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55 信じていたのに(1)
しおりを挟む千影の温かい腕の中で、夕美はまるで長い夢でも見ているかのように、悲しい物語の世界に入り込んでいた。
けれど、自分は千影が思うような人間ではない。彼を救った自覚もない。そもそも、千影と一緒に実家のロッジに帰るまでは、当時の彼のことを思い出しすらしなかったのだ。
「隣の部屋に来たのは、ここに私が住んでいるって知っていたから……?」
夕美は頭に浮かんだ疑問を、小声で尋ねる。
「もちろんそうだよ。君の就職が決まって入社する少し前に、隣を借りたんだ。今と同じように、普段住んでいるのは別のマンションだったけどね。でもそのずっと前から、君がここにいることを知っていたよ」
「え?」
「君がオーナー夫妻の娘だと聞いた時、僕も東京の大学だったから、娘さんの希望大学はどこですかって尋ねたんだ。そこから話に花が咲いて……。僕は夕美が卒業前まで何度かロッジへ泊まりに行ったんだけど、最近の東京の様子を知りたがっていたご両親は、僕の話を喜んでくれた。その流れで君の情報が僕にも自然に、ね」
夕美は戸惑った。
両親は宿泊客と交流するのが大好きだ。何度か宿泊した常連客ともなれば、自分たちのことも楽しく話すだろう。ましてや夕美が大学受験を控えているのなら、歳の若い千影に話を聞くのは自然なこと。
その後、両親が夕美との会話の中で、わざわざ千影の名前を出すことなどせずに「東京の今の様子」を客から聞いたと言っても、当たり前のことすぎてなんの違和感もなかったはずだ。
「……その過程で、私が住んでいるアパートのことまで知ったの?」
「それはね、夕美。最近の東京の話以外にも、夕美が合格した大学から近くて便利なオススメの駅を教えたり、どこの不動産屋がいいだとか、お得な物件があるとか、そういう情報もご両親に提供できたってことなんだよ」
千影の手が夕美の頬を撫で、そっと顔を上げさせる。
「え……、え?」
「このアパートも僕が勧めた物件のひとつだ」
視線を合わせた彼が優しく笑ったと同時に、夕美の背筋に冷たいものが走った。
夕美がここに住むことを知っていたどころか、そもそも誘導したのが千影だった……?
「ただ、誤解しないでほしいのは、その頃から君を女性として好きだとか、恋人になりたいという欲望は薄かったよ。とにかく成長した僕を見て欲しい、そのために頑張るという考えで生きていたから」
千影は夕美をぎゅっと抱きしめ、再び髪を撫で始める。
「面接に来た君と向かい合って話した時、人生で味わったことのない感動に包まれたなぁ……。その勢いのままに、隣の部屋を借りてしまったくらいに」
あぁ……と、千影は熱のこもった吐息とともに、懐かしげな声で話を続ける。
「いつも隣の部屋にいられたわけじゃないけど、そのうち気づいてくれたらいいと思って、山で僕を救ってくれた時の格好に似せるためにウィッグを被ってメガネをして、君が行動する時間に合わせてうろついていた。社内で誕生日のプレゼントに夕美が選んだ腕時計を贈られた時は、いよいよ気づいてくれたんだって天にも昇る心地だったんだよ?」
すぐに勘違いだったとわかってその喜びは打ち砕かれたけどね、と千影は苦笑した。
「……この部屋はいいね。あったかくて、夕美の匂いがして」
「……」
「隣の、僕の部屋はがらんとしているんだ。普段使う荷物はマンションに置いてあるから。でも、何もないほうが隣の部屋にいる君の気配を感じられたんだよ。すごく集中して耳を澄ませてさ」
千影の行動と、自分が感じていたものが、ひとつひとつ、パズルのピースのようにハマっていく。
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