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30 そばにいたいから(2)
しおりを挟む冬の寒さが一段と厳しい、一月下旬。いよいよ今週末、夕美の実家へ千影と訪れるという頃。
千影が言った通り、最近は仕事も落ち着き、日常生活に余裕が出てきた。
……余裕が出て来たから気づくようになったのだろうか。そんなふうに気になる出来事が続けて起きていた。
スーパーに寄った夕美は、ふと視線の先にいる男性を見て足が止まる。そこにいたのはボサボサ頭にメガネを掛けた、隣人だった。
(偶然とはいえ、最近よく会うよね……?)
会うといっても挨拶を交わすでもなく、存在を認識する程度だ。しかし、やけに頻度が高い気がする。
今日はスーパー、昨日の朝は駅前、おとといは駅から離れた書店――。
(今まで気づかなかっただけで、生活サイクルが似ていたのかも?)
思い返せば、夕美が家に帰ってから五分以内に、隣のドアがバタンと閉まる音がする、ということがたびたびあった。
(朝は、私がドアを開けると、すぐに出てくることもある。毎日じゃないけど)
何をされたというわけではない。
隣に住んでいるのだから、近所で会うのは当然のことだ。
夕美は彼と距離を取りながら、カゴに野菜を入れていく。
(でも……、アパートの他の住人と会うことってほとんどないし、大家さんだって滅多に見かけることはない。そう考えると、なんか……)
そのとき、ふと頭をよぎった記憶が、夕美の悪寒を誘った。
(千影さんと旅行に行く前、あの人もカフェに来たよね? 私は平日に休みを取っていたから、いつもの仕事に行く日よりは遅い時間だった。それも偶然なの……?)
ただの自意識過剰の妄想に過ぎないのは、わかっている。
でも、と夕美は思う。こういう「勘」を、ないがしろにしないほうがいいのではないか。
(やっぱり無理してでも、早く引っ越し業者を決めちゃおう。何もなければそれでいいんだから)
カゴに入れた野菜を戻した夕美は、その足でスーパーを出る。
肩に掛けたバッグの持ち手をギュッと掴み、寒さに凍える帰路を急いだ。
――土曜日。夕美は千影とともに昼頃の新幹線に乗り、長野へ向かっていた。
「あっちはだいぶ雪が積もってるんじゃないか?」
二人席に座り、人心地ついたところで千影が問う。
「積もってるけど、今年はいつもより少ないんだって。お天気が良くて良かった。旅行の時もいい天気だったから、嬉しい」
「僕は結構な雨男のはずなんだけど、夕美と一緒だと晴れるんだよ。ありがたいね」
「そうなの?」
嬉しくなって笑みを浮かべると、その頬に触れた千影も微笑んだ。
とたんに幸せな感情が夕美の心にあふれ出し、体中も包んでいく。
早速、購入した駅弁を食べることにした。夕美はチキン弁当、千影は釜飯弁当だ。
新幹線に乗る楽しみは駅弁を食べることにあると言っても過言ではない。
夕美はそんなことを思いながら、いそいそと弁当をひらいた。鳥の唐揚げと、トマトソースで味付けされたライスが美味しそうだ。
「はい、どうぞ」
いただきますをした夕美の目の前に、箸でつままれた鶏肉が差し出される。
「えっ」
「これ好きでしょ? 一個あげる」
「あ、ありがと……」
これはいわゆる「あーん」でいいのだろうか。そんな素敵なことを今ここで……!?
チラと千影の顔を見ると、彼がニッコリ笑ってうなずいた。「あーん」の認識でOKということだろう。
(なんというシチュエーション……! 録画したい! 記念撮影したい!)
という気持ちを飲み込んで、鶏肉を口に入れる。甘辛く味付けされたそれはとても柔らかく、美味しい。
「んっ、美味しい! じゃあ私のも、どうぞ」
鶏の唐揚げを箸でつまんで差し出すと、彼が笑った。
「こんなに大きいのをくれるの? あとで恨みっこなしだよ?」
「まだあるから大丈夫。それに、そんなことで怒らないってば」
夕美の言葉に千影が笑いながら、パクッと唐揚げを口にした。
「うん、美味いね! 食べさせてもらったから、余計に美味しいな」
「も、もう……」
まさかの新幹線で、こんないちゃいちゃが発生するとは……、と恥ずかしくなり、思わず周りを見回してしまう。
だが、前に座る男性は寝ているようだし、通路の向こう側の人も自分の弁当を食べていて、こちらを気にも留めていなかった。
じゃあ後ろの人は……、と座り直すフリをしながら振り向いた瞬間、夕美の体がビクッと反応した。
ぼさっとした髪にメガネを掛けた男性がいる。
「あ……」
しかしすぐに隣人とは違う人物だとわかった。隣人の男性よりも老けていたし、体型もまるで違う。
「どうしたの?」
千影が箸を止めて、夕美の顔を覗き込んだ。
「う、ううん。なんでもないの。知り合いかと思ったら全然違っただけ」
まだ心臓がドキンドキンと大きく鳴っている。
「あるよね、そういうの」
クスッと笑った千影が、「ご飯も食べてみて」と再び箸を向けてきた。出汁が利いたホッとする味のご飯に、夕美の気持ちが和らぐ。
少しずつ都会から離れていく窓の外の景色に目をやり、温かいお茶を飲んだ。
(落ち着こう。引っ越し業者も、引っ越す日にちも決まったんだから、大丈夫。隣人には何もされていないんだし、私の気にしすぎで終わる、それだけのこと)
ホッと息を吐いたその時、千影が夕美の手を握った。
「僕がいるから大丈夫だよ」
「え……?」
何も伝えていないのに、夕美を気遣う言葉が気になったが、彼はもともとそういう人だ。
理由はわからずとも、夕美の不安な気持ちをいち早く察してくれたのだろう。
「……うん。そばにいてね」
うなずいた夕美は、大きな温かい彼の手をそっと握り返した。
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