50 / 61
50 千影視点 僕の女神へ(1)
しおりを挟む千影は、自分を見上げている夕美の髪を撫でながら、当時はまだ高校生だった彼女との出会いを思い出す。とたんにノスタルジックな甘酸っぱさが胸の中に広がった。
「僕が崖から飛び降りようとしたとき、夕美が引き止めてくれた。……さすがに忘れてないよね? いや、思い出してくれたんだよね?」
「あ……あの人って、千影さんだったの?」
夕美は、戸惑いと怯えを混ぜた複雑な瞳で千影を見つめている。
……ああ、なんて可愛らしいのだろう。
「そうだよ。どうせ死ぬなら、僕が好きな自然の中がいいと思って、適当にあの場所を選んだ」
「でも、宿泊者名簿には千影さんの名前なんて――」
「この前、僕らが夕美の実家に泊まったときのことだね。僕に隠れて必死に名簿リストを漁ってた夕美のこと、抱きしめたくて仕方なかったなぁ」
クスッと笑いかけると、彼女は泣きそうな顔をする。今すぐにでも彼女の何もかもを奪いたくなるが、どうにか抑えた。
千影は起き上がって、夕美の横に寝転んだ。少々狭いので横向きになり、彼女の体もこちらへ向かせて優しく抱きしめる。
嫌がる素振りはないので、話を続けることにした。
「もちろん偽名を使ったんだよ。住所もデタラメだ。死んでもすぐに素性がわからないように」
「だ、だったら、わざわざ宿泊の予約を取らなくても」
疑念をぶつけてくる声は震えており、千影の胸中もそれに呼応して甘く震える。
「まぁ、普通はそう考えるよね、うん。君は正しい」
夕美の体を抱きしめながら、千影はうなずいた。彼女は黙して、まるで身を潜めるかのように千影の腕の中でじっとしている。
この宝物を壊さないようにしたいのに、同時に抱き潰したくもなるのはなぜだろう。そんな思いを抱えながら、千影は続きを話す。
「でも、あのときの僕はそうした。死んだあとで、やっぱり見つけてほしかったのかな。……よく覚えてないんだ。気づいたらもう、山の奥へ向かっていたから」
あの日の、夕美に出会うまでの記憶は今でも曖昧だ。ただただ自分を消したくて、ビジネスの予定があったにも関わらず、遠くへ向かう電車に飛び乗っていた。そこまでの道のりや、駅についてからの行動、いつどこから宿の予約を入れたのかも、よく思い出せない。
断片的な記憶に残っているのは、東京駅構内のざわめきや、いつの間にか在来線に乗っていたこと。乗り換えをする時に、一度だけ訪れたことのある長野へ向かおうとぼんやり思ったこと。車窓から見える田園風景、ホームに降り立ったときの涼しい空気、森の木々の匂い、くらいだ。
「君に止められたあと我にかえった僕は、ロッジで自分の姿を確認して笑っちゃったよ。スーツ姿に山用のジャケットを羽織ってさ、履いていたのは革靴だった。お義父さんたちには奇妙な客だと思われただろうな。あ、君もそう思ったよね」
夕美の肩が小さく揺れた。急に矛先を向けられて驚いたのだろう。
「それよりも、ああまでしないと、あのときのことを思い出してくれないだなんて、それはちょっと悲しかったかな」
「……」
夕美の言葉が届かない。
「ん? もう一回言って?」
「……ぜんぶ、思い出させるために……? あの山での出来事を私に……、それで一緒に実家へ行ったの……?」
蚊の泣くような声だったが、どうにか聞き取れた。
「夕美は僕を救ってくれた。君がいなければ、僕はこうして生きてはいない。元気になったら、あのときのお礼を言おうと決めていた。でも……」
夕美と約束した通り、元気になって再出発を果たせたら、彼女がいたロッジへ行き、お礼を言って腕時計を渡そう。そう思っていたのだが……。
「でも……?」
「君を好きになっちゃったから、それだけじゃ物足りなくなったんだ。だから敢えて僕から言わずに、君に思い出してほしかった」
当時、夕美はまだ高校生であり、女性として見るつもりはなかった。だがその後、何年もロッジへ通う内に、いつの間にか彼女に惹かれてしまったのだ。そこで彼女に会うことはなかったにも関わらず。
「……千影さん、教えて。私と出会う前に、何があったの? どうして死のうだなんて……」
「夕美が聞きたいなら話すよ。途中で逃げ出さないと約束してくれれば」
千影の言葉を聞いた夕美の体が固くなる。
「……逃げない」
「わかった」
もう震えてはいない彼女の声に強い意思を感じ、千影は記憶の奥深くへと沈み込んでいった。
25
あなたにおすすめの小説
包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。
契約結婚のはずなのに、冷徹なはずのエリート上司が甘く迫ってくるんですが!? ~結婚願望ゼロの私が、なぜか愛されすぎて逃げられません~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
恋愛
「俺と結婚しろ」
突然のプロポーズ――いや、契約結婚の提案だった。
冷静沈着で完璧主義、社内でも一目置かれるエリート課長・九条玲司。そんな彼と私は、ただの上司と部下。恋愛感情なんて一切ない……はずだった。
仕事一筋で恋愛に興味なし。過去の傷から、結婚なんて煩わしいものだと決めつけていた私。なのに、九条課長が提示した「条件」に耳を傾けるうちに、その提案が単なる取引とは思えなくなっていく。
「お前を、誰にも渡すつもりはない」
冷たい声で言われたその言葉が、胸をざわつかせる。
これは合理的な選択? それとも、避けられない運命の始まり?
割り切ったはずの契約は、次第に二人の境界線を曖昧にし、心を絡め取っていく――。
不器用なエリート上司と、恋を信じられない女。
これは、"ありえないはずの結婚"から始まる、予測不能なラブストーリー。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
エリート役員は空飛ぶ天使を溺愛したくてたまらない
如月 そら
恋愛
「二度目は偶然だが、三度目は必然だ。三度目がないことを願っているよ」
(三度目はないからっ!)
──そう心で叫んだはずなのに目の前のエリート役員から逃げられない!
「俺と君が出会ったのはつまり必然だ」
倉木莉桜(くらきりお)は大手エアラインで日々奮闘する客室乗務員だ。
ある日、自社の機体を製造している五十里重工の重役がトラブルから莉桜を救ってくれる。
それで彼との関係は終わったと思っていたのに!?
エリート役員からの溺れそうな溺愛に戸惑うばかり。
客室乗務員(CA)倉木莉桜
×
五十里重工(取締役部長)五十里武尊
『空が好き』という共通点を持つ二人の恋の行方は……
恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~
泉南佳那
恋愛
「よっしゃー」が口癖の
元気いっぱい営業部員、辻本花梨27歳
×
敏腕だけど冷徹と噂されている
俺様部長 木沢彰吾34歳
ある朝、花梨が出社すると
異動の辞令が張り出されていた。
異動先は木沢部長率いる
〝ブランディング戦略部〟
なんでこんな時期に……
あまりの〝異例〟の辞令に
戸惑いを隠せない花梨。
しかも、担当するように言われた会社はなんと、元カレが社長を務める玩具会社だった!
花梨の前途多難な日々が、今始まる……
***
元気いっぱい、はりきりガール花梨と
ツンデレ部長木沢の年の差超パワフル・ラブ・ストーリーです。
私の婚活事情〜副社長の策に嵌まるまで〜
みかん桜
恋愛
身長172センチ。
高身長であること以外ごく普通のアラサーOL、佐伯花音。
婚活アプリに登録し、積極的に動いているのに中々上手く行かない。
「名前からしてもっと可愛らしい人かと……」ってどういうこと?
そんな男、こっちから願い下げ!
——でもだからって、イケメンで仕事もできる副社長……こんなハイスペ男子も求めてないっ!
って思ってたんだけどな。気が付いた時には既に副社長の手の内にいた。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる