ただの雑兵が、年上武士に溺愛された結果。

みどりのおおかみ

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四章

虚日9 生還


  無我夢中だった。
「うぉぉ……っ」
 俺は全身の力を腕に籠め、熊の口から、己の頭を引き離す。
 果たして、俺の頭は再び、熊の口から出た。
 しかし、安心している間はない。
 熊は再び俺に牙を向け、大口を開けて俺に覆いかぶさろうとしてくる。
 俺は叫び声をあげながら、熊の口の中めがけて、持っていた槍を突き出す。
 槍は、まっすぐに熊の喉奥に刺さった。
 熊は、自分の身に何が起こったのか、わからないというように、呻き叫んだ。
 その断末魔のような声に、辺りの気がびりびりと震える。
 俺は祈るような気持ちで、熊を見ていた。
――どうか、これで、死んでくれ。
 自分の荒い息と、胸を打つ鼓動だけが、俺がまだ生きていることを知らせていた。
――もう武器はない。次にこいつが襲ってきたら、俺は――。
 しかし、俺の祈りは聞き届けられなかった。
 熊は喉をめちゃくちゃに掻きむしると、首を振り、口を閉じようとした。
 槍の柄が、ばきりと折れる音がする。
 それは一瞬の事だったが、酷くゆっくりと見えた。
 絶望の中、俺は酷く冷静にこう思った。
――この熊は、そのうち死ぬ。だがその前に、俺が死ぬ。
 その時だった。ひどく耳障りな音がして、熊と俺は同時に音のする方へ振り向いた。
 そこには、泰蔵と宗十郎がいた。
 めちゃくちゃな大声を上げながら、短刀と鍋を打ち合わせている。
 いつの間にか、雲が切れ、太陽の光が強くなっていた。
 刀はキラキラと光っている。
 熊は光と音に驚いたのか、数歩後退した。
 そして驚くことに、熊はそのまま、のろのろと、森の中へ逃げて行った。
 俺は、ただ夢を見ているような心持ちで、木々の隙間に消える熊の後ろ姿を、ぼんやりと見ていた。
――助かった……?
 俺は、ゆっくりと、宗十郎たちの方へ歩き出した。
 しかし、歩き出した途端に、俺は急に眩暈がして、なんとか、その場で踏ん張る。身体がようやく、自らの重さを思い出した、という風だった。
 二人は茫然と突っ立っていたが、俺が歩いてくるのを見て、慌てて駆け寄ってきた。
「三郎、大丈夫か」
「おう。平気だ。」
「馬鹿者、平気なわけがあるか、この阿呆」
 そう言いながら、宗十郎は、しゃっくり上げて、泣き出した。
「――ああ。助けてくれてありがとうな」
 泰蔵は目を見開き、蒼白になった顔で、ぼうっとしていた。だが、俺の言葉で、ハッとしたように、急いで懐から手ぬぐいを取り出す。
「三郎殿、血が。止血します」
 泰蔵は手拭を俺の頭に巻き付けようとする。だが、泰蔵の手は震え、手拭は幾度も滑って解けるので、なかなか上手く行かない。
「大丈夫。自分でやるよ。それより早く山を下りよう」
 泰蔵が震えながらも、頷いた。
「は――はい」
 泰蔵がすぐに、荷物を取りに走る。
 宗十郎と俺も、その後を追うように、二人で歩きだす。
 ずっと鼻をすすっていた宗十郎が、ぽつりと言った。
「ごめん、三郎」
「なんだ?」
「……おしっこもれた」
「泰蔵に替えをもらえ」
 俺は苦笑して、宗十郎の頭を撫でた。



 子供が声を張り上げ、駆ける。俺は再び顔を顰めた。
「うぐぅ……っ」
 床を伝わる微妙な振動が頭に響く。ひどい気分だった。
 俺はゆっくりと目を開ける。
 天井の梁が見える。明るさからして、今は夕刻のようだ。子供を嗜める母親の声が聞こえた。
 俺は痛みを和らげるために、深く息を繰り返す。
 ふと、どこからか漂ってきた出汁のいい匂いが、鼻先をかすめる。
――家庭の、匂いだ。
 俺たちは熊に襲われた後、すぐに小さな民家を見つけた。それは夏の間の仮ぐらしの家だったが、幸いにもまだ住人がいた。宗十郎と泰三が頼み込み、俺たちはそこで休ませてもらったのだ。
「失礼します」
 ふいに、すらりと戸が開いた。
 首が痛くて動かせない俺は、目線だけを少し右にずらした。すると声の主である、泰蔵の顔がちらりと見えた。
 泰蔵は俺の隣に座りながら言った。
「大変でしたね」
「……大変どころの騒ぎじゃねえよ」
「でも死んでませんから。幸運ですよ」
 泰蔵の言葉に、俺は言い返す気も失せる。泰蔵は、すっかり落ち着いて、いつもの調子に戻っていた。
「――弥次郎殿」
「その名前で呼ぶな」
「いえ、呼ばせてもらいます」
 泰蔵はその場で袴を整え、背筋を伸ばし、居ずまいを正した。
「弥次郎殿。宗十郎様を助けてくださって、本当にありがとうございました」
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