29 / 61
29 そばにいたいから(1)
しおりを挟む「千影さん? 急にごめんなさい。直接お話したくて」
仕事を終えて帰宅した夕美は千影にメッセージを送り、彼の了承を得てから通話に切り替えた。
『いや、大丈夫だよ。どうした?』
彼の穏やかな声を聞くだけで、心が満たされる。冷えていた体までポカポカしてくるから不思議だ。
「うちの実家に行く日なんだけど、二月初旬はどうかなって。オフシーズンに入るから、金土日の三日間を休みにするらしいの」
結婚について正式に挨拶がしたいと千影に言われていたので、両親に予定を聞いていたのだ。ふたりとも、夕美と千影が一緒に訪れるのを喜んでくれた。
『僕も君も、その頃にはいったん仕事は落ち着くんじゃないかな。ぜひ伺わせてほしいって伝えてくれる?』
「良かった! じゃあ伝えておくね」
『すぐにでも挨拶はしたいけど、ご両親の貴重なお休みに僕が伺っても大丈夫かな。かといって宿泊客がいるときだと、落ち着いて話はできないか……』
千影が不安げな声を出した。
こういう謙虚なところは、以前から変わらない。夕美が尊敬する彼の長所だ。
「両親も千影さんに会いたがってるんだもの。もちろん大丈夫よ。私よりも千影さんに会えるほうが嬉しいんじゃない?」
『あははっ、絶対にそんなことないよ。ご両親にとっては娘が一番に決まってるじゃないか。でも嬉しいな。楽しみだね』
「うん。すごく楽しみ」
明日の仕事に差し支えそうなので、その後はおやすみの挨拶をして通話を終えた。
夕美はスマホを両手で握りしめながら、大きなため息を吐く。
「千影さん、好き……。ずっと一緒にいたい。ずっと声を聞いていたい……。早く一緒に住みたい……」
千影が誘ってくれた同棲を実現させるべく、一刻も早く彼のもとへ引っ越したいのだが、年明けからの仕事に忙殺されている夕美は、引っ越し業者に見積もりを取ってもらうことすら出来ずにいた。
「忙しすぎて推し活手帳も書けてないし、新作の社長ぬいも作れなくてストレス発散もできないのよね。……あ、お風呂」
夕美はスマホをテーブルに置いて立ち上がり、お風呂場に向かった。
アパートの給湯設備は古めなので、「お風呂が沸きました♪」とお知らせしてくれる機能が付いていないため、自分で止めるのだ。
「うん、ちょうどいい感じ。このまま入っちゃおう」
お気に入りの入浴剤を脱衣所の棚から取り出し、夕美は服を脱いだ。
脱衣所は寒く、急いで風呂場に入る。シャワーを浴びて、足先を湯船に入れた。
「あー、気持ちいい……。生き返る~……」
心地よい熱さに身を浸し、一日の疲れを解放する。
そもそもこんなに忙しいのは、夕美が担当していたT社と取引がなくなり、新規のプロジェクトに関わるチームに配属されたからだ。
今回はひとりで担当ではなく、先輩らとチームを組んでいるのだが、相手の規模が大きいこともあり、やることの多さがT社の比ではなかった。
「とはいえ、これも社長のため。イコール千影さんの幸せのためなんだから、頑張らないとね」
新しい仕事は大変だが、やりがいがあり、楽しくもあった。もちろん自分自身のためにもなる。
夕美だけではなく、千影も社長として忙しく、休日も動いていた。
社内で会えた時は目配せをするくらいで、後でスマホのやり取りをするだけ。なかなかゆっくり会えず、寂しく感じることが多かった。
「年末年始は幸せだったな。……って、何を贅沢なことを言ってるのよ……!」
少し前までは考えられなかった、千影との距離。
千影に食事に誘われ、お見合いをし、プロポーズをされて、結婚の約束までした。彼に体ごと愛されて、そのうえ結婚までの間は同棲をすることになった。
「こんなにも幸せなのに、少し会えないくらいで不満を持たないの」
今さっきも彼の声を聞いたばかりだ。明日会社に行けば、彼の姿も見ることができる。挨拶だって交わせる。
そう言い聞かせるのに、千影との甘い数日間が夕美のすべてに染みこんでいて、もう一度味わいたいと心と体が要求してくるのだった。
24
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
会社のイケメン先輩がなぜか夜な夜な私のアパートにやって来る件について(※付き合っていません)
久留茶
恋愛
地味で陰キャでぽっちゃり体型の小森菜乃(24)は、会社の飲み会で女子一番人気のイケメン社員・五十嵐大和(26)を、ひょんなことから自分のアパートに泊めることに。
しかし五十嵐は表の顔とは別に、腹黒でひと癖もふた癖もある男だった。
「お前は俺の恋愛対象外。ヤル気も全く起きない安全地帯」
――酷い言葉に、菜乃は呆然。二度と関わるまいと決める。
なのに、それを境に彼は夜な夜な菜乃のもとへ現れるようになり……?
溺愛×性格に難ありの執着男子 × 冴えない自分から変身する健気ヒロイン。
王道と刺激が詰まったオフィスラブコメディ!
*全28話完結
*辛口で過激な発言あり。苦手な方はご注意ください。
*他誌にも掲載中です。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる