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第一章

7 プレゼント

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「ごめんね。オレンジジュースしかなくて」
 珈琲でいいのに……。心の中で呟くがせっかく用意してくれたので口にはしない。
 オレンジジュースを提供されるイメージでもいいか。考えていると、大江が「んじゃ」と立ち上がりながら一成へ目を向ける。
「向こうで仕事してきます。話終わったら言ってください。玲ちゃん送るんで」
「あぁ」
 大江はあっという間に去ってしまう。
 二人きりになって、玲の体を侵食する緊張感が増した。
 一成は単調に言った。
「じゃあ、アルバイトなんだな」
「……まぁ」
 今は全部を言わなくてもいいだろう。玲は「他にも仕事はしてますが」と濁しつつ続ける。
「夜勤のバイトを無くします。別に、この部屋で一日中過ごせってわけではないでしょう?」
「ああ、そうだな」
「ずっと一成さんのお部屋にいる恋人なんて不自然ですもんね」
「お前、夜も働いてんの?」
 一成は長い足を組んで、腕をソファの背に乗せた。
「金を稼がなくちゃいけないんです」
「病気の知り合いって奴のためか?」
 玲は答えずにオレンジジュースを口にする。甘ったるくてびっくりした。
「金がなくて融通も効くオメガを拾ったのは幸運だった」
「よかったですね」
「ただ絶望的に愛想がないな」
 グラスをテーブルに戻したと同時、頬を掴まれる。
 一瞬で接近していた一成が玲の顔を無理やり己に向けた。
「少しは笑ってみろよ」
「……」
 何と返せばいいのか。困惑する玲に、一成は舌打ちでもしそうなほど嫌そうな顔をして、実際に舌打ちもした。
 でもこれは一成にだけではない。昔から能面みたいだとよく怒られていた。
 一成は玲を解放すると、背もたれに寄りかかって長い足を放り出した。
「不気味な男だ」
「……不気味……」
「分かった。昼は好きにしていていい」
「え……」
「えって何だよ。お前が言ったんだろ。一日中ここにいるのは不自然だって」
 玲は出来る限り冷静に、問いかける。
「ならどうして三千万も報酬があるんですか」
 だが一成は容易く宣告した。
「売春契約だろ。半年も俺に我慢しろっつうのか?」
 玲はこっそりと唇を噛み締める。
 慎重に、顔を歪めてみせた。
「……俺がボトムですか?」
「開口一番に聞くことがそれかよ」
 一成は横目だけこちらに向けてくる。しどけない目つきだった。疲労の気配が目尻に滲んでいる。
「お前が嫌だって言うなら終わり。他を探す」
 突然突き放されるものだから玲は動揺した。玲が飛び出してから始まったことなのに、今に至るまで一成に主導権を握られてしまっている。
 すると一瞬閉じた瞼の裏に家族の顔が浮かんだ。
 玲はハッと息を呑む。その残影が心を一気に取り込んで、脳が焦燥に巣食われた。
 ……駄目だ。
 終わらせるわけにはいかない。
「本当に三千万くれるんですよね」
 玲は震える声で呟いた。
 一成の目が僅かだけ丸くなる。
 玲はすぅと息を吸った。
「報酬をくれるなら構いません。恋人同士の距離感には、必要なことですから」
「言うわりに手が震えてるぞ」
 一成が目をじわっと細めた。笑っているのだ。
 玲は頭のどこかで思う。空想などしないから魔王がどんな形をしているのかなど想像したことはなかったけれど、これが、魔王の形なのかもしれない。
 悪魔は美しいと言われている。だからきっと魔王もそうなのだ。
 彼と取引をしてしまったのだから覚悟を決めないと。玲は黙って一成を見つめる。
 彼は言った。お前がボトム、と。
「そんで俺がトップ。口座を大江に伝えろ。前払いだ」
 玲を脅すことに飽きたのか、一成はまただらりとソファに体を預けた。
 玲はすぐに返す。
「現金じゃ駄目ですか?」
「はぁ? 口座がねぇのか」
「現金だと有り難いんですけど」
「三千万を? なんか事情でもあんの?」
「すぐに使うからです」
「現金を……? あー、とんでもねぇの拾っちまったかもな」
 返済も入院費用も現金だ。すぐにでも金をもらえるなら、その足で金融事務所へ向かう。
 一成は面倒そうに言ったが、案外楽に了承してくれる。
「大江から受け取れ」
「いくらですか?」
「まずは百万」
 声が出そうになるのを既で堪える。
 一成は片頬を歪めるようにして笑った。
「嬉しそうだな」
「……わ、かりました」
「急な依頼を引き受けてくれたから、プレゼントだ」
 一成はほくそ笑んだ。珈琲には手をつけず、また煙草を取り出している。
「お前の話的に朝晩働いてんだろ。何をそんなに必死こいて働いてんだ」
 一成がライターを手にした。
 その瞬間玲は「俺が」と言いながら手を伸ばす。
 ジッポを奪い取って、火を点ける。一成の咥えた煙草に近づけながら言った。
「必死こいてる理由を突き止められたら、一成さんにプレゼントでもあげますよ」
「……お前が俺に?」
 彼の口元で火が燃えている。魔王はドラゴンのように炎を吐き出すのだろうか。
 一成が軽く目を伏せた。長い睫毛の影が目元のほくろにまでかかりそうだった。
 息を吸って、煙草の先が赤くなる。
 玲はジッポを一成の膝の上に投げるようにして置いた。一成は一服すると、深い煙を吐き出す。
 炎を受け取った彼は言う。
「楽しみだな」
 煙が白いベールのようになって、青い瞳が霞がかった。だがぼやけてもその色は、玲の記憶に鮮明に焼き付いている。
 玲はテーブルの端にある灰皿を視線で捉えた。ガラス製の重そうな灰皿だ。
 彼が「プロフィールは大江に伝えておけ」と言って目を閉じた。玲は「はい」と小さくつぶやき、腰を上げる。
「鍵は大江から受け取れ。荷物は明日中に入れておけよ」
 玲はまた「はい」と答えて歩き出した。廊下に出るとちょうど大江が現れて、「話終わった?」と明るく笑顔を向けてくる。
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