ただの雑兵が、年上武士に溺愛された結果。

みどりのおおかみ

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三章

狩り3

 再び、山道を登り始めた俺たちの前に、石段が現れた。最上段の向こうに、お堂の屋根がちらりと見えた。近くで、水の流れる音が聞こえる。
 忠頼が石段を登る。俺はその後に付いて行った。
 頂上のお堂の右わきは、少し開けた場所になっていた。そこに立つと、滝がとても近くに、美しく見えた。
 寺には誰もいなかったが、掃除は行き届いていた。僧や村人が通い、世話をしているのだろう。
「見事なもんだなあ」
 俺が滝を眺めていると、忠頼がこちらを見ているのが分かった。
「なんだよ」
 忠頼は、自らの肩に手を遣りながら、静かに口を開く。
「この前、お前は……俺の背中の傷のことを、聞いたな」
「え? ああ……川で怪我をしたんだっけ」
「そうだ。だがこれは……幼い頃の傷ではない。三男の、則光が死んだ時のものだ」
  俺は、はっとして、忠頼の顔を見る。その目はどこか遠くを見るように、少し陰っている。
「子供の命というのは、脆いものだ。少し熱を出したり、怪我をしたり……腹を下したり、水を受け付けぬ、とか、そんな理由で……あっという間に命を落とす」
 風の中で、忠頼の声が、か細く響く。
「五人の中で、最後に残った子供が、三男の則光だった。聡明で、優しく、頑健だった。だが――十一になった年に、病に臥せった。則光は酷く咳き込むようになり、食べ物も受け付けなくなった。しかし――その時、俺は、南波殿の下で、戦の準備をしていた」
  忠頼は、ひとつ息を着く。
「用事が済み、俺は急いで帰ろうとした。だが、帰途の途中、増水した川を渡る際に、馬が足を滑らせた。俺は川に流され、鋭い岩にぶつかって、背中を切った。しかし、幸い、怪我は浅かったから、俺はそのまま急いで家に戻った。だが――家にたどり着いた時、俺は茫然とした。則光は亡くなっていた。俺が、則光の最後の命のともしびを、奪ったように感じた」
 そんなことはない、と言いかけて、源太の死が、俺の脳裏をよぎった。
――同じように、俺も考えていた。
 忠頼は静かに続けた。
「勿論、そんなことは、馬鹿げた考えただと、分かっている。だが、子を亡くし生き残った親ほど……空虚なものはない。俺たちは、再び子を作る気が失せてしまった。跡取りは、死んだ兄の息子に頼んだ。だが、気が塞ぐのは、どうしようもない。妻は気を病み、そのうち身体も病み、臥せっていることが多くなった――妻が死んだときも、俺は泣けなかった。かわりに、ひどい罪悪感を感じた」
 俺は、何も言えなかった。
  忠頼は、少しの間、言葉を切ってから、ぽつりと言った。
「死ぬ直前、俺は……『お前だけでも、元気でいてくれ』と、言ったんだ。でも、妻は俺に、こう言ったんだ。『もう、無理に、私を愛そうとしないで、よいのですよ』と。『もう、私はいらないでしょう』と」
 俺は胸が詰まった。
「それは――きっと、互いに、気持ちが弱っていたんだよ」
 忠頼は静かに首を振る。
「いや……俺は、妻に、辛い思いをさせていたことを、ずっと見ないふりをしてきた。本当に、辛いことを……言わせてしまった。だから……俺は、ずっと、幸せになってはならぬと、そう思っていた」
「忠頼」 
 俺は思わず、忠頼の手を取る
「俺は、分かるよ」
 俺は忠頼に訴えかけるように言った。
「お前の根っこには、人に対する、情がある。お前は否定するかもしれねえけど、見てりゃ分かる。お前は、奥方を――そういうふうには、愛せなかったかもしれねえけど、お前が、妻や子供に、何の情も持ってなかったわけはねえよ」
 俺はじっと、忠頼の目を見つめる。ひどくもどかしくて、目に涙が滲んだ。
「きっと、本当は……お前の奥さんも、子供も、どっかで分かってるよ。いや――そん時は分かんなかったとしても、仏さんになったら、ちゃんと分かる。母さんが昔、そう言ってたし」
 忠頼は少し目を見開きながら、しばし黙っていたが、やがて、ゆっくりと微笑んだ。
 その表情は、いつもの忠頼のそれとは違っていた。
 まるで、きつく結ばれた蝋梅の蕾が、はらりと解かれ、薫るようだ。嬉しさと戸惑いが同時に来たような顔のまま、忠頼は俺の手を引き寄せた。
「……俺はこうして――何度も、この滝を見ている。ほんの、幼い頃から、何千回と、数えきれないほどだ」
「……?」
 俺は忠頼の言葉の意図が読めず、眉根を寄せる。忠頼はそんな俺に構わず、俺の手を、優しく己の頬に寄せた。
「だが、今、この見慣れた景色が――ひときわ、美しく見える。お前に会ってから――俺は違う生を生きているように感じることがある。罪が薄れることはなくとも――俺は今、自分を幸せだと思うのだ」
――俺は、こいつと会ってからずっと、どこか辛かった。
 その理由が、今、わかった気がした。
――俺は、ずっと、こいつに、幸せになってほしかった。
 陽光が、やけに眩しくて、俺は目を細めた。葉を揺らす風の音が、互いの言葉と言葉の間を埋める。苦しいような、切ないような気持ちで、俺の全身が、じわりと痺れた。
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