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【第一部】国家転覆編
9)視察と書いてデートと読むのは鉄板……?
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「クックック……」
山盛りのパンとハム、サラダ、それから湯気を立てているホカホカの野菜スープを前にグレンはフォーク片手に耐え切れずに笑い声を漏らす。
「復活だ! 完全復活!」
「それはよろしゅうございました。グレン坊ちゃまが元気になられて、ばあやも嬉しいですよ」
おっとりと微笑みながらメイド長のフローレンスが空のグラスに牛乳を注いだ。
「うむ、ばあやにも多大な心配をかけた。すまない」
「ええ、これからもっとお体に気を付けてくださいまし。さあさあ、料理長が元気になられたグレン坊ちゃまのために、腕によりをかけて作った栄養たっぷりの野菜スープもサラダもお残しになりませんよう……」
「う、うむ……」
うわあニンジンだ後でドーヴィに食べてもらお……とこっそり考えていたグレンの思惑はあっという間にばあやに見抜かれてしまった。
ちなみにドーヴィはその度に「お前、悪魔をなんだと思ってやがる」とぶつぶつ文句を言い……つつも、グレンが嫌いなニンジンを代わりに食べてやっている。それでいいのか悪魔よ。
うう、とニンジンに顔をしかめつつもモリモリと朝食を平らげたグレン。そこに、執事のアーノルドとドーヴィが書類片手にやってきた。
「坊ちゃま、もうすっかり元気になられたようですね」
「ああ! じいやにも迷惑をかけたな!」
食後のおかわりホットミルクを優雅に飲んでいるグレンを見て、アーノルドは目じりを下げて笑みを浮かべる。グレンはその表情を見て、少しだけくすぐったそうに頬をかいた。
「執務の方はどうなっている?」
「ドーヴィ殿とある程度は進めておきましたよ。後は坊ちゃまの承認が必要なものばかりです。それから、坊ちゃまがお休みになられている間に検討なさっていた魔物対策案についても、補佐官達の間で調整を進めておりますぞ」
「うむ、うむ!」
グレンは自らが作った魔物対策案の計画が順調に進められていることに満足げに頷いた。
領主としての教育も実績も足りていないグレンにとって、初めての「自分がゼロから立案した計画」である。それが補佐官達に受け入れられて、実用に耐えうる案として採用されていることが嬉しくて仕方がないらしい。
(考えたのはほとんど俺だけどな)
……などと、口に出すほどドーヴィも野暮ではない。毎日毎日、立派な領主であろうと必死に背伸びをして大人になろうとするグレンの自信に繋がるのなら、それぐらいは知恵を貸すどころか与えてやってもいいぐらいだ。
「……となると、今日の私の仕事は残っている書類の承認作業と……ふむ」
グレンはしばし顎に手を当てて考えた後に、ポン、と手を打つ。
「久々に城下町に視察に赴くのも良いのではないか?」
「視察?」
ドーヴィが尋ねれば、グレンは胸を張って「一般市民の生活がどうなっているかを把握するのも領主の仕事なのだ」と言った。
本当か? とドーヴィがちらりとアーノルドに視線を飛ばせば、アーノルドは柔らかな苦笑を浮かべている。
領主の仕事なのは間違いない。が、グレンに対しては「息抜き」としての側面が強そうだ。アーノルドの苦笑の意味を読み取ったドーヴィはなるほど、と嘆息する。
どうにも休み下手、遊び下手なグレンを何とか気晴らしさせようと執務の一環にアーノルドが組み込んだのだろう。
「そうですね、それは良い案でしょう。せっかくですからドーヴィ殿にも城下町を紹介してはいかがですかな? 今後、ドーヴィ殿を重用していくのであれば、城下町の事を知って貰うのも大切でしょう」
アーノルドがグレンの発案に同意を示すとグレンは嬉しそうにコクコクと頷く。そして、ドーヴィの顔を見上げてきた。
……こんなにわかりやすく期待に満ちた目で見られて、断れる男がいるだろうか。ドーヴィは吹き出しそうになるのを堪えて「わかった、俺も同行しよう」と言った。
「では、早速書類を片付けようではないか!」
グレンはぴょん、と勢いよく椅子から降りてスキップでもしそうな勢いで食堂を出ていこうとする。あれではマナーにうるさいメイド長のばあやに叱られるぞ、とドーヴィはちらりと壁際に佇むフローレンスを見た。
「お元気になられてご機嫌な坊ちゃまを見ることができて、ばあやは嬉しゅうございますよ」
そう言って、フローレンスはゆるゆると首を振った。どうやらグレンはお小言を回避できたらしい。
「……なるほど」
ドーヴィは低い声で頷く。フローレンスが言っているのは、発熱して寝込んだことに対して、だけではないだろう。
ここ数年、特に領主になってから。グレンは他人に迷惑をかけぬよう、心配させぬように空元気と背伸びで過ごしてきた。その日々の中で、このように楽しそうにしているのは、数えるほどしかない。
ばあやとじいやにとって、とても大切な子供であるグレンが楽しそうにできるというなら、多少のお転婆も許されるという事だ。
「……じゃ、グレンが書類を片付けたらすぐに出発という事で」
「ほっほ、護衛をよろしくお願いしますぞ、ドーヴィ殿」
「護衛じゃなくて子守じゃねーの」
ドーヴィの言葉に、アーノルドもフローレンスは否定せずにただ笑うに留めておいた。
☆☆☆
幸いにして絶好の視察日和となった好天の昼下がり、グレンとドーヴィは共だって城下町へと出発していった。
「まあ城下町と言っても王都ほどではないがな」
「へえ。俺は王都の事知らねぇからなあ……」
地方の視察になら、確かに魔物退治のついでにドーヴィも同行している。地方の村は畑が一面に広がっており、その中心にぱらぱらと簡素な建物があり、農民がのんびりと農道を歩いていた。
それに対して、二人が城を出て徒歩でやってきた城下町は石畳が敷かれ、多くの建物が密集していた。それも平屋ではなく二階建ての建物も目立ち、人々の喧騒も耳に届く。
物珍しそうに当たりを見回すドーヴィを引き連れて、グレンはお気に入りのレストランへと足を運んだ。視察の際に、いつもここで昼食を取っている。
「ようこそいらっしゃいました」
「うむ」
レストランの支配人が頭を下げるのに、グレンは鷹揚に応える。どう見ても、子供のままごとに大人が付き合っているようにしか見えないが、さすがにそこは辺境伯当主と平民の関係。例えグレンが背伸びをしている姿が滑稽であろうとも、支配人は丁寧に対応する。
「今日は私の護衛も同席する」
「かしこまりました。護衛の方のメニューはいかがいたしますか?」
そう聞かれたグレンはちらりとドーヴィを見上げた。
(いやいやそこは自分で決めろよお前が主なんだから……俺はしがないただの護衛だっつーの)
と、ドーヴィは全力で顔に書いて無言でグレンを見返したが、残念ながらグレンは黙っているドーヴィを不思議そうに見て、首をこてんと傾けただけだった。
「……グレン様と同じもので構わない」
「……かしこまりました」
どうやら、ドーヴィの思いはグレンにではなく、支配人に伝わった様で。支配人が笑いを必死に耐えるように口の端をヒクヒクとひくつかせながら頭を下げ、足早に去って行く。
とは言え、その支配人の様子もグレンを舐めたものではなく、じいやとばあやの様に暖かく見守るようなものであったから、ドーヴィは支配人を放置した。もし、グレンに舐めた態度をとるのであれば、護衛として立つところだったが……そうなったらお気に入りのレストランで絶賛上機嫌のグレンが悲しむだろう。
そうならなくて良かった、とドーヴィはほっと胸を下ろす。
この世界はグレンに対して厳しい。悪魔のケチャが言っていたように、グレンを取り巻く環境はあまりにも絶望と不幸で彩られている。
その中で、このように暖かい人々に守られているのは、グレンにとっての一抹の幸せだった。それはグレン本人の頑張りを他人が認めているとも、この辺境領を治めてきたクランストン辺境家が人々に誠実であったからとも言える。
「ドーヴィ、ここの料理はな、牛ほほ肉の煮込みが絶品でな――」
嬉しそうにこのレストランについて語るグレン。いかに料理が美味しいか、デザートのアップルパイがこれまた絶品で、支配人たちも優しくて――
「――料理長が風邪をひいてしまったときなどは、ここに家族みなでお世話になったものだ」
そこまで言ったグレンは、唐突に口を閉ざした。昔、グレンにとっての昔々に、両親や兄と姉、みなで来た事を思い出しているのだろう。
饒舌に語っていたグレンの声はぴたりと止み。代わりにグレンの赤い瞳に、薄っすらと水の膜が張り始める。
「グレン」
「な、なんだ?」
返事をしたグレンの声は少しだけ震えていた。
「……せっかくだから、その、お前が絶賛してるアップルパイを手土産にしたらどうだ? 視察の帰りに、またここに寄ればいいだろう」
……何事もなかったかのように。ドーヴィは、グレンから目を逸らして窓の外を見ている風を装いながら話した。
今、グレンに必要なのは、その涙を拭ってやることでも、かわいそうだと慰める事でもない。給仕の人間が来るまでに、涙を引っ込めて、澄ました顔で堂々と振る舞う辺境伯当主の顔を取り戻させる事だ。
ドーヴィがこちらを見ていないことに気づいたグレンは、上着の袖で乱暴に両目を拭う。音と仕草で、ドーヴィにはすっかりバレているがドーヴィは何も言わなかった。
「そうだな、そうしよう。城の人間に行き渡る様に……何個ぐらい必要だろうか?」
「そうだなあ、城全体となるとかなりの個数に……先に頼んでおいて、城に届けて貰う事になりそうだな」
「確かに。ではじいやとばあやの分と……いやでも、やはりみなにも美味しい物は食べて貰いたいし……」
「支配人に聞いてみたらいいんじゃないか」
うむ、とドーヴィの進言に頷くグレンの目からは、すっかり涙は消え去っていた。背筋を伸ばし、給仕に言伝を頼む姿は貴族そのもの。
やっぱり護衛じゃなくて子守だなあ、とドーヴィは思いつつも、運ばれてきた前菜に顔を綻ばせるグレンを見ていれば、それも致し方なしかと内心で苦笑した。
---
デート(?)回はまだ続く
土日は本編更新ありません
代わりに何かしら閑話的なものを出せたらと思います
山盛りのパンとハム、サラダ、それから湯気を立てているホカホカの野菜スープを前にグレンはフォーク片手に耐え切れずに笑い声を漏らす。
「復活だ! 完全復活!」
「それはよろしゅうございました。グレン坊ちゃまが元気になられて、ばあやも嬉しいですよ」
おっとりと微笑みながらメイド長のフローレンスが空のグラスに牛乳を注いだ。
「うむ、ばあやにも多大な心配をかけた。すまない」
「ええ、これからもっとお体に気を付けてくださいまし。さあさあ、料理長が元気になられたグレン坊ちゃまのために、腕によりをかけて作った栄養たっぷりの野菜スープもサラダもお残しになりませんよう……」
「う、うむ……」
うわあニンジンだ後でドーヴィに食べてもらお……とこっそり考えていたグレンの思惑はあっという間にばあやに見抜かれてしまった。
ちなみにドーヴィはその度に「お前、悪魔をなんだと思ってやがる」とぶつぶつ文句を言い……つつも、グレンが嫌いなニンジンを代わりに食べてやっている。それでいいのか悪魔よ。
うう、とニンジンに顔をしかめつつもモリモリと朝食を平らげたグレン。そこに、執事のアーノルドとドーヴィが書類片手にやってきた。
「坊ちゃま、もうすっかり元気になられたようですね」
「ああ! じいやにも迷惑をかけたな!」
食後のおかわりホットミルクを優雅に飲んでいるグレンを見て、アーノルドは目じりを下げて笑みを浮かべる。グレンはその表情を見て、少しだけくすぐったそうに頬をかいた。
「執務の方はどうなっている?」
「ドーヴィ殿とある程度は進めておきましたよ。後は坊ちゃまの承認が必要なものばかりです。それから、坊ちゃまがお休みになられている間に検討なさっていた魔物対策案についても、補佐官達の間で調整を進めておりますぞ」
「うむ、うむ!」
グレンは自らが作った魔物対策案の計画が順調に進められていることに満足げに頷いた。
領主としての教育も実績も足りていないグレンにとって、初めての「自分がゼロから立案した計画」である。それが補佐官達に受け入れられて、実用に耐えうる案として採用されていることが嬉しくて仕方がないらしい。
(考えたのはほとんど俺だけどな)
……などと、口に出すほどドーヴィも野暮ではない。毎日毎日、立派な領主であろうと必死に背伸びをして大人になろうとするグレンの自信に繋がるのなら、それぐらいは知恵を貸すどころか与えてやってもいいぐらいだ。
「……となると、今日の私の仕事は残っている書類の承認作業と……ふむ」
グレンはしばし顎に手を当てて考えた後に、ポン、と手を打つ。
「久々に城下町に視察に赴くのも良いのではないか?」
「視察?」
ドーヴィが尋ねれば、グレンは胸を張って「一般市民の生活がどうなっているかを把握するのも領主の仕事なのだ」と言った。
本当か? とドーヴィがちらりとアーノルドに視線を飛ばせば、アーノルドは柔らかな苦笑を浮かべている。
領主の仕事なのは間違いない。が、グレンに対しては「息抜き」としての側面が強そうだ。アーノルドの苦笑の意味を読み取ったドーヴィはなるほど、と嘆息する。
どうにも休み下手、遊び下手なグレンを何とか気晴らしさせようと執務の一環にアーノルドが組み込んだのだろう。
「そうですね、それは良い案でしょう。せっかくですからドーヴィ殿にも城下町を紹介してはいかがですかな? 今後、ドーヴィ殿を重用していくのであれば、城下町の事を知って貰うのも大切でしょう」
アーノルドがグレンの発案に同意を示すとグレンは嬉しそうにコクコクと頷く。そして、ドーヴィの顔を見上げてきた。
……こんなにわかりやすく期待に満ちた目で見られて、断れる男がいるだろうか。ドーヴィは吹き出しそうになるのを堪えて「わかった、俺も同行しよう」と言った。
「では、早速書類を片付けようではないか!」
グレンはぴょん、と勢いよく椅子から降りてスキップでもしそうな勢いで食堂を出ていこうとする。あれではマナーにうるさいメイド長のばあやに叱られるぞ、とドーヴィはちらりと壁際に佇むフローレンスを見た。
「お元気になられてご機嫌な坊ちゃまを見ることができて、ばあやは嬉しゅうございますよ」
そう言って、フローレンスはゆるゆると首を振った。どうやらグレンはお小言を回避できたらしい。
「……なるほど」
ドーヴィは低い声で頷く。フローレンスが言っているのは、発熱して寝込んだことに対して、だけではないだろう。
ここ数年、特に領主になってから。グレンは他人に迷惑をかけぬよう、心配させぬように空元気と背伸びで過ごしてきた。その日々の中で、このように楽しそうにしているのは、数えるほどしかない。
ばあやとじいやにとって、とても大切な子供であるグレンが楽しそうにできるというなら、多少のお転婆も許されるという事だ。
「……じゃ、グレンが書類を片付けたらすぐに出発という事で」
「ほっほ、護衛をよろしくお願いしますぞ、ドーヴィ殿」
「護衛じゃなくて子守じゃねーの」
ドーヴィの言葉に、アーノルドもフローレンスは否定せずにただ笑うに留めておいた。
☆☆☆
幸いにして絶好の視察日和となった好天の昼下がり、グレンとドーヴィは共だって城下町へと出発していった。
「まあ城下町と言っても王都ほどではないがな」
「へえ。俺は王都の事知らねぇからなあ……」
地方の視察になら、確かに魔物退治のついでにドーヴィも同行している。地方の村は畑が一面に広がっており、その中心にぱらぱらと簡素な建物があり、農民がのんびりと農道を歩いていた。
それに対して、二人が城を出て徒歩でやってきた城下町は石畳が敷かれ、多くの建物が密集していた。それも平屋ではなく二階建ての建物も目立ち、人々の喧騒も耳に届く。
物珍しそうに当たりを見回すドーヴィを引き連れて、グレンはお気に入りのレストランへと足を運んだ。視察の際に、いつもここで昼食を取っている。
「ようこそいらっしゃいました」
「うむ」
レストランの支配人が頭を下げるのに、グレンは鷹揚に応える。どう見ても、子供のままごとに大人が付き合っているようにしか見えないが、さすがにそこは辺境伯当主と平民の関係。例えグレンが背伸びをしている姿が滑稽であろうとも、支配人は丁寧に対応する。
「今日は私の護衛も同席する」
「かしこまりました。護衛の方のメニューはいかがいたしますか?」
そう聞かれたグレンはちらりとドーヴィを見上げた。
(いやいやそこは自分で決めろよお前が主なんだから……俺はしがないただの護衛だっつーの)
と、ドーヴィは全力で顔に書いて無言でグレンを見返したが、残念ながらグレンは黙っているドーヴィを不思議そうに見て、首をこてんと傾けただけだった。
「……グレン様と同じもので構わない」
「……かしこまりました」
どうやら、ドーヴィの思いはグレンにではなく、支配人に伝わった様で。支配人が笑いを必死に耐えるように口の端をヒクヒクとひくつかせながら頭を下げ、足早に去って行く。
とは言え、その支配人の様子もグレンを舐めたものではなく、じいやとばあやの様に暖かく見守るようなものであったから、ドーヴィは支配人を放置した。もし、グレンに舐めた態度をとるのであれば、護衛として立つところだったが……そうなったらお気に入りのレストランで絶賛上機嫌のグレンが悲しむだろう。
そうならなくて良かった、とドーヴィはほっと胸を下ろす。
この世界はグレンに対して厳しい。悪魔のケチャが言っていたように、グレンを取り巻く環境はあまりにも絶望と不幸で彩られている。
その中で、このように暖かい人々に守られているのは、グレンにとっての一抹の幸せだった。それはグレン本人の頑張りを他人が認めているとも、この辺境領を治めてきたクランストン辺境家が人々に誠実であったからとも言える。
「ドーヴィ、ここの料理はな、牛ほほ肉の煮込みが絶品でな――」
嬉しそうにこのレストランについて語るグレン。いかに料理が美味しいか、デザートのアップルパイがこれまた絶品で、支配人たちも優しくて――
「――料理長が風邪をひいてしまったときなどは、ここに家族みなでお世話になったものだ」
そこまで言ったグレンは、唐突に口を閉ざした。昔、グレンにとっての昔々に、両親や兄と姉、みなで来た事を思い出しているのだろう。
饒舌に語っていたグレンの声はぴたりと止み。代わりにグレンの赤い瞳に、薄っすらと水の膜が張り始める。
「グレン」
「な、なんだ?」
返事をしたグレンの声は少しだけ震えていた。
「……せっかくだから、その、お前が絶賛してるアップルパイを手土産にしたらどうだ? 視察の帰りに、またここに寄ればいいだろう」
……何事もなかったかのように。ドーヴィは、グレンから目を逸らして窓の外を見ている風を装いながら話した。
今、グレンに必要なのは、その涙を拭ってやることでも、かわいそうだと慰める事でもない。給仕の人間が来るまでに、涙を引っ込めて、澄ました顔で堂々と振る舞う辺境伯当主の顔を取り戻させる事だ。
ドーヴィがこちらを見ていないことに気づいたグレンは、上着の袖で乱暴に両目を拭う。音と仕草で、ドーヴィにはすっかりバレているがドーヴィは何も言わなかった。
「そうだな、そうしよう。城の人間に行き渡る様に……何個ぐらい必要だろうか?」
「そうだなあ、城全体となるとかなりの個数に……先に頼んでおいて、城に届けて貰う事になりそうだな」
「確かに。ではじいやとばあやの分と……いやでも、やはりみなにも美味しい物は食べて貰いたいし……」
「支配人に聞いてみたらいいんじゃないか」
うむ、とドーヴィの進言に頷くグレンの目からは、すっかり涙は消え去っていた。背筋を伸ばし、給仕に言伝を頼む姿は貴族そのもの。
やっぱり護衛じゃなくて子守だなあ、とドーヴィは思いつつも、運ばれてきた前菜に顔を綻ばせるグレンを見ていれば、それも致し方なしかと内心で苦笑した。
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