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第3章
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砂蛸の一件は、街中でかなりの騒ぎになっていた。大きな地震から始まり、街の中心部にあたる広場での魔物騒ぎ。騒動にならないという方がおかしいというものだ。だが街の誰も、魔物を倒したのが何者なのか、知らなかった。唯一出回った情報は、三毛猫の獣人と、麗しい少女が広場に残っていた親子を助けた、と言うことだけ。噂はそこから人々の想像と共に広がり、魔物騒ぎの数日後には、三毛猫の獣人と幻の花のような少女が魔物を時計塔ほどの大きさの魔物を倒した、という形で広まった。
その噂の風を体に浴びながら、一匹の黒猫がとあるパン屋に入っていく。
「そこの木の実のパンを2つ。それからミルクももらえるか」
「はいよ!」
恰幅の良い女性が注文を受けて、商品棚からパンと牛のミルク取り出し、目の前の自分より背の低い黒猫の獣人に渡す。黒猫はそれを受け取ると、辺りを見回して口を開いた。
「随分と騒がしいな。何かあったのか?」
「おや知らないのかい?この間、一週間くらい前かね、街の中心地で大きな魔物が出てね。それを退治したのは誰だって街中の皆が噂してるのさ」
「誰かは分からないのか」
「そうなんだよ。直接倒した奴を見た人がいなくてね。直前に広場にいたのが三毛猫の獣人と可愛らしい少女だっていうから、その2人なんじゃないかって、今は言われてるね。ま、本当のところは分からないんだけどさ」
「ほう」
黒猫が代金を女性に渡すと、女性は「ありがと、また来てね!」と言って、去っていく黒猫に手を振った。黒猫はかぶっていた帽子のツバに触れて応えた。
黒猫は猫らしい静かな足運びで、店を出て行った。
「思ったよりも、広まってしまったな」
その呟きは、街の喧騒にかき消された。
全ては買い物だけだからと変装をしなかった自分の判断ミスだ。ミカエルは拳を固く握りしめた。
「気を引き締めなおさねば」
□□□□□□□□
夕食は、いつも地獄のような時間だった。特に当主であるルーカスとその妻のクロースティが昼間に喧嘩をした日の夕食時の空気は、およそ食事をする際のそれではない、とルーカスは小さく切った肉にフォークを刺しながら思う。
「お義父様」
だが今日は少し、友人から気になる話を聞いた。この空気が少しでも変わればいいと思って口を開いた。
「なんだ」
ルーカスが疲れた顔を上げてこちらを向いた。目の下には大きな隈が出来ていて、1年ほど前よりも大分老けて見える。それもこれも、全てあの役立たずでお飾りの義妹のせいだ、と内心で舌を打つ。
「今日、友人から気になる噂を耳にしまして」
「噂だと?そんなものに構っている暇はない」
話を聞こうともせず食事を続けるルーカスに、ディストールは一瞬眉をひそめながら、努めて笑顔をつくる。
「ルネに関することかもしれないんです」
「……なんだと」
ルーカスの表情が変わった。まるで狩りをする前の獣のような双眸だ。
「本当なの、ディストール」
クロースティも俯いていた顔を上げ、手を止めてディストールを見た。
2人の視線を浴びながら、ディストールが唇をつり上げる。
「はい。あくまで噂ですが」
「それで、どんな噂なんだ?」
「もったいぶらずに教えなさい」
前のめりに先を促す両親に、ディストールはにっこりと答えた。
「隣国です。隣国の街中に突如魔物が出たらしいのです」
「街中に?珍しいな」
「はい。幸い街に大きな被害が出ることは無かったらしいのですが、その魔物を倒したのが、三毛猫の獣人と、少女だというのです」
「猫の獣人と少女だと?」
「まさか」
ルーカスが一瞬考えに耽って、もう一度ディストールを見つめる。
「隣国まで捜索を広げよう。一刻も早くルネを取り戻さなくては」
だがやる気のルーカス以外の2人の表情は少々複雑だ。
「でもあなた。ルネは魔法が使えないのよ。魔物を倒すなんて出来ないわ。それに、事情があるとはいえ隣国までなんて無理よ。陛下の許可がいるもの」
「魔物は恐らく獣人の方が倒したんだ。許可なら取ってくればいい」
「お義父様、それは難しいのではないですか?ルネの捜査にすら何故か協力的ではないというのに」
「それなら極秘に進めるだけだ!」
「あなた!そんな無茶なこと止めて!」
「うるさい!お前は黙っていろ!」
ルーカスは怒りをテーブルにぶつけた。白いクロスに赤いワインがはねて染みを作る。立ち上がって傍に控えていた初老の執事にアルベルトを呼ぶように伝えると、そのまま部屋を出て行ってしまった。食後の挨拶もせず退席したルーカスを目で追い、クロースティは疲れたように嘆息した。
「ディストール。その噂、本当に信じられるものなの?」
「噂は噂です。信じるも信じないも本人次第では?」
「なんですって!?」
クロースティは椅子をひっくり返す勢いで立ちあがった。
「ディストール!あなたそんな不確かな情報をあの人に伝えるなんて!」
「だから最初に言ったではないですか。あくまで噂ですがと」
優雅に口を布で拭うディストールにクロースティ拳を握った。綺麗な手のひらに爪の跡が出来る。
「あの人もあの人だわ。そんな噂をすぐに信じて、陛下の許可もなく隣国で捜索ですって?何もつかめなかったら、どうするのよ。見つかればこの家はお終いだわ」
「お母様」
立ち上がったディストールが、静かにクロースティに歩み寄る。彼女の強く握りしめられた拳を上からそっと握った。
怒りに震えるクロースティの耳元に口を寄せ、悪魔のようにささやく。
「全てルネのせいですよ。お母さまもお義父様も、何も悪くない」
ハッとして振り向いたその先で、ディストールの黒い瞳は怪しく歪められていた。
その噂の風を体に浴びながら、一匹の黒猫がとあるパン屋に入っていく。
「そこの木の実のパンを2つ。それからミルクももらえるか」
「はいよ!」
恰幅の良い女性が注文を受けて、商品棚からパンと牛のミルク取り出し、目の前の自分より背の低い黒猫の獣人に渡す。黒猫はそれを受け取ると、辺りを見回して口を開いた。
「随分と騒がしいな。何かあったのか?」
「おや知らないのかい?この間、一週間くらい前かね、街の中心地で大きな魔物が出てね。それを退治したのは誰だって街中の皆が噂してるのさ」
「誰かは分からないのか」
「そうなんだよ。直接倒した奴を見た人がいなくてね。直前に広場にいたのが三毛猫の獣人と可愛らしい少女だっていうから、その2人なんじゃないかって、今は言われてるね。ま、本当のところは分からないんだけどさ」
「ほう」
黒猫が代金を女性に渡すと、女性は「ありがと、また来てね!」と言って、去っていく黒猫に手を振った。黒猫はかぶっていた帽子のツバに触れて応えた。
黒猫は猫らしい静かな足運びで、店を出て行った。
「思ったよりも、広まってしまったな」
その呟きは、街の喧騒にかき消された。
全ては買い物だけだからと変装をしなかった自分の判断ミスだ。ミカエルは拳を固く握りしめた。
「気を引き締めなおさねば」
□□□□□□□□
夕食は、いつも地獄のような時間だった。特に当主であるルーカスとその妻のクロースティが昼間に喧嘩をした日の夕食時の空気は、およそ食事をする際のそれではない、とルーカスは小さく切った肉にフォークを刺しながら思う。
「お義父様」
だが今日は少し、友人から気になる話を聞いた。この空気が少しでも変わればいいと思って口を開いた。
「なんだ」
ルーカスが疲れた顔を上げてこちらを向いた。目の下には大きな隈が出来ていて、1年ほど前よりも大分老けて見える。それもこれも、全てあの役立たずでお飾りの義妹のせいだ、と内心で舌を打つ。
「今日、友人から気になる噂を耳にしまして」
「噂だと?そんなものに構っている暇はない」
話を聞こうともせず食事を続けるルーカスに、ディストールは一瞬眉をひそめながら、努めて笑顔をつくる。
「ルネに関することかもしれないんです」
「……なんだと」
ルーカスの表情が変わった。まるで狩りをする前の獣のような双眸だ。
「本当なの、ディストール」
クロースティも俯いていた顔を上げ、手を止めてディストールを見た。
2人の視線を浴びながら、ディストールが唇をつり上げる。
「はい。あくまで噂ですが」
「それで、どんな噂なんだ?」
「もったいぶらずに教えなさい」
前のめりに先を促す両親に、ディストールはにっこりと答えた。
「隣国です。隣国の街中に突如魔物が出たらしいのです」
「街中に?珍しいな」
「はい。幸い街に大きな被害が出ることは無かったらしいのですが、その魔物を倒したのが、三毛猫の獣人と、少女だというのです」
「猫の獣人と少女だと?」
「まさか」
ルーカスが一瞬考えに耽って、もう一度ディストールを見つめる。
「隣国まで捜索を広げよう。一刻も早くルネを取り戻さなくては」
だがやる気のルーカス以外の2人の表情は少々複雑だ。
「でもあなた。ルネは魔法が使えないのよ。魔物を倒すなんて出来ないわ。それに、事情があるとはいえ隣国までなんて無理よ。陛下の許可がいるもの」
「魔物は恐らく獣人の方が倒したんだ。許可なら取ってくればいい」
「お義父様、それは難しいのではないですか?ルネの捜査にすら何故か協力的ではないというのに」
「それなら極秘に進めるだけだ!」
「あなた!そんな無茶なこと止めて!」
「うるさい!お前は黙っていろ!」
ルーカスは怒りをテーブルにぶつけた。白いクロスに赤いワインがはねて染みを作る。立ち上がって傍に控えていた初老の執事にアルベルトを呼ぶように伝えると、そのまま部屋を出て行ってしまった。食後の挨拶もせず退席したルーカスを目で追い、クロースティは疲れたように嘆息した。
「ディストール。その噂、本当に信じられるものなの?」
「噂は噂です。信じるも信じないも本人次第では?」
「なんですって!?」
クロースティは椅子をひっくり返す勢いで立ちあがった。
「ディストール!あなたそんな不確かな情報をあの人に伝えるなんて!」
「だから最初に言ったではないですか。あくまで噂ですがと」
優雅に口を布で拭うディストールにクロースティ拳を握った。綺麗な手のひらに爪の跡が出来る。
「あの人もあの人だわ。そんな噂をすぐに信じて、陛下の許可もなく隣国で捜索ですって?何もつかめなかったら、どうするのよ。見つかればこの家はお終いだわ」
「お母様」
立ち上がったディストールが、静かにクロースティに歩み寄る。彼女の強く握りしめられた拳を上からそっと握った。
怒りに震えるクロースティの耳元に口を寄せ、悪魔のようにささやく。
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