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54 千影視点 僕の女神へ(5)
しおりを挟む食後は共同の家族風呂に入り、くつろぐ。湯船に入るのも久しぶりだった。
たくさん歩き、美味しい料理を食べ、芯から体が温まった千影は、ベッドに入ったとたん眠りに落ちてしまった。
そしてなんの夢も見ずに、朝を迎える。
鳥の声で目が覚め、ベッドから起きて窓を開けると、眩しい緑が目に入り、すがすがしい空気に包まれた。
朝食を終えてチェックアウトを済ませた千影は、オーナーの好意で駅まで送ってもらえることになる。
車窓から見える景色が昨日とはまるで違い、何もかもが色鮮やかに見えた。
駅に到着した車から降りた千影は、改めてオーナーに挨拶をする。
「あの、本当にお世話になりました。僕……」
上手く言葉が続かず言い淀む千影に、オーナーが微笑んだ。
「ぜひまた来てください。待ってますので」
「……はい」
彼女に続いて、二回目の約束を交わしてしまったことに動揺しつつ、千影は深く頭を下げた。
東京に戻った千影はその足でヘアカットに行く。そして家に帰り、ドタキャンをしてしまった関係各会社に電話をし、謝罪を入れた。その際、罵倒を浴びることもあったが、千影の心は重くなることはなく、むしろスッキリとしていた。
その後はアルバイトをし、それ以外の時間はすべてプログラミングの勉強にあて、二ヶ月で就職先を決める。起業していたことを評価したと言われたが、人手不足だったことは明らかだ。
しかしそんなことはいちいち気にせず、ありがたく働かせてもらい、帰宅後と土日はすべて副業の時間にあてた。半年が経ち、どうにか生活の基盤を立て直すことができ始めた千影は、次の夏に彼女へ会いに行こうと決めたのである。
そして、いよいよその時がやってきた。
去年訪れたロッジの予約を、七月の終わりに入れておいた。今回は偽名や嘘の住所を使わずに、本当の自分を記入する。
その日に彼女がいるのかはわからない。だが、彼女のほうから千影と「約束」をしたということは、そこにいる可能性が高いだろう。
腕時計を付けて鏡の前に立つ。
あの時からだいぶ立ち直ったことを示すために、カットしたばかりの髪をセットし、伊達メガネはかけずに顔をしっかり見せるようにした。
「これなら気持ち悪がられることもないかな……?」
それよりも自分のことを、そして交わした約束を、彼女は覚えていてくれるだろうか。
淡い期待と不安を持ちながら、千影は家を出た。
今年は新幹線に乗り、長野駅で降りて在来線に乗り換えた。そしてバスに乗り、降りた場所から二十分ほど歩いてロッジに到着する。
すがすがしい空気や豊かな緑の匂いと青い空が千影を迎えてくれた。
懐かしい気持ちでロッジに入り、オーナーがいる受付でチェックインを済ませる。今回は本名と本当の住所で予約しているので、新規の客として迎えられた。
去年のみすぼらしい格好をした怪しげな男だと思われるよりも、初めての客として扱われる方がいい。そう考えた千影は、敢えてオーナーに何も言わなかった。
去年と違って今日は余裕を持って到着したため、まだ夕日は落ちていない。ロッジの周りをぐるりと散歩し、崖に続く小道に入った。
あの時、精神的に参っていた千影の耳には、蝉の声がうるさく響いていたが、今日はひぐらしの声が心地よかった。生き生きとした緑の香りを胸いっぱいに吸い込み、森の中から遠くを見つめる。荘厳な山々が日に輝き、夏を謳歌している様が感じ取られた。
そして小道を外れ、彼女に声を掛けられた場所まで来ると、ちょうど夕日が山の端に沈むところだった。
「……綺麗だな」
ふと振り向いてみたが、当然そこには誰もいなかった。
あの時、彼女が自分を見つけてくれたのは奇跡に近かったのかもしれない。
余計な心配をかけたことを謝れなければ、と千影は夕日に背を向けて森の中を歩き出し、小道へと戻ってロッジに帰った。
しかし、彼女を見かけることはなかった。
ロッジの周りでも、ロッジの中でも、オーナー夫妻や他のアルバイトを見かけるだけで、彼女はいない。
それでも夕食時に期待してテーブルに着いたが、やはり彼女はおらず、ふたりのアルバイトが接客をしていた。
彼女は去年のアルバイトのみで、今年は来ていないのだろう。
約束を交わしたからと言って、名前も聞かずにあれきりだったのだから、会える保障などどこにもなかったのだ。
「……当たり前だよな」
期待してしまった愚かな自分に、深いため息を吐いた。
夕食後はダイニングルームが解放されており、コーヒーや紅茶が自由に飲めるようになっている。
他の客は部屋に戻っていき、千影はひとりそこに残って、コーヒーを淹れた。カップを持ち、ソファに移動する。
座ろうとしたその時、すぐそばの壁に飾ってある写真が目についた。千影はコーヒーテーブルにカップを置き、写真に近づいてみる。
映っていたのはオーナー夫妻と、ひとりの女性だった。
「あ……!」
間違いない、彼女だ。
オーナー夫妻の間に立っている彼女は、夫妻と一緒に笑っている。とても親しげな雰囲気だ。他の写真にも同じように映っている。
「それ、私の娘なんですよ」
熱心に写真を見つめていた千影に声を掛けてきたのは、オーナーだった。
「娘さん、ですか」
顔を上げた千影に、オーナーが笑ってうなずく。
「ええ。ここからだと高校は通うのが大変なので寮に入っているんです。今年の夏は受験勉強があるのでお盆にしか帰らないんですが、去年と一昨年は夏中ここでバイトをしていたんですよ」
彼女はオーナー夫妻の娘だった。
だからあんなふうに、客に対して臆することなく接していたのかと納得する。会えなかった理由もわかり、嬉しくなった千影はオーナーに尋ねる。
「受験というのは大学受験ですか?」
「そうなんです。東京の大学に行きたいらしくて。私たち夫婦は東京出身なんで心配はしてないんですけど、今よりも遠くなると会うのも大変になってしまうのが、ちょっと……」
「寂しいですよね」
「ええまあ、寂しいですね」
苦笑しながらオーナーが答える。
そんなオーナーの話を聞きながら、千影は決めた。
自分を救ってくれた彼女と会うのなら、今以上にもっと頑張って、今よりももっと胸を張って自信を持てる自分になってからにしようと――。
「――だから僕は、夕美が帰ってくるだろう夏休みと冬休みは避けて、ロッジに宿泊してたんだ。君に会えないのは寂しかったけど、ご両親から君の話を聞くのが本当に楽しかったんだよ」
自分の腕の中で、じっと耳を澄ませて話を聞き入っている夕美の髪を、ゆっくりと撫でる。
「僕を救ってくれた女神に会うために、僕はずっと……」
言いながら、千影は女神を、きつく抱きしめた。
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