最推しと結婚できました!

葉嶋ナノハ

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51 千影視点 僕の女神へ(2)

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 一番古い記憶を辿ってみても、張り詰めた空気しかない家の中で、両親の顔色を窺っていたことしか思い出せない。その後も、仲が良かった両親の姿を見ることはなかった。

 千影が中学生になると、父は家に帰ってこなくなり、母も恋人と泊まりに行き、何日も帰らないことがあった。
 必然的にひとりで過ごす時間が多かったため、この時期にさまざまな知恵を身につけていく。起業に興味を持ち始めたのもこの頃だ。
 一刻も早く独立したい、この家を出て行きたいと、千影はそれだけを強く願っていた。

「――千影、大学は行っておかないとダメだぞ?」

 高校二年の夏休み。千葉で農業を営んでいる祖父に呼ばれた千影が泊まりに行くと、いきなり祖父にそう言われた。

「おじいちゃん、今は大学に行かなくたって会社は作れるんだよ。だから僕は――」

「いーや、ダメだ。せっかくお前は頭がいいんだ。俺の金で行きなさい。あいつの……、誠二(せいじ)のせいで、お前には苦労を掛けっぱなしなんだ。せめておじいちゃんに、息子の愚行を償わせてくれ。だから絶対に行くんだぞ?」

 祖父は苦々しい顔をして、千影に言った。誠二とは千影の父である。

「学業が無駄になることはない。友だちもたくさん作って、お前が会社を作るときに協力してもらえ。仲間は大事なんだから、な?」

 祖父は決して豊かな暮らしをしているわけではなかった。五年前に祖母が亡くなり、彼はこの片田舎でひとり、野菜や、千葉名産の落花生などを作りながら暮らしている。

 細々と貯めたお金を自分のために使わせるのは忍びないが、祖父の好意をありがたく受けることにした。自分が稼いでその倍以上のお金を祖父に返せば良い。そのように思ったからだ。

「ありがとう。じゃあ、そうさせてもらうね」

「おう、頑張れ、千影!」

 祖父はニカッと嬉しそうに笑い、親指をグッと立てた。

 その後まもなく両親は離婚し、千影はひとりとなる。

 母の籍に入っていた千影は高校卒業と同時に分籍し、縁を切った。父の顔はここ数年、一度も見ていない。母はすでに恋人と暮らしており、父には新しい妻との間に子どもができたようだ。
 父母の生活の妨げにならないよう、そして今後の面倒事を避けるための分籍だった。

 祖父の援助を受けて大学に入学した千影は、格安のアパートを借り、生活費を切り詰めながら金を貯めて起業の準備をする。
 最終目標は祖父に恩返しをするため、地方創生事業に関わる会社を作ることだ。
 そして努力の甲斐あってか、起業の目処が付き、共同経営をする友も見つけ、数人の仲間もできた。

 しかし大学三年の夏頃。祖父の様子を見に行った千影に対して、彼が急に怒り出したり、同じものをいつくも買ってきたりと、認知症の症状が見え始めた。
 数年ぶりに父と連絡を取り、祖父の症状を伝えると、祖父は病院に入院後、施設に入る。
 父は祖父の貯金を使った。祖父が千影の学費を出していることを知らなかった父は、「お前は金食い虫だ」と千影を罵り、そこで学費は打ち切りとなった。祖父に会うことも禁じられたのである。

「事業は上手くいってるんだ。この後絶対に軌道に乗る。奨学金も受けてるんだしさ、免除してもらえる方法もいくらでもあるだろ。今さら中退なんて考えるなよ?」

 鹿島田(かしまだ)が千影の肩を叩いて励ました。
 彼は千影の友人であり、起業した会社の共同経営者だ。
 何事も考え込んでしまう千影とは反対で、鹿島田は明るく楽観的な性格。それでいて仕事上の細かい管理をしっかりとやってくれるので、経理を彼に任せていた。
 調子の良いところもあるが、彼のそんな軽さに助けられることも多かった。

「ああ、そうだな」

「暗くなるなって。ポジティブに行こうぜ! どうしようもなくなったら俺が全部どうにかしてやるからさ、なんとかなる」

「ありがとう。頼りにしてるよ」

「おう、任せとけ!」

 屈託なく笑う彼の表情は、どこか祖父に似ていた――。

 その後、鹿島田が言った通り事業は軌道に乗り、目が回るほど忙しくなったが、すべてが順調に進んでいった。祖父の援助を受けずとも十分な余裕ができ、生活にも潤いが生まれる。

 しかし千影が絶対的に信頼していた鹿島田は、事業用の金を持ち出して行方をくらませた。さらに経費を私的に使い込んでいたことも発覚する。
 そして知らぬ間に鹿島田は大学を辞めており、彼の実家に連絡を取るも、わからないの一点張りで協力をしてもらえない。
 千影と付き合っていた取引先の女性も連絡が取れなくなる。彼女は、鹿島田が大学を辞めた時と同じ日に会社を辞めていた。ここ数ヶ月、彼女とふたりで会うことを断られていたのは、鹿島田と密会していたからだろう。彼らは裏で間抜けな千影を笑っていたのか――。

 鹿島田は実に用意周到な男だということも、この時になって思い知らされた。
 彼は法人の口座やメールなどの認証パスワードを勝手に変更してから、いなくなっている。時間をかけないと、どれだけの金を使い込んだのかわからないようにするためだ。
 それだけのことをしているのに、数人いた他の仲間たちは全員鹿島田の味方で、悪いのは千影だと言って離れていった。鹿島田が千影の悪口を吹き込んでいたというのは、ずいぶんと後になって知ったことだが……。

 どうにかして鹿島田を探し出すことはできたのかもしれないが、千影にはそんな気力も金も残っていなかった。帰る実家もなく、頼れる仲間もいない。当然のごとく事業の資金繰りが立ちゆかなくなり、廃業に追い込まれる。廃業後に残った借金の処理に追われ、自身の生活費すらも底を突きそうだった。

 希望に満ちていた未来は、輝きの一片も残さずに、消えていた。

 ――それなら、自分も消えなければならない。

 関係のあった企業へ迷惑をかけたことの謝罪に行こうとスーツに着替えていた千影だが、「自分も消えなければならない」という思いつきに従い、玄関でジャケットを脱ぎ捨てた。
 部屋に戻ってクローゼットを開け、リュックと山用の薄手のジャケットを取り出す。リュックに最低限の荷物と山用のジャケットを押し込み、伊達メガネをかけ、アパートを飛び出した。

 学業と仕事に邁進していた千影の、唯一の趣味は自然に触れること。田舎に住んでいた祖父の影響かもしれないが、自然の中にいると心が安らいだ。
 普段は大きな公園に行くのだが、連休などはハイキング程度に歩いたり、低山に登ることもあった。何も考えず、緑の匂いを吸い込みながら歩くのは至福の時だった。

 どうせ消えるのなら好きな場所でーー。

 突然、光が見えた気がした千影は、夏の照りつける日差しの中を小走りで駅に急いだ。急いで急いで……。次に気づいた時には、すでに電車に乗っていた。新幹線ではなく在来線である。
 ふと顔を上げると、車内のデジタルサイネージに「次は高尾駅――」と表示された。

「中央線……?」

 千影は力なくつぶやく。
 どこか自然の多い場所へ行きたいと、東京駅から乗ったのだろう。高尾駅で乗り換えれば高尾山駅口だが、もっと遠くへ……、遠くの山へ行きたい。

 高尾からいくつか乗り換えていけば、長野に到着できる。長野は、起業する直前に悩みが多かった頃、ひとりで訪れたことがあり、素晴らしい自然を堪能できた場所だ。

「……そこがいいね」

 千影は死に場所が決まったことによる安堵の笑みを浮かべ、高尾駅で電車を降りた。

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