【完結】今更愛を告げられましても契約結婚は終わりでしょう?

SKYTRICK

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第五章

63 本当の願い

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 彼の声が遠くに聞こえた。実際、アルノーは牢を離れて、階段へと向かっている。
 何も聞こえなくなったら少しはマシだろうか。もう、耳も目も何もかも塞いで、固い殻の中に閉じこもりたくなる。
 もう眠りたい。深い冬に落ちて、そのまま……。
 けれどその声が聞こえた時、ユリアンは目を見開いた。
「――ユリアンはどこだ」
 ――ロドリック様……。
 どうして、ここに。
 ゆっくりと顔を上げる。ここからではその姿は見えない。もしかして、幻聴? しかし曖昧になった世界でその声ははっきりと聞こえた。幻聴、じゃない。
「お前がマルトリッツ家の愚息か」
「……兄のことをおっしゃっているのですか?」
 やってきたのはロドリックだ。ロドリックの、地を震わすような怒気のこもった低い声に、アルノーが答えている。
 声を出そうにもユリアンは口を塞がれていた。顔を上げて、その場に倒れたまま、ユリアンは声のする方を凝視する。
「エデル公爵、貴方は何も知らないのですね」
 動けないのは、とてつもない恐怖に身をおかされたからだ。
 ロドリックがいる。彼の声をもっと聞きたい。しかし同時に体がガクガクと震える恐怖に包まれた。だめだ。そこにロドリックがいてはならない。
 アルノーと、ロドリックが話してはいけない。
 ロドリックが、吠えるように怒鳴った。
「そこをどけ!」
「貴方は何も知らないんだ」
 だめだ。
「兄が……、ユリアンが何をしたのか」
 だめだ。
 知られてはならない。
 ロドリックだけには、知られたくない。
 やめろ。やめてくれ。言わないで。心の中で強く叫ぶ。
 けれど、アルノーは告げた。
「ユリアンは三年前、人を殺したんですよ」
 ユリアンは、息を吐いた。
 まるで水の中にいるように、全部が遠ざかっていく。
 ユリアンとこの世界が隔たれるように。
「……殺した?」
 という、ロドリックの驚愕する声でさえ。
「はい、ただの使用人の男をです」
 遠くなっていく。
「ユリアンのヒートに当てられた哀れなアルファの男でした。ヒートを起こして勝手に発情したのはユリアンなのに、この塔の最上階から、男を突き落としたんです。私は階段の近くで一部始終を見ていました。もちろんユリアンを助けようとは思いましたよ。けれど、私が手を出すまでもなかった」
 ユリアンは、だらりと顔を冷たい地に横たえる。
「ユリアンは、ペットの汚らしいトカゲが男に潰れされそうになったのを見て、男を殺したんです」
 もう。
「あいつは悪魔なんですよ」
 もう終わった。
 今、終わってしまった。
 善い子のユリアンが消えていく。
 ロドリックに、知られてしまった。
 ユリアンは薄く目を開いて地を見つめている。体の震えが止まらない。ロドリックの全ての反応が怖い。その話を信じて自分を拒絶するロドリック。彼は戦場にいたからこそ、人の命を敬い、覚悟を持ってして戦ってきた。
 けれどユリアンは殺めてしまった。覚悟もなく。
 もしも信じなかったら……。
 ただの事実を、ロドリックが『ユリアンはそんなことをしない』と言ったなら。
 ロドリック様。
 僕は――。
「俺でも殺すぞ」
 その時、ロドリックの声が届いた。
 隔たれたはずなのに、その声は鮮明だった。
「自分の愛するものを殺そうとする人間がいるなら、俺でも殺す」
「な、何をおっしゃってるんですか」
 アルノーが動揺したように言う。ユリアンは目線だけ声の方に遣る。
「たかがトカゲですよ! そんなもののために人を殺す馬鹿はいますか?」
「マルクスだ」
「はぁ?」
「トカゲではない。彼はマルクスだ」
 ユリアンは、顔を上げた。
「あれはただのトカゲではなく、ルローカナヘビのマルクスさんだ」
「……な、何を言ってるんです」
「そしてユリアンの友達だ」
「はぁ?」
「そいつはマルクスさんを殺そうとしたんだろ。ユリアンに危害を加えようとしたはずだ。そんな男、俺でも殺してる」
「あ、頭がおかしい、貴方狂ってるんじゃないですか!?」
「俺が狂っているかだと!?」
 怒号が地下いっぱいに響いた。かつて戦場を震わせた男の声は、肌がひりつくほど恐ろしいのに、ユリアンはその声をひたすら見つめている。
「今更何を言う。証明して見せようか。俺が狂っているのか、今ここで!」
 ユリアンは瞬きもせずに目を見開いている。
「ユリアンは大切なもののために戦える男だ。戦うしかなかったんだろ」
 ……誰にも話していなかったことがある。
 誰も知らない、本当の願い。
「それ以外に道はなかったはずだ!」
 ――僕は。
 僕はずっと、マルクスさんが羨ましかった。
 本当に夢見ていたのは、あたたかい海の街で暮らすことではない。
 マルクスさんと共に冬眠することだった。
 あの時……、三年前の夜に思ったのだ。男が地に落ちた音を聞いた時、はっきりと分かった。あぁ、僕も、今死んでいってるんだな。心が壊れてる。次の瞬間にも彼に続いて身を投げてしまいそう。狂っていく。わかってる。でも、どうにもできない。僕は僕の狂いを止められない。
 強制的なヒートの熱と、たった今落ちていった男の顔。全部が僕を追い詰めて、煩雑とする思考の中でこれだけを思っていた。
 ――こんなに恐ろしいことが起きるなら生まれてこなければ良かった。
 でも、あの夜、僕のそばにはマルクスさんがいた。
 マルクスさんが見つめてくれた。だから生きてこられた。強く、強く思った。この子と共に生きていこう。この子がいなければ、生きていく意味がない。
 マルクスさんと共に生きていく未来を想像すると、不思議と何もかもが煌めいて見えた。そこには青くて穏やかな海が広がり、暖かな風が吹いている。そんな街で暮らすことを希望として、毎日を堪える。マルクスさんと朝から晩まで過ごした。彼のために子守唄を歌って、僕も眠る。春になり、夏が過ぎ、また秋に染まっていく。
 やがてマルクスさんは冬眠をする。そして彼が目覚めるのを待つ季節に落ちる。
 夢見ることで毎日を耐えながらも、マルクスさんが眠った後に冷たい冬に包まれると、自分自身も長い夢に落ちたようにぼんやりとして、無理に封じ込めた暗い記憶に溺れた。
 そうして知るのだ。
 僕は。
 僕はもう。
 終わってしまったんだ。
 あの時、突き出た骨に触ってしまった。内臓のてらてらとした煌めき。どうして触ってしまったんだろう。忘れられない。もうあれを触る前の僕には、戻れない。
 何も知らなかった頃に戻りたい。何も考えずに眠りたい。捨てられたことや、傷つけられた事。殺してしまったこと。そして今もまだ恐怖にいること。全部忘れて、何もなかった頃の自分に戻って、ただ安心して眠りたい。でもそれは僕には一生できないし、今まで僕にそれが訪れたことなんて本当は一度もないんだ。
 そうして本当の願いが顔を出す。あぁ僕は、マルクスさんのように深く眠って、でも、春に目覚めずにそのまま眠り続けていたい。
 死にたいわけではない。ただ永遠に眠っていたかった。僕はいつも弱くて、夢がないとやっていられなかった。歌い終わったら、どこへ行こう?
 行く先が見えない。
 マルクスさんと同じ場所へ行きたい。
 この人生には悪夢がついて回る。
 この秘密が僕を殺していく。
 死ぬまでも、ずっと
 ――それなのに。
「ユリアンは悪魔なんかじゃない。お前は何も、見えていない!」
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