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三章
昔の話
障子から、薄い月の光が漏れていた。夏虫はいつまでも盛んに鳴き、夜が更けても合唱は途切れることがない。
俺は横になって、忠頼にぴったりと寄り添っていた。向こうを向いた忠頼の背の温みが、俺の肌に伝わってくる。
忠頼が小さく咳き込む。目の前の背中が、小さく揺れた。
寝床からむくりと体を起こした俺は、襦袢を軽く肩に引っ掛けて、部屋の隅まで歩く。水差しを手に取ると、碗に水を注いだ。
「ん」
寝床まで戻り、俺は忠頼に向かって碗を差し出す。
忠頼はすぐに二杯分の水を飲み干す。俺も、忠頼の返した碗に、なみなみと水を注ぐと、一気に喉に流し込む。
水差しを部屋の隅に戻した俺は、ふと、障子の前で立ち止まる。大きな蛾が、障子の向こうに張り付いていた。俺はそれを、内側から指で弾いた。蛾は、驚いて飛んでいく。
俺は障子を少し開き、外を眺めた。
屋根と生垣の間に、月が見えた。庭の草はつい半月前に刈ったばかりなのに、すでに、旺盛に生い茂っている。
遠くでひとつ、犬の遠吠えが聞こえた。
ひやりと重たい、夏の湿った気が充満していた。ふと、俺は自分が、闇にじっと目を凝らしている獣になったように錯覚する。
「弥次郎」
忠頼の声で、俺は我に返る。障子を閉めると、俺は再び、忠頼の傍に膝をついた。
俺は何の気なしに手を伸ばすと、忠頼の膝裏を、襦袢の上から指で撫でる。忠頼が、うっとおしそうに、脚の位置をずらした。
俺の中に、ちょっとした、悪戯心が沸いた。
俺はまず、忠頼の足に向かって身を屈め、腿の横に口づけを落とした。そのまま、忠頼の脚の輪郭をなぞるように。腿から足先に向かって、順に口づけを落としていく。最後の仕上げに、俺は忠頼の足の親指を、柔く噛んだ。
「……変なところを、かじるな」
忠頼のくぐもった声が、背後から聞こえた。
俺が体を起こすと、忠頼は、俺の腕をぎゅうと引き寄せて、俺は再び、忠頼の傍に収まった。
「嫌だったか?」
俺はちらりと忠頼の顔をうかがう。忠頼は目を閉じたまま、笑っていた。俺はすぐに、胸がいっぱいになって、忠頼の首元に、額を擦り付けながら呟く。
「お前、変わったな」
「なんだ、急に」
「なんてえか……前はもっとこう……いつも、ぶすっとしてたし」
「――お前も、変わったぞ。ひどく、頼りになる男になった」
予想していなかった誉め言葉に、俺は顔を上げる。面映ゆい想いに、俺は足をもぞもぞと動かす。
「……ほんとかよ。さっきまで散々、俺を虐めてたくせに」
忠頼は俺の体を、慈しむように、繰り返し愛撫する。忠頼の掌は、俺の肌にひどく馴染む。その肌の感触だけで、忠頼の思いが、伝わってくるような気がした。
「それは、お前が、愛いのが悪い。それに……俺の前では、お前は、頼りにならなくていい」
「けど、おれは……」
俺が、抗議の意をもって眉を寄せると、忠頼が、俺の髪を、前から後ろにすくように撫ぜた。忠頼が、俺の髪に手を触れる気持ちのよさに、俺は甘えるような吐息を吐く。
「……分かっている。俺はもう、お前を止める気はない」
ふと、辺りの闇が濃くなったような気がした。
障子の裏側を歩く蛾の影が、忙しなく動く。蛾は障子から離れてはくっつき、その度に、とつ、とつ、と音がした。
俺はふいに、焦燥に駆られた。
――もっと何か、話すべきことがあるんじゃないか。
言っておいた方がよい事が、語らなければいけないことが、もっと――ほかにも、たくさん、たくさんある気がした。
俺は急かされるように、忠頼に訊く。
「なあ。あんたは、いつから――俺のこと、好きになったの」
忠頼は、少し黙った。俺はすぐに、自分の質問に後悔する。しかし、忠頼は静かに言った。
「わからないな。でも初めから……お前がいるところは、なぜか明るく見えるのだ。人の中に紛れていても、お前のことは、すぐに見つけることができる。不思議だな」
俺は、にわかに、頬が熱くなるのを感じた。
忠頼にとって、それは、事実を、淡々と述べていることに過ぎないのかもしれない。それでも、俺にとっては、ひどく嬉しい言葉だった。
俺は少し勇気を出して、もうひとつ、ずっと聞きたかったことを訊いた。
「あのさ。お前が初めて、俺を呼んだ日、覚えているか? あの時、どうして俺を、呼んだんだ」
「ああ……あの日の前後に、小耳にはさんだのだ。小波の甥が、お前を痛い目に遭わせるつもりだ、という話をな。だから、お前を匿うつもりで、お前を呼んだ。結局、大した意味はなかったが」
俺は目を瞬く。小波の甥とは、清之介のことだ。源太が昔、言っていたたことは、おおむね正しかったらしい。
忠頼は独り言のように続けた。
「だが、あれがなければ、今お前と、こうはなかっていなかったかもしれないな」
俺は、怪訝に思って、眉根を寄せる。
「何でだよ。お前は俺を、いつでも呼び出せたろう」
忠頼がわずかに目を眇め、親指で、俺の下唇に軽く触れる。
「大切なものを手に入れてしまったら、失うことも、同時に受け入れなければいけない。俺は臆病な人間だ。お前は、もうわかっているだろうが」
俺はふと、目の前の景色が、ゆっくりと、闇に沈んでいく気がした。
「……臆病な人間は、弱い人間じゃねえ」
俺は辛うじて、言葉を発する。忠頼の掌が、俺の頭の後ろに、ぽんぽんと二度触れる。
「そうだな。お前の言うとおりだ」
忠頼が、俺の目じりに口づけを落とす。虫の声が煩い。湿った気が、纏わりつく。
鼻をすする音で、俺はようやく、自分が泣きそうになっていることに気が付く。
俺は横になって、忠頼にぴったりと寄り添っていた。向こうを向いた忠頼の背の温みが、俺の肌に伝わってくる。
忠頼が小さく咳き込む。目の前の背中が、小さく揺れた。
寝床からむくりと体を起こした俺は、襦袢を軽く肩に引っ掛けて、部屋の隅まで歩く。水差しを手に取ると、碗に水を注いだ。
「ん」
寝床まで戻り、俺は忠頼に向かって碗を差し出す。
忠頼はすぐに二杯分の水を飲み干す。俺も、忠頼の返した碗に、なみなみと水を注ぐと、一気に喉に流し込む。
水差しを部屋の隅に戻した俺は、ふと、障子の前で立ち止まる。大きな蛾が、障子の向こうに張り付いていた。俺はそれを、内側から指で弾いた。蛾は、驚いて飛んでいく。
俺は障子を少し開き、外を眺めた。
屋根と生垣の間に、月が見えた。庭の草はつい半月前に刈ったばかりなのに、すでに、旺盛に生い茂っている。
遠くでひとつ、犬の遠吠えが聞こえた。
ひやりと重たい、夏の湿った気が充満していた。ふと、俺は自分が、闇にじっと目を凝らしている獣になったように錯覚する。
「弥次郎」
忠頼の声で、俺は我に返る。障子を閉めると、俺は再び、忠頼の傍に膝をついた。
俺は何の気なしに手を伸ばすと、忠頼の膝裏を、襦袢の上から指で撫でる。忠頼が、うっとおしそうに、脚の位置をずらした。
俺の中に、ちょっとした、悪戯心が沸いた。
俺はまず、忠頼の足に向かって身を屈め、腿の横に口づけを落とした。そのまま、忠頼の脚の輪郭をなぞるように。腿から足先に向かって、順に口づけを落としていく。最後の仕上げに、俺は忠頼の足の親指を、柔く噛んだ。
「……変なところを、かじるな」
忠頼のくぐもった声が、背後から聞こえた。
俺が体を起こすと、忠頼は、俺の腕をぎゅうと引き寄せて、俺は再び、忠頼の傍に収まった。
「嫌だったか?」
俺はちらりと忠頼の顔をうかがう。忠頼は目を閉じたまま、笑っていた。俺はすぐに、胸がいっぱいになって、忠頼の首元に、額を擦り付けながら呟く。
「お前、変わったな」
「なんだ、急に」
「なんてえか……前はもっとこう……いつも、ぶすっとしてたし」
「――お前も、変わったぞ。ひどく、頼りになる男になった」
予想していなかった誉め言葉に、俺は顔を上げる。面映ゆい想いに、俺は足をもぞもぞと動かす。
「……ほんとかよ。さっきまで散々、俺を虐めてたくせに」
忠頼は俺の体を、慈しむように、繰り返し愛撫する。忠頼の掌は、俺の肌にひどく馴染む。その肌の感触だけで、忠頼の思いが、伝わってくるような気がした。
「それは、お前が、愛いのが悪い。それに……俺の前では、お前は、頼りにならなくていい」
「けど、おれは……」
俺が、抗議の意をもって眉を寄せると、忠頼が、俺の髪を、前から後ろにすくように撫ぜた。忠頼が、俺の髪に手を触れる気持ちのよさに、俺は甘えるような吐息を吐く。
「……分かっている。俺はもう、お前を止める気はない」
ふと、辺りの闇が濃くなったような気がした。
障子の裏側を歩く蛾の影が、忙しなく動く。蛾は障子から離れてはくっつき、その度に、とつ、とつ、と音がした。
俺はふいに、焦燥に駆られた。
――もっと何か、話すべきことがあるんじゃないか。
言っておいた方がよい事が、語らなければいけないことが、もっと――ほかにも、たくさん、たくさんある気がした。
俺は急かされるように、忠頼に訊く。
「なあ。あんたは、いつから――俺のこと、好きになったの」
忠頼は、少し黙った。俺はすぐに、自分の質問に後悔する。しかし、忠頼は静かに言った。
「わからないな。でも初めから……お前がいるところは、なぜか明るく見えるのだ。人の中に紛れていても、お前のことは、すぐに見つけることができる。不思議だな」
俺は、にわかに、頬が熱くなるのを感じた。
忠頼にとって、それは、事実を、淡々と述べていることに過ぎないのかもしれない。それでも、俺にとっては、ひどく嬉しい言葉だった。
俺は少し勇気を出して、もうひとつ、ずっと聞きたかったことを訊いた。
「あのさ。お前が初めて、俺を呼んだ日、覚えているか? あの時、どうして俺を、呼んだんだ」
「ああ……あの日の前後に、小耳にはさんだのだ。小波の甥が、お前を痛い目に遭わせるつもりだ、という話をな。だから、お前を匿うつもりで、お前を呼んだ。結局、大した意味はなかったが」
俺は目を瞬く。小波の甥とは、清之介のことだ。源太が昔、言っていたたことは、おおむね正しかったらしい。
忠頼は独り言のように続けた。
「だが、あれがなければ、今お前と、こうはなかっていなかったかもしれないな」
俺は、怪訝に思って、眉根を寄せる。
「何でだよ。お前は俺を、いつでも呼び出せたろう」
忠頼がわずかに目を眇め、親指で、俺の下唇に軽く触れる。
「大切なものを手に入れてしまったら、失うことも、同時に受け入れなければいけない。俺は臆病な人間だ。お前は、もうわかっているだろうが」
俺はふと、目の前の景色が、ゆっくりと、闇に沈んでいく気がした。
「……臆病な人間は、弱い人間じゃねえ」
俺は辛うじて、言葉を発する。忠頼の掌が、俺の頭の後ろに、ぽんぽんと二度触れる。
「そうだな。お前の言うとおりだ」
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