人だった。新人の三間が恋愛ドラマで彼女の相手役に抜擢されたのは、彼女の推薦があったからだと、以前ネットニュースで読んだことがある。
それは佑美さんの自宅マンションでの二人の密会をスクープした記事で、彼女が後輩の三間を気に入って目をかけているうちに、男女の仲に発展したのでは──との憶測も添えられていた。
ドラマのヒットもあり、二人の交際を好意的に受け止め、応援するファンのほうが多かったらしい。「みまゆう」というカップル名までつけられていた。
その後、ファンの期待に反して、二人は続編や別のドラマで共演することはなかった。それがかえって、「本当に付き合っているから共演NGなのでは」と噂の信憑性を高めることとなった。
二人が共演NGなら、佑美さんが出演する作品を選べば、三間と鉢合わせすることはない。僕がこの映画のオーディションを受けた一番の理由がそれだった。
前半はそんな余計なことまで思い出して気もそぞろだったが、台本読みが進むにつれ、僕の出番も増えていく。主役の二人を気にする余裕もなくなった。
『あの鬼教官、怒鳴り声だけは超弩級だな』
『それがな、食堂の寿美子さんの前やと、ぼそぼそ豆戦車みたいに喋るさかい、毎度、〝えっ?〟って聞き返されとるんやで』
僕と別の兵士役が台詞を続けたところで、監督がストップをかけた。
「ちょっとその言い方だと、二人ともチャラいなぁ。金田はもう少し愚痴っぽく、井上はひょうきんに」
駄目出しを受けて何度か同じ台詞を繰り返したが、監督の求める水準には届かなかったようだ。
「しょうがない。じゃあ、三間君、お手本見せてあげて。陰口、愚痴、親しみを込めた軽口の三パターンでお願い。君たちはよく聞いて、次までに演じ分けられるようにしておいてね」
監督の要望に従い、三間が二人分の台詞を、声色やトーン、抑揚を変えて三通りに演じる。一度目の人生でも思ったが、普段は抑揚のない不機嫌そうな声が、演技となると爽やかにも優しげにも聞こえるのが不思議だった。
三間の台詞回しを聞くと、確かに自分たちの演技には何かが足りないのがわかる。
今は考える時間がないため、台本とは別に広げていた役者ノートに、それぞれのパターンの特徴を、「ぶっきらぼう」「弾んだ」といった抽象的な言葉や抑揚を表す矢印などで書き込んだ。
注意点をすべて台本に書き込む役者も多いが、僕の場合、それだとすぐにスペースがなくなってしまうため、必ず現場に台本と別にノートを持参している。
その後も、監督の意にそぐわない部分を、「ここはこういう感情で」と解説されることはあったが、三間に手本を求めたのはその一回だけだった。
午後二時に集合し、時おり休憩を挟みながら台本読みが進み、終了したのは夜の八時を回った頃だった。そこから近くの居酒屋に場所を移し、親睦会と称した飲み会が始まった。
通されたのは座敷席で、決まった席次はなく、皆、適当に席を移っては料理をつつき、グラスを片手に談笑するような、気楽な飲み会だった。佑美さんは翌日が早朝から仕事らしく、参加していない。会議室にいる間は三間に声をかけるタイミングがなかったため、今度こそはと意気込んでいたが、彼の周りは僕より一回り以上年上のベテラン俳優陣で固められており、そこに割って入る勇気はなかった。
映画初出演の僕には知り合いの役者やスタッフもおらず、挨拶以外で初対面の人に話しかけるような積極性は、二度目の人生でも持ち合わせていない。
隅のほうで一人、ちびちび烏龍茶を飲んでいたら、頭上から声をかけられた。
「隣、いい?」
シトラス系の爽やかな香りが、ふと鼻をかすめる。
グラスと皿を手に、空いていた隣の席に腰を下ろしたのは、同じ兵士役を演じる稲垣諒真だった。
三間と同じアプローズプロモーションに所属する俳優で、年は僕より四つ上の二十四才。オーディションのときに顔を合わせているため、会うのは今日で二度目だ。
「柿谷夏希です。よろしくお願いします」
正座をし、畏まって挨拶すると、横に広い唇が口角を上げ、ニッと愛嬌のある笑みを浮かべた。
「同期なんだからそんなに畏まらなくていいよ。夏希って呼んでいいかな? 俺のことも諒真って呼んで。話すのもタメ語でいいから」
「いやでも、そういうわけには……」
お互いに俳優としては二年目だから同期と言えば同期だが、向こうは大卒でこちらは高卒。
彼もまた背が高く、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしていて、見るからにアルファだ。でも、黒目勝ちな大きな二重の目が犬っぽくて可愛げがあり、三間ほどにはアルファ特有の威圧感を覚えない。
「今日、すごいいっぱいメモ取ってたよね。台本と別にノートまで用意して。やっぱり別にノートあったほうがいいね。俺も見習おうと思った」
「それは僕がすぐに忘れちゃうからで……、気づいたことや言われたことをその場で吸収できればいいんですけど」
会話の合間にちらりと彼のグラスを見ると、すっかり空になっていた。僕は慌てて近くにあった瓶ビールを取り、稲垣のグラスへと傾けた。
稲垣は男らしい喉仏を上下に震わせてビールを呷り、一気に半分ほどに減らしてグラスをテーブルに置いた。
「晴さんのところに行きたいんでしょ? 声かけてあげようか?」
烏龍茶に口をつけようとしていた僕は、グラスを唇の前で止める。
「え……?」
「夏希、さっきからチラチラ晴さんのほうを見てたから、挨拶に行きたいのかと思って」
晴さんとは三間のことだ。まさか三間を意識していたことを人に気づかれていたとは。
「あ、いや、その……。先月一度ご挨拶したのですが、時間がなくてただ名乗っただけになってしまったので。もう一度ちゃんとご挨拶しないといけないと思っていたんです……」
図星を突かれ、あたふたと弁解する。顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
稲垣がぷっと噴きだし、大きな目を人懐っこく細めた。
「別に告白に行くわけでもないんだから、そんなに焦んなくても……。夏希って可愛いよね。オメガみたい」
更にドキっとしたが、顔に出ないよう、表情筋に力を込めた。
「稲垣さん……諒真さんみたいに男らしくないから、たまに言われます。でも、もしオメガだったら、今回の映画はオーディションも受けさせてもらえませんでしたよ。うちの事務所は、オメガは海外ロケも半裸もNGなので」
基本的にオメガはよほど売れっ子でもない限り、長期のロケも許可してもらえない。男であっても、上半身を露出させる撮影はNGだ。今回の映画ではマレーシアでのロケや上半身裸のシーンもある。
「気を悪くしたならごめん。でも、君が金田二等兵に選ばれたのもわかるよ。台本読みを聞いたら、見た目の繊細さとは少し違ってた。芯が通ってるっつーか……。金田の持つ人としての強さは、十分に感じられたよ」
「あ……、ありがとうございます……」
さりげなく視線を逸らし、間を持たせるためにグラスに口をつけた。
オーディションで僕が勝ち取った役は、一度目の人生では稲垣が演じていた。
今回の映画は、特別攻撃隊――いわゆる特攻隊の兵士たちが訓練を受ける飛行学校が舞台となっている。
金田二等兵は三間が演じる陸軍中尉から教えを受け、最初はその厳しい指導に辟易するものの、厳しさが自分たちのためであることを理解し、次第に中尉に心酔していく若き兵士だ。物語の終盤では中尉も特攻に志願し、教え子たちとともに南方の海に散る。金田はその中で中尉に助けられる形で唯一生き残り、彼の最期を見届け、恋人への遺言を託される。
兵士役の中では三間に続いて見せ場のある役どころなので、オーディションに参加した全員が、この役を一番に狙っていたはずだ。まさか自分に金田役が来るとは思いもしなかったから、白木さんから結果を聞かされたときは、めちゃくちゃ嬉しかった。
ただ、この役を稲垣が演じていた世界を知っているだけに、彼に対しては申し訳ない気持ちがある。
「諒真さんと三間さんだと、アルファ同士で雰囲気が重なるので……、それで、僕が選ばれたんじゃないかと思います」
謙遜ではなく、本気でそう思っていた。僕が選ばれたのは、演技力の差ではないだろうと。
一度目の人生では中尉も三間ではなく、別の俳優だった。日本人としては平均的な体格の、理知的で温厚そうな、おそらくベータの俳優だ。今回は主役がアルファだから、脇役が表向きはベータの僕になった。それだけの違いだろう。
「確かに、俺と晴さんのツーショットだと、画面が暑苦しいよね」
稲垣が冗談めかした口調で言い、僕も安堵の笑みを零した。
お互いに駆け出しの役者で、苦労話や失敗談は尽きるほどある。三間のところには相変わらず入れ替わり立ち替わり人が集まっているので、挨拶に行くタイミングを掴めないまま飲み会はお開きとなった。
三間に挨拶できたのは、店を出たあとだった。三々五々に帰っていく監督やベテラン俳優陣を見送っていたら、最後のほうになってようやく彼が現れた。
「晴さん、夏希が晴さんに挨拶したいそうなんで、今いいですか?」
隣にいた稲垣が、僕より先に呼び止めてくれた。
三間は僕たちの前で足を止め、ともに出てきたADを見送ると、こちらに向き直った。その瞬間、空気がひやりと冷えた気がした。彼の顔からそれまでの愛想笑いは消えていて、周囲のビルから届くネオンの灯りが、感情の読めない整った顔を一層酷薄に見せる。
一度目の人生では、嫌われる要素はこちらにもあったと思う。でも、今回はほぼ初対面なのに、明らかに警戒されている雰囲気に戸惑いを覚えた。
思い当たる理由は、先月の中途半端な挨拶くらいだ。『まともに挨拶もできない、失礼な若手』というレッテルを貼られたのかも。自業自得なので、気持ちを切り替えてここから挽回するしかない。
「先月は本番前に楽屋に押し掛けてしまって、失礼しました。月城プロダクションの柿谷夏希です。三間さんと共演できるのを楽しみにしていました。未熟者ですが、よろしくお願いします」
先月から用意していた台詞は、緊張のせいで、役者とは思えないほど棒読みになってしまった。何度も練習したおかげで滑舌だけはよく、淀みなく喋り切って、最後にペコリと頭を下げる。
しばらく待っても返事はなく、恐る恐る顔を上げた。
僕を見下ろす顔は、物言いたげな、それでいて言葉が見つからないような、小難しい表情をしていた。
三間が出演していた秋ドラマの話でもして機嫌を取るべきか。あるいは、「次の稽古もよろしくお願いします!」と笑顔を向けて、早々に退散すべきか。二つの選択肢の間で揺れ、二の句を継げずにいると、三間の唇の端がわずかに歪んだ。
口元は笑っているのに目は笑っていない。どこか薄ら寒い笑みに思えた。
続いて、右手がこちらへ伸びてくる。
「三間晴仁だ。よろしく」
思わずぽかんと口を開けて、その手をまじまじと見つめてしまった。一度目の人生では、クランクインのときもアップのときも、三間に握手を求められたことなんてなかったから。
稲垣から「夏希」と囁かれ、腕を肘で小突かれて、我に返る。慌ててズボンに手をこすりつけ、恐る恐るその手を握った。
同じ男同士なのに、僕の手よりも一回り大きい。それに節ばっていて、少しあたたかい。そういえば、握手したことはなくても、手を重ねたことはあったと、ふと思い出した。
繋がった手に、キュッと力を込められる。
シーツを握りしめる手に掌を重ねられた瞬間の、もしかしたら、今だけは少しは僕のことを愛おしく思ってくれているのだろうかと勘違いしそうになった記憶が胸をかすめ、自分からそっと手を離した。
「夏希と話し足りないから、今から二人で二次会しようかと思ってたんすよ。よかったら、晴さんも一緒に行きません?」
稲垣の調子のよい声が張りつめた空気を和らげる。
助かった反面、僕にとってはありがた迷惑な提案だった。虚を衝かれたように稲垣を見た三間も、すぐには返事をできないでいる。事務所の後輩の稲垣だけならともかく、ほぼ初対面の新人との飲み直しに気が進まないのは当然だろう。一度目の人生でも、三間が誘いに乗ったのはあの一度きりだ。
「ぼ、僕は終電に間に合わなくなるといけないから、お先に失礼します。お二人はごゆっくりどうぞ。では、お時間をいただき、ありがとうございました」
深く頭を下げ、踵を返す。結局は初対面のときと同様、逃げるように駆けだした。
「あ、夏希! 駅まで一緒に……」
追いかけてきた稲垣の声は、聞こえなかったふりをした。
飲み会に参加していたスタッフを追い越し、向かいからふざけ合って歩いてくる若者たちを、歩調を落として避ける。
何も考えたくなかった。自分の感情にすら気づきたくなくて、夜の街を、ただひたすらに前へと足を動かし続けた。
店から駅まで歩けば十分ほどかかる距離だが、その半分ほどの時間で着いた。
顔を上げると、駅の手前にあるビルが目に入る。二階の全面ガラス張りの向こうには、煌々と照明が灯っていた。ミラーガラスなのか中の様子は窺えなかったが、窓には「グランフィットネス」という文字が浮かんでいる。その下の「深夜三時まで営業」という謳い文句に惹かれて、足を止めた。
今回の映画では、上半身裸のシーンがある。
仮にも俳優の端くれとして、痩せた薄っぺらい体をカメラの前で披露することには抵抗があった。かと言ってもともと筋肉がつきにくいため、家で少しばかり筋トレを頑張ったところで、それなりに見栄えのする体になるとは思えない。
ここなら撮影所から近く、稽古の帰りに寄って軽く汗を流すこともできる。
二次会を断るために「終電に間に合わなくなる」と言い訳したが、時間はまだ十時を過ぎたばかりだった。ちょうど午前中のレッスンで使ったウェアやシューズも持ち合わせているし、可能なら見学だけでもしてみたい。迷った末に、思い切って足を踏み入れた。
自動ドアが音もなく開き、明るく開放的なロビーが目の前に広がる。小洒落たソファやテーブルがゆったりと並んだスペースの奥に、大理石調の幅広のカウンターが構えていた。さりげなく観葉植物が置かれ、揃いの制服を着た三人の女性スタッフが控えている。まるで一流ホテルのような雰囲気に、下調べなしで入ったことを後悔した。
駅の周りにはタワーマンションもあるし、富裕層向けのジムなのかもしれない。しかし、スタッフの一人と目が合い、「いらっしゃいませ」と笑顔を向けられれば、今更引き返すわけにもいかない。勧められるままに彼女の前へ腰を下ろした。
「入会をお考えですか?」
「えっと……、ちょっと興味があって寄ってみた感じで……」
パンフレットを差し出され、『新年キャンペーン』『入会金無料』の文字に最初に目が行く。一般会員の月会費も予想外に良心的な金額で、撮影が始まるまでの一カ月だけなら払えない額ではなかった。プレミアム会員だと、専用のトレーニングルームや個人ロッカーが使えるらしいが、バイトに頼る身では手が出ない。食費を削って逆に痩せることになりそうだ。「まずは体験してみてはどうですか?」と勧められ、見学を兼ねて体験入会してみることにした。
更衣室でジャージに着替えて二階のフロアに行くと、若い男性トレーナーが爽やかな笑顔で待ち構えていた。ポロシャツ越しでもわかる、鍛え上げられた胸筋がなんとも羨ましい。
筋肉をつけたい場所に応じたトレーニングマシンを紹介してもらい、合間に、お勧めのプロテインやタンパク質の多い食べ物、調理の仕方なども教えてもらった。
「これ、最近女性に人気ですよ。ヒップアップに効果的です」
一通り見学した後に連れて行かれたマシンは、今回の撮影には必要なさそうだったが、促されるまま台に上がる。
「足を後ろに蹴る動きでお尻の筋肉を使います」
トレーナーが背後から両手で僕の腰に触れ、角度を調整した。
「お尻を意識して、ゆっくり蹴り出してください」
彼のたくましい胸板が腕に触れる距離感に居心地の悪さを覚えながらも、足を上げようとした、そのとき。
「終電に間に合わなくなるんじゃなかったのか?」
トレーナーとは逆の左手から、聞き覚えのある声がした。
「え? み、三間さん!?」
立っていたのは、トレーニングウェアを着た三間だった。
「三間さんのお知り合いですか?」
トレーナーがパッと手を離し、僕から距離を取る。三間とは顔見知りのようだ。
「役者の後輩。さっきまで一緒で、飲みに誘ったけどフラれちゃって」
三間は自嘲めいた笑みを浮かべるが、僕に握手を求めたときと同じで、じっとトレーナーを注視するその目からは、どこか冷ややかなものを感じる。そもそも、二次会に誘ったのは稲垣で、誘われた三間は気乗りのしない様子だったのに。
「柿谷さんは、今日は体験入会でいらっしゃってまして」
聞かれたわけでもないのに、トレーナーがまるで言い訳するような口調で、僕がここにいる理由を説明した。
「では、マシンの説明は終わったので、僕はこれで失礼しますね。三間さんもごゆっくり」
爽やか好青年なトレーナーは、少しだけ気まずそうな笑みを浮かべ、そそくさと離れていった。
「ここの会員になるのか?」
問われて、慌ててマシンを降り、三間と向かい合う。
「いえ。帰り道でちょっと気になって立ち寄ったら、体験を勧められただけで……。三間さんこそ、どうしてここにいるんですか? 諒真さんと二次会に行くんじゃなかったんですか?」
「あれはあいつが勝手に言っていただけだ。俺はもともと、飲み会が終わったらここに来る予定だったんだ。そのために酒も飲んでない」
トレーナーとも顔見知りだったし、口ぶりからして彼はこのジムの会員なのだろう。先ほどまで前向きに考えていた入会について、「ないな」と即決した。たとえ言葉を交わさないにしても、三間と鉢合わせするかもしれないジムには通いたくない。
目の前の、ただでさえ不愛想な顔が、不愉快そうに眉をひそめる。
「俺がここの会員なら入会するのやめようって、顔に書いてあんぞ」
図星を指されて、思わず、「へっ?」と変な声が漏れた。
「や……、ややや! そ、そんなことあるわけないじゃないですか!」
「じゃあ、入会すんのか?」
「い、いや、それは、その……、ここはちょっと家からは遠いし、会費も、僕のような駆け出しからしたらお高めでしたし……、会員になる可能性は低いと思います」
言葉を選びながら喋ったせいで、あからさまにしどろもどろだった。目も泳いでしまっている。
立ち話している僕たちの横を、中年の男性が怪訝そうに眺めながら通り過ぎ、近くのマシンに座った。それを機に話を切り上げたかったが、「こっちへ来い」とでも言うように三間に顎で示され、仕方なく後をついていった。
フロアの壁際に置かれたベンチまで行き、三間は腰を下ろした。三人掛けのベンチで隣は空いている。トレーニングジムで三間と腰を落ち着けて話をする理由のない僕は、椅子には座らず、三歩分ほど距離をおいて彼の前に立った。
座った三間に見上げられる形で、それはそれで気分が落ち着かない。
「もう十分に見学できたので、僕はこれで失礼します。三間さんは……」
どうかごゆっくりトレーニングを続けてください――そう続けようとして、途中で遮られた。
「何食ったら、そんなにガリガリになるんだ?」
今度は構えていたから変な声を漏らさずにすんだが、すぐには言葉が頭に入って来なかった。二、三回、言われた言葉を反芻し、食べ物のことを聞かれているのだと理解した。
何を食べたら痩せられるか。そんなの僕に聞かなくったって、今の時代、ネットに腐るほど情報が溢れている。……そもそも、三間は痩せたいのだろうか。全然太ってもいないのに。
「なぜ……、僕にそんなこと聞くんですか?」
尋ねる声に、意図せず不信感が滲む。
三間は一瞬、考える素振りを見せた。
「知りたいから」
返ってきたのは、答えとも言えない答えだった。
喜怒哀楽に乏しい表情からは、後輩と他愛ない会話を楽しみたくて質問したわけではないことが感じ取れる。かといって、太らない食事について、本気で知りたがっているようにも見えない。
今度は僕が考え込む番だった。
……三間って……、そんな人だったっけ……?
その違和感には、覚えがあった。
年末の特番の収録で楽屋に挨拶に行ったあと、遅れて戻って来た白木さんが、なぜ僕が今回の仕事を選んだのか、三間に聞かれたと言っていた。あのときも、彼がそんなことを気にする理由がわからなかった。
僕も人と関わることが苦手なほうだが、一度目の人生では、僕以上に三間のほうが、人を寄せ付けない雰囲気があった。
一度目の人生で三間と共演した学園ドラマでは、三間と僕は先生と生徒役で、僕はメディアの前で演じていたキャラそのものの「あざと可愛い系男子」という役どころだった。
専務から、対外的には三間と仲が良さそうに振る舞うよう言われていたので、雑誌の取材や番宣で出演したバラエティ番組では、ドラマのノリでボディタッチをしたり、媚びるような態度を取ったりもした。人前では三間も合わせてくれていたものの、嫌がっているオーラはなんとなく感じ取れた。そのため、仕事以外では極力近づかなかったし、向こうからのアプローチもなかった。あの夜を除いては、プライベートで会話らしい会話をしたこともなかった気がする。
少なくとも一度目の人生では、三間からとりとめのない会話を振られたり、興味を持たれることなんて、ありえなかった。
そんな男と、スポーツジムでなぜか食べ物の話をしている。
まるで犯人を尋問する刑事のような鋭い眼差しに困惑しつつも、質問の答えを口にする。
「おからです」
聞き取れなかったのか、あるいは言葉の意味を理解できなかったのか、三間が怪訝そうな顔をした。
「朝昼晩、おからばっか食べてたら、僕みたいにガリガリになりますよ」
自分でも、声が棘を帯びているのがわかった。
筋肉がつきにくいのは、オメガの体質のせいもあるだろう。でも、それだけでなく、成長期に満足に食べられなかった影響も大きい。特に母が亡くなってからは、商店街の豆腐屋で無料でもらえる「おから」が主食でもあり、副食でもあり、貴重な栄養源だった。
食べるものに困ったこともない人間に「何を食べたら痩せられるか」と聞かれるなんて、貧乏を馬鹿にされているとしか思えなかった。
「おからって豆腐を作るときに出る粕のことだよな? 朝昼晩食べて飽きねーの?」
僕の苛立ちを知ってか知らずか、三間は質問を畳みかけてくる。その口調があまりに自然体だったから、完全に毒気を抜かれてしまった。
意図はわからないが、痩せる方法を知りたがっていることは本当のようだ。
「それは……、料理で工夫すれば、それなりに。ご飯や小麦粉の代わりにもなりますし。ネットを見れば、いろんな調理法が載っていますよ」
三間は顎に指をあて、ふむ、と呟いた。
「ネットに書いてあっても、俺は料理しねーからな」
彼女に作ってもらえば、と言おうとして言葉を呑み込む。三間の彼女は人気女優の中島佑美だった。料理をする時間なんてないだろう。
「監督から、撮影までに筋肉を落としてほしいと言われているんだが。つけるよりも落とすほうが難しい」
僕は、はぁ、と曖昧な相槌を返した。
飲み会帰りに二次会には行かずジムに来たのは、僕とは真逆の理由ということか。
たとえば、オリンピックで誰が金メダルを取るかとか、放送中のドラマの結末だとか。そうした世の中の出来事は、記憶の中と寸分違わずに繰り返される。
けれど、自分自身に関することは、一度目と二度目では大きく違っていた。
今回は事務所と契約する際に、ベータだと嘘をついたからだ。
俳優の仕事にはやりがいを感じていたので、一度目の人生と同様に、スカウトされた翌日に事務所に出向き、タレントとして仮登録してもらい、高校卒業を機に正式に契約を交わした。本来なら、契約にあたって第二性別を聞いてはいけないことになっているが、それは就職試験の面接と同じく、あってないようなものらしい。「タレントの体調管理やスケジュールを調整する上で、どうしても必要な情報なので」と前置きして尋ねられ、今回はベータだと答えた。
僕はもともと、話に聞く他のオメガほどには発情期が酷くないため、強めの抑制剤を使えば、フェロモンを誤魔化せる自信があった。一度目の人生でも、どうしても仕事を休めないときは強めの抑制剤を使い、香水で香りを誤魔化し、仕事をすることもあった。抑制剤を使うと眠気が酷くて格段に集中力は落ちる。できれば休みのほうがいいが、そこまでのハードスケジュールでなければ、どうにかやれないこともない。
第二性別を偽った一番の理由は、おそらく自分がオメガでなければ、殺されることもなかったからだ。それに、オメガであることを前面に押し出したタレントとしてのキャラ作りも、一度目の人生で後悔していることの一つだった。
他人から意にそぐわないことを言われても反論できない性格で、正直にオメガだと申告すれば、前回の二の舞になることは予想できた。生き直すのなら、今度は無理してキャラを作らず、タレントとしても素の自分でいたかった。そのためにベータと偽らなければいけないのは、皮肉な話だけれども。その分、挨拶や礼儀は一度目以上に心がけるようにした。
おかげで一度目のときのように、メディア向けのキャラを押し付けられることはなかった。その反面、事務所からの期待が薄いのは、仕方のないことだろう。
一度目はあんなに目をかけてくれていた月城専務も、今回は面接で顔を合わせて以降、一度もレッスンを見に来てくれたことがない。専務は初めて僕に優しくしてくれたアルファで、密かに憧れの気持ちを抱いていたから、それだけが残念でもあった。
当然、一度目のときのようにバラエティの仕事は入って来ないし、俳優としても完全に無名。一年目はコンビニのバイトを続けながら、たまにモデルやミュージックビデオなどの仕事を回してもらい、あとはレッスンとオーディションを受けまくる日々だった。
基本的に一度目のときと同じオーディションを受けていたので、監督や演出家の求めるものはなんとなくわかる。おかげで毎回、何かしらの役はもらうことができ、端役から脇役へと徐々に出演時間も増えていった。
大きな誤算だったのは、三間晴仁との共演を回避するために選んだ次の仕事で、なぜか彼と相見えることになってしまったことだ。
NG大賞の収録後、大晦日までは何かと忙しくしていて、おかげで余計なことを考えずにすんだ。年が明けてからは、伯父の家に形ばかりの年始の挨拶に行き、その帰りに近所の神社で初詣を済ませ、あとはずっと、家にこもって台詞を覚えていた。
そうして、楽しみ半分、不安半分な気持ちで、今年の仕事始めである一月五日を迎えた。その日は、午後から今夏公開予定の戦争映画『空を見上げて』の顔合わせと台本読みが予定されており、午前中に事務所の演技レッスンに参加したのち、都内の映画制作会社のスタジオに向かった。
一度目の人生と違い、今回はマネージャーが毎回仕事場まで送り迎えしてくれるわけではない。担当の白木さんは僕の専属ではなく、他にも何人か担当しているため、初めての現場でもないかぎり、基本、公共交通機関を使って一人で現場に向かう。白木さんからは、たまに次の仕事の相談や様子伺いの電話が来るくらいだ。
初日の今日は、白木さんも顔を出してくれた。彼が事前にマネージャー同士で話を通してくれていたおかげで、ミーティングが始まる前に、主演である中島佑美に挨拶することができた。
彼女は、深窓の令嬢のように美しく儚げな見た目に反して、さっぱりとした性格の気さくな人だった。初対面のときの僕の失礼すぎる挨拶も、特に気にしている様子はなく、「私のことは下の名前で呼んでね」とまで言ってくれた。
その後、監督やらプロデューサーやら、廊下で関係者を見かけるたびに挨拶していたせいで、三間に挨拶する時間はなくなってしまった。頼みの白木さんも、他の仕事があるらしく、「三間さんにもこの前のことを謝罪するんだよ」と言い残し帰って行った。
三間への挨拶を諦め、開始予定の五分前に会議室へと向かった。広々としたスペースには、長方形を形作るように長机が並べられていた。
参加予定のスタッフや役者が全員席についたところで、プロデューサーから順に一人ずつ立ち上がり、挨拶と簡単な自己紹介の言葉を述べていく。その辺りの流れはドラマの撮影と変わらない。全員が喋り終えると、台本読みが始まった。
佑美さんとその相手役である三間は、長方形の角を挟んで、プロデューサーや監督の隣のテーブルに座っていた。
彼らと向かい合う並びの末席にいる僕からは、少し顔を傾ければ二人の様子が見える。台本に集中しようとしても、無意識に視線が彼らに吸い寄せられてしまう。それはおそらく僕だけではなく、この場にいる誰もが、少なからず二人に気を取られているようだった。
今回の映画は、一昔前にあった大戦の時代を舞台にしたもので、僕も三間も兵士を演じる。役作りのためか、彼の艶やかな黒髪は短く刈り込まれていて、シャープな顔立ちにさらに凄味が加わっていた。
黒髪を肩で切り揃えた佑美さんと並んで台本を読んでいると、二人の周りだけ、まるで時代が巻き戻されたような、凛とした空気を感じる。
三間は僕より六つ上の二十六才。佑美さんはそれより二つ上で、もともと二人は同じ事務所の先輩後輩だった。
二人の初共演は今から三年前。当時、佑美さんは既に人気女優として活躍していたが、三間はまだ無名の新人だった。新人の三間が恋愛ドラマで彼女の相手役に抜擢されたのは、彼女の推薦があったからだと、以前ネットニュースで読んだことがある。
それは佑美さんの自宅マンションでの二人の密会をスクープした記事で、彼女が後輩の三間を気に入って目をかけているうちに、男女の仲に発展したのでは──との憶測も添えられていた。
ドラマのヒットもあり、二人の交際を好意的に受け止め、応援するファンのほうが多かったらしい。「みまゆう」というカップル名までつけられていた。
その後、ファンの期待に反して、二人は続編や別のドラマで共演することはなかった。それがかえって、「本当に付き合っているから共演NGなのでは」と噂の信憑性を高めることとなった。
二人が共演NGなら、佑美さんが出演する作品を選べば、三間と鉢合わせすることはない。僕がこの映画のオーディションを受けた一番の理由がそれだった。
前半はそんな余計なことまで思い出して気もそぞろだったが、台本読みが進むにつれ、僕の出番も増えていく。主役の二人を気にする余裕もなくなった。
『あの鬼教官、怒鳴り声だけは超弩級だな』
『それがな、食堂の寿美子さんの前やと、ぼそぼそ豆戦車みたいに喋るさかい、毎度、〝えっ?〟って聞き返されとるんやで』
僕と別の兵士役が台詞を続けたところで、監督がストップをかけた。
「ちょっとその言い方だと、二人ともチャラいなぁ。金田はもう少し愚痴っぽく、井上はひょうきんに」
駄目出しを受けて何度か同じ台詞を繰り返したが、監督の求める水準には届かなかったようだ。
「しょうがない。じゃあ、三間君、お手本見せてあげて。陰口、愚痴、親しみを込めた軽口の三パターンでお願い。君たちはよく聞いて、次までに演じ分けられるようにしておいてね」
監督の要望に従い、三間が二人分の台詞を、声色やトーン、抑揚を変えて三通りに演じる。一度目の人生でも思ったが、普段は抑揚のない不機嫌そうな声が、演技となると爽やかにも優しげにも聞こえるのが不思議だった。
三間の台詞回しを聞くと、確かに自分たちの演技には何かが足りないのがわかる。
今は考える時間がないため、台本とは別に広げていた役者ノートに、それぞれのパターンの特徴を、「ぶっきらぼう」「弾んだ」といった抽象的な言葉や抑揚を表す矢印などで書き込んだ。
注意点をすべて台本に書き込む役者も多いが、僕の場合、それだとすぐにスペースがなくなってしまうため、必ず現場に台本と別にノートを持参している。
その後も、監督の意にそぐわない部分を、「ここはこういう感情で」と解説されることはあったが、三間に手本を求めたのはその一回だけだった。
午後二時に集合し、時おり休憩を挟みながら台本読みが進み、終了したのは夜の八時を回った頃だった。そこから近くの居酒屋に場所を移し、親睦会と称した飲み会が始まった。
通されたのは座敷席で、決まった席次はなく、皆、適当に席を移っては料理をつつき、グラスを片手に談笑するような、気楽な飲み会だった。佑美さんは翌日が早朝から仕事らしく、参加していない。会議室にいる間は三間に声をかけるタイミングがなかったため、今度こそはと意気込んでいたが、彼の周りは僕より一回り以上年上のベテラン俳優陣で固められており、そこに割って入る勇気はなかった。
映画初出演の僕には知り合いの役者やスタッフもおらず、挨拶以外で初対面の人に話しかけるような積極性は、二度目の人生でも持ち合わせていない。
隅のほうで一人、ちびちび烏龍茶を飲んでいたら、頭上から声をかけられた。
「隣、いい?」
シトラス系の爽やかな香りが、ふと鼻をかすめる。
グラスと皿を手に、空いていた隣の席に腰を下ろしたのは、同じ兵士役を演じる稲垣諒真だった。
三間と同じアプローズプロモーションに所属する俳優で、年は僕より四つ上の二十四才。オーディションのときに顔を合わせているため、会うのは今日で二度目だ。
「柿谷夏希です。よろしくお願いします」
正座をし、畏まって挨拶すると、横に広い唇が口角を上げ、ニッと愛嬌のある笑みを浮かべた。
「同期なんだからそんなに畏まらなくていいよ。夏希って呼んでいいかな? 俺のことも諒真って呼んで。話すのもタメ語でいいから」
「いやでも、そういうわけには……」
お互いに俳優としては二年目だから同期と言えば同期だが、向こうは大卒でこちらは高卒。
彼もまた背が高く、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしていて、見るからにアルファだ。でも、黒目勝ちな大きな二重の目が犬っぽくて可愛げがあり、三間ほどにはアルファ特有の威圧感を覚えない。
「今日、すごいいっぱいメモ取ってたよね。台本と別にノートまで用意して。やっぱり別にノートあったほうがいいね。俺も見習おうと思った」
「それは僕がすぐに忘れちゃうからで……、気づいたことや言われたことをその場で吸収できればいいんですけど」
会話の合間にちらりと彼のグラスを見ると、すっかり空になっていた。僕は慌てて近くにあった瓶ビールを取り、稲垣のグラスへと傾けた。
稲垣は男らしい喉仏を上下に震わせてビールを呷り、一気に半分ほどに減らしてグラスをテーブルに置いた。
「晴さんのところに行きたいんでしょ? 声かけてあげようか?」
烏龍茶に口をつけようとしていた僕は、グラスを唇の前で止める。
「え……?」
「夏希、さっきからチラチラ晴さんのほうを見てたから、挨拶に行きたいのかと思って」
晴さんとは三間のことだ。まさか三間を意識していたことを人に気づかれていたとは。
「あ、いや、その……。先月一度ご挨拶したのですが、時間がなくてただ名乗っただけになってしまったので。もう一度ちゃんとご挨拶しないといけないと思っていたんです……」
図星を突かれ、あたふたと弁解する。顔が赤くなっていくのが自分でもわかる。
稲垣がぷっと噴きだし、大きな目を人懐っこく細めた。
「別に告白に行くわけでもないんだから、そんなに焦んなくても……。夏希って可愛いよね。オメガみたい」
更にドキっとしたが、顔に出ないよう、表情筋に力を込めた。
「稲垣さん……諒真さんみたいに男らしくないから、たまに言われます。でも、もしオメガだったら、今回の映画はオーディションも受けさせてもらえませんでしたよ。うちの事務所は、オメガは海外ロケも半裸もNGなので」
基本的にオメガはよほど売れっ子でもない限り、長期のロケも許可してもらえない。男であっても、上半身を露出させる撮影はNGだ。今回の映画ではマレーシアでのロケや上半身裸のシーンもある。
「気を悪くしたならごめん。でも、君が金田二等兵に選ばれたのもわかるよ。台本読みを聞いたら、見た目の繊細さとは少し違ってた。芯が通ってるっつーか……。金田の持つ人としての強さは、十分に感じられたよ」
「あ……、ありがとうございます……」
さりげなく視線を逸らし、間を持たせるためにグラスに口をつけた。
オーディションで僕が勝ち取った役は、一度目の人生では稲垣が演じていた。
今回の映画は、特別攻撃隊――いわゆる特攻隊の兵士たちが訓練を受ける飛行学校が舞台となっている。
金田二等兵は三間が演じる陸軍中尉から教えを受け、最初はその厳しい指導に辟易するものの、厳しさが自分たちのためであることを理解し、次第に中尉に心酔していく若き兵士だ。物語の終盤では中尉も特攻に志願し、教え子たちとともに南方の海に散る。金田はその中で中尉に助けられる形で唯一生き残り、彼の最期を見届け、恋人への遺言を託される。
兵士役の中では三間に続いて見せ場のある役どころなので、オーディションに参加した全員が、この役を一番に狙っていたはずだ。まさか自分に金田役が来るとは思いもしなかったから、白木さんから結果を聞かされたときは、めちゃくちゃ嬉しかった。
ただ、この役を稲垣が演じていた世界を知っているだけに、彼に対しては申し訳ない気持ちがある。
「諒真さんと三間さんだと、アルファ同士で雰囲気が重なるので……、それで、僕が選ばれたんじゃないかと思います」
謙遜ではなく、本気でそう思っていた。僕が選ばれたのは、演技力の差ではないだろうと。
一度目の人生では中尉も三間ではなく、別の俳優だった。日本人としては平均的な体格の、理知的で温厚そうな、おそらくベータの俳優だ。今回は主役がアルファだから、脇役が表向きはベータの僕になった。それだけの違いだろう。
「確かに、俺と晴さんのツーショットだと、画面が暑苦しいよね」
稲垣が冗談めかした口調で言い、僕も安堵の笑みを零した。
お互いに駆け出しの役者で、苦労話や失敗談は尽きるほどある。三間のところには相変わらず入れ替わり立ち替わり人が集まっているので、挨拶に行くタイミングを掴めないまま飲み会はお開きとなった。
三間に挨拶できたのは、店を出たあとだった。三々五々に帰っていく監督やベテラン俳優陣を見送っていたら、最後のほうになってようやく彼が現れた。
「晴さん、夏希が晴さんに挨拶したいそうなんで、今いいですか?」
隣にいた稲垣が、僕より先に呼び止めてくれた。
三間は僕たちの前で足を止め、ともに出てきたADを見送ると、こちらに向き直った。その瞬間、空気がひやりと冷えた気がした。彼の顔からそれまでの愛想笑いは消えていて、周囲のビルから届くネオンの灯りが、感情の読めない整った顔を一層酷薄に見せる。
一度目の人生では、嫌われる要素はこちらにもあったと思う。でも、今回はほぼ初対面なのに、明らかに警戒されている雰囲気に戸惑いを覚えた。
思い当たる理由は、先月の中途半端な挨拶くらいだ。『まともに挨拶もできない、失礼な若手』というレッテルを貼られたのかも。自業自得なので、気持ちを切り替えてここから挽回するしかない。
「先月は本番前に楽屋に押し掛けてしまって、失礼しました。月城プロダクションの柿谷夏希です。三間さんと共演できるのを楽しみにしていました。未熟者ですが、よろしくお願いします」
先月から用意していた台詞は、緊張のせいで、役者とは思えないほど棒読みになってしまった。何度も練習したおかげで滑舌だけはよく、淀みなく喋り切って、最後にペコリと頭を下げる。
しばらく待っても返事はなく、恐る恐る顔を上げた。
僕を見下ろす顔は、物言いたげな、それでいて言葉が見つからないような、小難しい表情をしていた。
三間が出演していた秋ドラマの話でもして機嫌を取るべきか。あるいは、「次の稽古もよろしくお願いします!」と笑顔を向けて、早々に退散すべきか。二つの選択肢の間で揺れ、二の句を継げずにいると、三間の唇の端がわずかに歪んだ。
口元は笑っているのに目は笑っていない。どこか薄ら寒い笑みに思えた。
続いて、右手がこちらへ伸びてくる。
「三間晴仁だ。よろしく」
思わずぽかんと口を開けて、その手をまじまじと見つめてしまった。一度目の人生では、クランクインのときもアップのときも、三間に握手を求められたことなんてなかったから。
稲垣から「夏希」と囁かれ、腕を肘で小突かれて、我に返る。慌ててズボンに手をこすりつけ、恐る恐るその手を握った。
同じ男同士なのに、僕の手よりも一回り大きい。それに節ばっていて、少しあたたかい。そういえば、握手したことはなくても、手を重ねたことはあったと、ふと思い出した。
繋がった手に、キュッと力を込められる。
シーツを握りしめる手に掌を重ねられた瞬間の、もしかしたら、今だけは少しは僕のことを愛おしく思ってくれているのだろうかと勘違いしそうになった記憶が胸をかすめ、自分からそっと手を離した。
「夏希と話し足りないから、今から二人で二次会しようかと思ってたんすよ。よかったら、晴さんも一緒に行きません?」
稲垣の調子のよい声が張りつめた空気を和らげる。
助かった反面、僕にとってはありがた迷惑な提案だった。虚を衝かれたように稲垣を見た三間も、すぐには返事をできないでいる。事務所の後輩の稲垣だけならともかく、ほぼ初対面の新人との飲み直しに気が進まないのは当然だろう。一度目の人生でも、三間が誘いに乗ったのはあの一度きりだ。
「ぼ、僕は終電に間に合わなくなるといけないから、お先に失礼します。お二人はごゆっくりどうぞ。では、お時間をいただき、ありがとうございました」
深く頭を下げ、踵を返す。結局は初対面のときと同様、逃げるように駆けだした。
「あ、夏希! 駅まで一緒に……」
追いかけてきた稲垣の声は、聞こえなかったふりをした。
飲み会に参加していたスタッフを追い越し、向かいからふざけ合って歩いてくる若者たちを、歩調を落として避ける。
何も考えたくなかった。自分の感情にすら気づきたくなくて、夜の街を、ただひたすらに前へと足を動かし続けた。
店から駅まで歩けば十分ほどかかる距離だが、その半分ほどの時間で着いた。
顔を上げると、駅の手前にあるビルが目に入る。二階の全面ガラス張りの向こうには、煌々と照明が灯っていた。ミラーガラスなのか中の様子は窺えなかったが、窓には「グランフィットネス」という文字が浮かんでいる。その下の「深夜三時まで営業」という謳い文句に惹かれて、足を止めた。
今回の映画では、上半身裸のシーンがある。
仮にも俳優の端くれとして、痩せた薄っぺらい体をカメラの前で披露することには抵抗があった。かと言ってもともと筋肉がつきにくいため、家で少しばかり筋トレを頑張ったところで、それなりに見栄えのする体になるとは思えない。
ここなら撮影所から近く、稽古の帰りに寄って軽く汗を流すこともできる。
二次会を断るために「終電に間に合わなくなる」と言い訳したが、時間はまだ十時を過ぎたばかりだった。ちょうど午前中のレッスンで使ったウェアやシューズも持ち合わせているし、可能なら見学だけでもしてみたい。迷った末に、思い切って足を踏み入れた。
自動ドアが音もなく開き、明るく開放的なロビーが目の前に広がる。小洒落たソファやテーブルがゆったりと並んだスペースの奥に、大理石調の幅広のカウンターが構えていた。さりげなく観葉植物が置かれ、揃いの制服を着た三人の女性スタッフが控えている。まるで一流ホテルのような雰囲気に、下調べなしで入ったことを後悔した。
駅の周りにはタワーマンションもあるし、富裕層向けのジムなのかもしれない。しかし、スタッフの一人と目が合い、「いらっしゃいませ」と笑顔を向けられれば、今更引き返すわけにもいかない。勧められるままに彼女の前へ腰を下ろした。
「入会をお考えですか?」
「えっと……、ちょっと興味があって寄ってみた感じで……」
パンフレットを差し出され、『新年キャンペーン』『入会金無料』の文字に最初に目が行く。一般会員の月会費も予想外に良心的な金額で、撮影が始まるまでの一カ月だけなら払えない額ではなかった。プレミアム会員だと、専用のトレーニングルームや個人ロッカーが使えるらしいが、バイトに頼る身では手が出ない。食費を削って逆に痩せることになりそうだ。「まずは体験してみてはどうですか?」と勧められ、見学を兼ねて体験入会してみることにした。
更衣室でジャージに着替えて二階のフロアに行くと、若い男性トレーナーが爽やかな笑顔で待ち構えていた。ポロシャツ越しでもわかる、鍛え上げられた胸筋がなんとも羨ましい。
筋肉をつけたい場所に応じたトレーニングマシンを紹介してもらい、合間に、お勧めのプロテインやタンパク質の多い食べ物、調理の仕方なども教えてもらった。
「これ、最近女性に人気ですよ。ヒップアップに効果的です」
一通り見学した後に連れて行かれたマシンは、今回の撮影には必要なさそうだったが、促されるまま台に上がる。
「足を後ろに蹴る動きでお尻の筋肉を使います」
トレーナーが背後から両手で僕の腰に触れ、角度を調整した。
「お尻を意識して、ゆっくり蹴り出してください」
彼のたくましい胸板が腕に触れる距離感に居心地の悪さを覚えながらも、足を上げようとした、そのとき。
「終電に間に合わなくなるんじゃなかったのか?」
トレーナーとは逆の左手から、聞き覚えのある声がした。
「え? み、三間さん!?」
立っていたのは、トレーニングウェアを着た三間だった。
「三間さんのお知り合いですか?」
トレーナーがパッと手を離し、僕から距離を取る。三間とは顔見知りのようだ。
「役者の後輩。さっきまで一緒で、飲みに誘ったけどフラれちゃって」
三間は自嘲めいた笑みを浮かべるが、僕に握手を求めたときと同じで、じっとトレーナーを注視するその目からは、どこか冷ややかなものを感じる。そもそも、二次会に誘ったのは稲垣で、誘われた三間は気乗りのしない様子だったのに。
「柿谷さんは、今日は体験入会でいらっしゃってまして」
聞かれたわけでもないのに、トレーナーがまるで言い訳するような口調で、僕がここにいる理由を説明した。
「では、マシンの説明は終わったので、僕はこれで失礼しますね。三間さんもごゆっくり」
爽やか好青年なトレーナーは、少しだけ気まずそうな笑みを浮かべ、そそくさと離れていった。
「ここの会員になるのか?」
問われて、慌ててマシンを降り、三間と向かい合う。
「いえ。帰り道でちょっと気になって立ち寄ったら、体験を勧められただけで……。三間さんこそ、どうしてここにいるんですか? 諒真さんと二次会に行くんじゃなかったんですか?」
「あれはあいつが勝手に言っていただけだ。俺はもともと、飲み会が終わったらここに来る予定だったんだ。そのために酒も飲んでない」
トレーナーとも顔見知りだったし、口ぶりからして彼はこのジムの会員なのだろう。先ほどまで前向きに考えていた入会について、「ないな」と即決した。たとえ言葉を交わさないにしても、三間と鉢合わせするかもしれないジムには通いたくない。
目の前の、ただでさえ不愛想な顔が、不愉快そうに眉をひそめる。
「俺がここの会員なら入会するのやめようって、顔に書いてあんぞ」
図星を指されて、思わず、「へっ?」と変な声が漏れた。
「や……、ややや! そ、そんなことあるわけないじゃないですか!」
「じゃあ、入会すんのか?」
「い、いや、それは、その……、ここはちょっと家からは遠いし、会費も、僕のような駆け出しからしたらお高めでしたし……、会員になる可能性は低いと思います」
言葉を選びながら喋ったせいで、あからさまにしどろもどろだった。目も泳いでしまっている。
立ち話している僕たちの横を、中年の男性が怪訝そうに眺めながら通り過ぎ、近くのマシンに座った。それを機に話を切り上げたかったが、「こっちへ来い」とでも言うように三間に顎で示され、仕方なく後をついていった。
フロアの壁際に置かれたベンチまで行き、三間は腰を下ろした。三人掛けのベンチで隣は空いている。トレーニングジムで三間と腰を落ち着けて話をする理由のない僕は、椅子には座らず、三歩分ほど距離をおいて彼の前に立った。
座った三間に見上げられる形で、それはそれで気分が落ち着かない。
「もう十分に見学できたので、僕はこれで失礼します。三間さんは……」
どうかごゆっくりトレーニングを続けてください――そう続けようとして、途中で遮られた。
「何食ったら、そんなにガリガリになるんだ?」
今度は構えていたから変な声を漏らさずにすんだが、すぐには言葉が頭に入って来なかった。二、三回、言われた言葉を反芻し、食べ物のことを聞かれているのだと理解した。
何を食べたら痩せられるか。そんなの僕に聞かなくったって、今の時代、ネットに腐るほど情報が溢れている。……そもそも、三間は痩せたいのだろうか。全然太ってもいないのに。
「なぜ……、僕にそんなこと聞くんですか?」
尋ねる声に、意図せず不信感が滲む。
三間は一瞬、考える素振りを見せた。
「知りたいから」
返ってきたのは、答えとも言えない答えだった。
喜怒哀楽に乏しい表情からは、後輩と他愛ない会話を楽しみたくて質問したわけではないことが感じ取れる。かといって、太らない食事について、本気で知りたがっているようにも見えない。
今度は僕が考え込む番だった。
……三間って……、そんな人だったっけ……?
その違和感には、覚えがあった。
年末の特番の収録で楽屋に挨拶に行ったあと、遅れて戻って来た白木さんが、なぜ僕が今回の仕事を選んだのか、三間に聞かれたと言っていた。あのときも、彼がそんなことを気にする理由がわからなかった。
僕も人と関わることが苦手なほうだが、一度目の人生では、僕以上に三間のほうが、人を寄せ付けない雰囲気があった。
一度目の人生で三間と共演した学園ドラマでは、三間と僕は先生と生徒役で、僕はメディアの前で演じていたキャラそのものの「あざと可愛い系男子」という役どころだった。
専務から、対外的には三間と仲が良さそうに振る舞うよう言われていたので、雑誌の取材や番宣で出演したバラエティ番組では、ドラマのノリでボディタッチをしたり、媚びるような態度を取ったりもした。人前では三間も合わせてくれていたものの、嫌がっているオーラはなんとなく感じ取れた。そのため、仕事以外では極力近づかなかったし、向こうからのアプローチもなかった。あの夜を除いては、プライベートで会話らしい会話をしたこともなかった気がする。
少なくとも一度目の人生では、三間からとりとめのない会話を振られたり、興味を持たれることなんて、ありえなかった。
そんな男と、スポーツジムでなぜか食べ物の話をしている。
まるで犯人を尋問する刑事のような鋭い眼差しに困惑しつつも、質問の答えを口にする。
「おからです」
聞き取れなかったのか、あるいは言葉の意味を理解できなかったのか、三間が怪訝そうな顔をした。
「朝昼晩、おからばっか食べてたら、僕みたいにガリガリになりますよ」
自分でも、声が棘を帯びているのがわかった。
筋肉がつきにくいのは、オメガの体質のせいもあるだろう。でも、それだけでなく、成長期に満足に食べられなかった影響も大きい。特に母が亡くなってからは、商店街の豆腐屋で無料でもらえる「おから」が主食でもあり、副食でもあり、貴重な栄養源だった。
食べるものに困ったこともない人間に「何を食べたら痩せられるか」と聞かれるなんて、貧乏を馬鹿にされているとしか思えなかった。
「おからって豆腐を作るときに出る粕のことだよな? 朝昼晩食べて飽きねーの?」
僕の苛立ちを知ってか知らずか、三間は質問を畳みかけてくる。その口調があまりに自然体だったから、完全に毒気を抜かれてしまった。
意図はわからないが、痩せる方法を知りたがっていることは本当のようだ。
「それは……、料理で工夫すれば、それなりに。ご飯や小麦粉の代わりにもなりますし。ネットを見れば、いろんな調理法が載っていますよ」
三間は顎に指をあて、ふむ、と呟いた。
「ネットに書いてあっても、俺は料理しねーからな」
彼女に作ってもらえば、と言おうとして言葉を呑み込む。三間の彼女は人気女優の中島佑美だった。料理をする時間なんてないだろう。
「監督から、撮影までに筋肉を落としてほしいと言われているんだが。つけるよりも落とすほうが難しい」
僕は、はぁ、と曖昧な相槌を返した。
飲み会帰りに二次会には行かずジムに来たのは、僕とは真逆の理由ということか。
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