37 / 99
第2会 ぬくもりのありかを探す駅
第16話 甘い誘惑①
しおりを挟む
「少し、歩かねーか?」
聡介さんの言葉に私は小さく頷いて、重い腰を上げる。長く座っていたせいで、足元が少しふらついた。
彼の隣に並び、線路沿いをゆっくり歩き出す。人気のない下りホーム。ホームの上屋から吊るされたランタンが、まるでイルミネーションみたいに淡い光を放つ。そんなロマンチックな光景に思わずうっとりしてしまう。
とくに話すこともなく、しばらく並んで歩いていたけれど、ふと彼が立ち止まった。何かに耳を澄ますように手のひらを耳に近づけてじっとしている。
「……どうしたの?」
「……聞こえないか。川の音がする」
私も耳に手を当てて、そっと目を閉じた。静けさのなかに、微かな水音が浮かび上がってくる。
「……ほんとだ。水の音がする」
「近くに川でも流れているのかもしれねーな」
周囲を窺いながら、彼がつぶやく。私も辺りを見まわしてみたけれど、駅の外はどこも闇に包まれていて何があるのかすらわからない。まるで舞台のセットみたいに、駅だけがぽつんと現実から切り離されている気がした。
彼も同じことを思ったのか、音の発生源を探すのはやめて、また歩き出す。
「……そういや、前にもお前と一緒にこうやって歩いたよな。琵琶湖疏水沿いを。覚えてるか?」
「もちろん。忘れたことないわ。あれは伏見稲荷大社に行った帰りだった。あの日は春なのにとっても暑くて、途中のコンビニでアイスを買ったよね」
「そうそう。ベンチで食べようとしたら、鳩に襲われたんだよな、俺。そんでアイス、ズボンに落としちまってな」
苦笑する聡介さんに、当時の光景が蘇り思わず口角が上がる。あれは、あの日のハイライトだったかもしれない。
「あのときは、大変だったわね。聡介さん、鳩そっちのけで『あー! 俺の一張羅がー!』って大声だして。私、おかしくってお腹抱えて笑ったもん」
「ひでーな。あのあと汚れたズボンで家まで帰らなきゃならん俺の気にもなってみろよ」
気づけば、ふたりして同じ場面を懐かしむように笑っていた。でも、その笑いもどこか切ない。あのときの空気も、時間も、もう戻らない。──そしてこの時間も。
残酷な現実を突きつけられたような気がして、私は笑顔の反面、心は苦しかった。
会話の切れ間がきて、無言で歩き続ける。だけど気まずくなんかない。
以前、誰かが言っていたことを思い出す。──本当に相性がいい人となら、黙っているだけでも心地よい。
ほんとだな、と思う。私は聡介さんと話しているときも、今みたいに黙って並んで歩いているときも、どちらの時間も、終わってしまうのが惜しいほど愛おしい。
4両編成の電車が収まる程度の短いホームはすぐに端にたどり着いてしまった。線路とホームを区切る柵の前で、私はその先を見つめる。月明かりが反射して鈍色に輝くレールは十数メートル先で完全に闇に飲み込まれている。あの先にあるものはなんなのだろう。
隣の駅なのか、はたまたあの世なのか。
月の光さえ届かない闇がすぐそこで口を開けていると思うと、体の奥底から寒気にも似た感覚が這い上がってくる。咄嗟に視線をそらして、聡介さんに飛びついた。
「どうしたんだ、玲子」
不思議そうな顔で首を傾げる彼に、「大丈夫、ふらついただけ」とごまかした。
「大丈夫か? 戻って休むか?」
「ううん。本当に足を取られただけだから、気にしないで」
私の言葉に納得したのか、聡介さんはそれ以上何も言わなかった。代わりに途切れたホームの先を見る。
「……もう端に着いちまったな。戻るか」
踵を返した聡介さんの背中を私も追う。辺りは夜なのに虫の鳴き声すら聞こえない。遠くを流れる川の音だけが時折り、風に乗って聞こえてくるだけだ。
帰りの道すがらも私たちは沈黙を楽しんだ。聞こえるのは、ふたりの足音だけ。
ゆっくり、ゆっくり。一歩、一歩。疏水沿いを歩いたあの頃の気分になって、静かに歩く。
私のパンプスと彼の革靴が奏でる二重奏が、ひと気のないホームで唯一、音として息づいていた。
ほんのひとときだけ、その演奏が続いたかと思えば──彼が立ち止まった。
「……それで、お前は。なんで俺を呼んだんだ?」
その一言が、私の胸に突き刺さった。わかってる。答えなきゃいけないのはわかってる。でも、声が出なかった。
「………………」
「巫女のねーちゃんが言ってた。生きてる人間も死んだ人間も会える機会は1回だけだってな。そんな貴重な1回を使ったんだ、何かあったんだろ?」
聡介さんの問いかけに、胸の奥が熱くなった。──彼には敵わない。
「……ねぇ、聡介さん。もし、あのままあなたが生きていたら……私、今どうしてたかな」
答えになっていない答えだった。それでも、彼は何も言わずに立ち尽くしている。
俯いたまま、唇を噛む。目の奥が、じわりと熱を帯びる。
「……あの事故で聡介さんを喪ったあと、私、怖かったの。あなたの痕跡に触れることが。もし、触れてしまったら、もう二度とあの頃の日々に戻れないような気がして、変化が怖くなった。あなたとの日常が過去になるのが怖かったの」
一度胸に溜まっていたものを吐き出すと、もう止まらない。言葉が、堰を切ったように溢れ出てくる。
「私だって、このままじゃダメだってことは分かってる。何もしなくても時間は平等に過ぎていくんだから。気がつけば、同級生たちは次々に新しいステージに進んで、私だけが取り残されている。でも無理なの。私はどうしたらいいか、わからない。もう疲れたの……」
喉の奥がつまって、息がしにくい。
聡介さんの言葉に私は小さく頷いて、重い腰を上げる。長く座っていたせいで、足元が少しふらついた。
彼の隣に並び、線路沿いをゆっくり歩き出す。人気のない下りホーム。ホームの上屋から吊るされたランタンが、まるでイルミネーションみたいに淡い光を放つ。そんなロマンチックな光景に思わずうっとりしてしまう。
とくに話すこともなく、しばらく並んで歩いていたけれど、ふと彼が立ち止まった。何かに耳を澄ますように手のひらを耳に近づけてじっとしている。
「……どうしたの?」
「……聞こえないか。川の音がする」
私も耳に手を当てて、そっと目を閉じた。静けさのなかに、微かな水音が浮かび上がってくる。
「……ほんとだ。水の音がする」
「近くに川でも流れているのかもしれねーな」
周囲を窺いながら、彼がつぶやく。私も辺りを見まわしてみたけれど、駅の外はどこも闇に包まれていて何があるのかすらわからない。まるで舞台のセットみたいに、駅だけがぽつんと現実から切り離されている気がした。
彼も同じことを思ったのか、音の発生源を探すのはやめて、また歩き出す。
「……そういや、前にもお前と一緒にこうやって歩いたよな。琵琶湖疏水沿いを。覚えてるか?」
「もちろん。忘れたことないわ。あれは伏見稲荷大社に行った帰りだった。あの日は春なのにとっても暑くて、途中のコンビニでアイスを買ったよね」
「そうそう。ベンチで食べようとしたら、鳩に襲われたんだよな、俺。そんでアイス、ズボンに落としちまってな」
苦笑する聡介さんに、当時の光景が蘇り思わず口角が上がる。あれは、あの日のハイライトだったかもしれない。
「あのときは、大変だったわね。聡介さん、鳩そっちのけで『あー! 俺の一張羅がー!』って大声だして。私、おかしくってお腹抱えて笑ったもん」
「ひでーな。あのあと汚れたズボンで家まで帰らなきゃならん俺の気にもなってみろよ」
気づけば、ふたりして同じ場面を懐かしむように笑っていた。でも、その笑いもどこか切ない。あのときの空気も、時間も、もう戻らない。──そしてこの時間も。
残酷な現実を突きつけられたような気がして、私は笑顔の反面、心は苦しかった。
会話の切れ間がきて、無言で歩き続ける。だけど気まずくなんかない。
以前、誰かが言っていたことを思い出す。──本当に相性がいい人となら、黙っているだけでも心地よい。
ほんとだな、と思う。私は聡介さんと話しているときも、今みたいに黙って並んで歩いているときも、どちらの時間も、終わってしまうのが惜しいほど愛おしい。
4両編成の電車が収まる程度の短いホームはすぐに端にたどり着いてしまった。線路とホームを区切る柵の前で、私はその先を見つめる。月明かりが反射して鈍色に輝くレールは十数メートル先で完全に闇に飲み込まれている。あの先にあるものはなんなのだろう。
隣の駅なのか、はたまたあの世なのか。
月の光さえ届かない闇がすぐそこで口を開けていると思うと、体の奥底から寒気にも似た感覚が這い上がってくる。咄嗟に視線をそらして、聡介さんに飛びついた。
「どうしたんだ、玲子」
不思議そうな顔で首を傾げる彼に、「大丈夫、ふらついただけ」とごまかした。
「大丈夫か? 戻って休むか?」
「ううん。本当に足を取られただけだから、気にしないで」
私の言葉に納得したのか、聡介さんはそれ以上何も言わなかった。代わりに途切れたホームの先を見る。
「……もう端に着いちまったな。戻るか」
踵を返した聡介さんの背中を私も追う。辺りは夜なのに虫の鳴き声すら聞こえない。遠くを流れる川の音だけが時折り、風に乗って聞こえてくるだけだ。
帰りの道すがらも私たちは沈黙を楽しんだ。聞こえるのは、ふたりの足音だけ。
ゆっくり、ゆっくり。一歩、一歩。疏水沿いを歩いたあの頃の気分になって、静かに歩く。
私のパンプスと彼の革靴が奏でる二重奏が、ひと気のないホームで唯一、音として息づいていた。
ほんのひとときだけ、その演奏が続いたかと思えば──彼が立ち止まった。
「……それで、お前は。なんで俺を呼んだんだ?」
その一言が、私の胸に突き刺さった。わかってる。答えなきゃいけないのはわかってる。でも、声が出なかった。
「………………」
「巫女のねーちゃんが言ってた。生きてる人間も死んだ人間も会える機会は1回だけだってな。そんな貴重な1回を使ったんだ、何かあったんだろ?」
聡介さんの問いかけに、胸の奥が熱くなった。──彼には敵わない。
「……ねぇ、聡介さん。もし、あのままあなたが生きていたら……私、今どうしてたかな」
答えになっていない答えだった。それでも、彼は何も言わずに立ち尽くしている。
俯いたまま、唇を噛む。目の奥が、じわりと熱を帯びる。
「……あの事故で聡介さんを喪ったあと、私、怖かったの。あなたの痕跡に触れることが。もし、触れてしまったら、もう二度とあの頃の日々に戻れないような気がして、変化が怖くなった。あなたとの日常が過去になるのが怖かったの」
一度胸に溜まっていたものを吐き出すと、もう止まらない。言葉が、堰を切ったように溢れ出てくる。
「私だって、このままじゃダメだってことは分かってる。何もしなくても時間は平等に過ぎていくんだから。気がつけば、同級生たちは次々に新しいステージに進んで、私だけが取り残されている。でも無理なの。私はどうしたらいいか、わからない。もう疲れたの……」
喉の奥がつまって、息がしにくい。
10
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
小さなパン屋の恋物語
あさの紅茶
ライト文芸
住宅地にひっそりと佇む小さなパン屋さん。
毎日美味しいパンを心を込めて焼いている。
一人でお店を切り盛りしてがむしゃらに働いている、そんな毎日に何の疑問も感じていなかった。
いつもの日常。
いつものルーチンワーク。
◆小さなパン屋minamiのオーナー◆
南部琴葉(ナンブコトハ) 25
早瀬設計事務所の御曹司にして若き副社長。
自分の仕事に誇りを持ち、建築士としてもバリバリ働く。
この先もずっと仕事人間なんだろう。
別にそれで構わない。
そんな風に思っていた。
◆早瀬設計事務所 副社長◆
早瀬雄大(ハヤセユウダイ) 27
二人の出会いはたったひとつのパンだった。
**********
作中に出てきます三浦杏奈のスピンオフ【そんな恋もありかなって。】もどうぞよろしくお願い致します。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる