罪と罰の天秤

一布

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第二章 金井秀人と四谷華

第二十七話④ 無垢な優しさは下衆にも向けられるのか(後編②)

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 とりあえず、金髪の男を殺すか。秀人は彼に近付こうとした。

「秀人! 駄目!」

 華は大声で叫び、後ろから抱きついてきた。秀人を抱く腕を、力一杯、締め付けてきた。必死に秀人を止めようとしている。

「殺しちゃ駄目! お願い! やめて!」
「どうして? こいつらは、華にひどいことをしたんだよ? 殺されて当然の奴等なんだ」
「それでも駄目!」

 秀人に抱きつきながら、華は鼻を啜っていた。背中に、生温かい感触。秀人のパーカーに、華の涙が染み込んでいる。

「華、知ってるよ。秀人は優しい人だって。だから、人殺しなんて駄目。人は、死んじゃったら生き返らないんだから。優しい秀人が人殺しなんて、絶対に駄目なんだから」
「……」

 死んだら生き返らない。当たり前のことだ。

 そんな当たり前のことに、秀人はもう、三十年近くも苦しめられている。

 二度と会えない家族。優しくて、温かい家族。平和で幸せだった過去。あの時間は、もう戻らない。殺された家族は、絶対に生き返らない。

 ――人殺しなんて駄目、か。

 華の言葉を反芻して、秀人は苦笑した。自分は、もう数え切れないほどの人を殺している。この三人を見逃したとしても、もう手遅れなのだ。華の言うような、優しい人間なんかじゃない。姉のように、自分の命を犠牲にして家族を助けるような人間じゃない。

 手遅れだから、華の言うことは聞けない。

 だけど、この場で華を説得するのは不可能だろう。こんなにも、テンマを恨むように仕向けたのに。こんなにも、自分に惚れさせたのに。

 華は、自分が人を殺すことだけではなく、秀人が人を殺すことすら止めようとしている。知能が低いのに、思うようにコントロールできそうにない。

 秀人はそっと、華の手に触れた。自分を止めようとする、華の手。

「分かったよ、華。だから離して」
「……本当に?」
「ああ」

 華が、秀人から手を離した。振り向いて彼女を見ると、心底安心したような顔をしていた。

 ――そんなに、テンマを助けたかったのか。

 胸中で呟くと、秀人は、ナイフを握る手に力を込めた。

 華は、秀人の思うようには動かない。どんなに洗脳しても、今以上に秀人に惚れさせても、人を殺さないだろう。自分を騙し、弄んだ男ですら、助けようとしたのだから。

 人を殺せないなら、華に利用価値はない。彼女の面倒を見たこの四ヶ月は、まったくの無駄だった。ナイフや銃の使い方を教えたことも、知能を上げるために勉強させたことも、性病を治療したことも、一緒に料理を作ったことも。

 全部、無駄だった。

 ――だったら、こいつはここで……

 華をとっとと殺して、テンマ達には、適当な事件でも起こさせるか。

 思惑通りにいかなかった計画の、再利用。華が使えないなら、せめてテンマ達だけでも使う。

「なあ、華」

 思考を巡らせる、秀人の頭の中。

「そんなにテンマを助けたかったの?」

 だが、秀人の心は、思考とはまったく別のことを言わせた。

「そんなに、テンマのことが好きなの?」

 自分の言葉が、自分の耳に届いて。言葉の意味を理解して。

 秀人は戸惑った。何を言ってるんだ、俺は。華は完全に、俺に惚れてるのに。

 秀人に聞かれて、華の表情が見る見るうちに変化した。顔をクシャクシャに歪めて、また大粒の涙を流し始めた。彼女の瞳は、秀人を睨んでいる。テンマの本心を知ったときも、こんな顔は見せなかった。

 明らかに怒っている顔。

「秀人のバカ!」

 大声で怒鳴り、華は泣き出した。秀人が知る限り、一番の大声で泣いていた。泣きながら、必死に訴えてきた。

「華が好きなの、秀人だもん! 秀人が好きなの! 秀人とずっと一緒にいたいの! でも、殺しちゃ駄目なの!」

 わああああ、という大きな泣き声。まるで、迷子になって泣き叫ぶ子供のようだった。泣き声の中に、「なんで分かってくれないの!?」と、秀人に対する批難が混じっていた。

「華が好きなの、秀人なのに! 秀人が好きなのに! どうしてそんなこと言うの!?」
「あ……えっと……」

 声を漏らし、秀人は困惑した。どういうふうに対応していいか、分からない。人生で初めてと言っていいほど動揺した。最良の判断が浮かばない。思考がまとまらない。

 数秒か、数十秒ほどか。秀人にしては長過ぎるほど悩んだ後、泣き喚く華を抱き締めた。

「ごめん、華。ごめん」

 秀人の腕の中で、華は、「うー」とも「あー」とも聞こえる嗚咽を漏らしている。

「俺も、華のこと大好きだよ。だから泣かないで。これからもずっと、一緒にいるから」
「ぼんどぉに?」

 泣いて鼻が詰まったせいか、華の言葉が濁っている。「本当に?」と聞いてきたのだろう。

「うん。本当。これからも一緒に暮らそう」
「う゛ん。いっじょにいどぅ」

 秀人は軽く息をつくと、家の中を見回した。ボックスティッシュを見つけた。華から手を離して、ティッシュを五枚ほど取り、そのうち二枚を華の鼻に当てた。

「ほら、華。チーンして」

 華が鼻をかんだ。

 鼻水まみれのティッシュを丸めると、秀人は、適当に放り投げた。テンマの家でわざわざゴミ箱に捨てるほど、律儀ではない。

「まだ鼻かむ?」

 華は首を横に振った。

「だいじょーぶ」
「そっか」

 秀人は華の肩を抱き、テンマ達三人を見回した。いつの間にか、廊下の方まで這って進んでいた。逃げようとしたのだろう。

「待ちなよ、そこの三人」

 秀人に声を掛けられて、三人がビクッと体を震わせた。

 構わず、秀人は続けた。

「華と約束したから、お前達は殺さないであげる」

 床に腹を付けたまま、三人が秀人を見た。恐怖に満ちた目。

「ただし、俺はお前達を許してないから。だから、俺の知り合いに預かってもらう」
「……は?」

 テンマ達は、訳が分からないという顔になった。それでも、どこか安堵しているように見える。殺さないと明言されたからだろう。

「華、これでいいだろ? こいつらは殺さない。でも、華にひどいことをしたから、俺の知り合いに預ける」
「うん」

 華が抱きついてきた。

「ありがとう、秀人。大好き」
「ああ」

 頷きながら、秀人はスマートフォンを取り出した。通話アプリを開いて、電話帳から連絡先を引き出す。タップし、電話を架ける。

 発信先は、檜山組の岡田。

 六コール目の途中で、彼は応答した。

『はい、岡田です』
「こんばんは、岡田さん。秀人だよ」
『存じてます。どんなご用件ですか?』
「チンピラ三人を、引き取りに来て。少し預かって欲しいんだ。怪我人なんだけどね。一人は右肩が外れてて、一人は顎と肋骨が折れてる。もう一人は、手首が折れてる。で、全員、足が折れてる」
『構いませんけど。預かって、どうすればいいですか?』
「別に何もしなくていいよ。まあ、治療してくれると有り難いかな。あとは、可能な範囲でこき使ってもいいし」
『はあ』
「時期を見て、俺も顔を出すから」
『よく分かりませんが……承知しました。どこに向えばいいんですか?』
「えっと、ね。住所は――」

 この家の住所を伝える。

『分かりました。ウチの者を何人か向わせます』
「うん。お願いね。あと、全員足が折れてるから無理だと思うけど、逃げようとしたらいいから」
『はい』
「じゃあ、よろしくね」

 会話を終えて、秀人は電話を切った。抱きついている華を一旦離して、テンマ達のところに足を運んだ。彼等の前でしゃがみ込む。怯えた目でこちらを見る彼等を、睨み付ける。

「まあ、聞いた通り。これから、お前達を引き取りに来る人がいるから。大人しくついて行って」
「あの……えっと……誰が?」
「檜山組って組の人」

 言うと秀人は、口元に冷笑を浮かべた。

「そういえば、お前、バックにヤクザがいるとか言ってたよね?」
「……」
「どこの組織の人と知り合いなの?」
「……」

 テンマは黙り込んだ。この反応で十分だ。つまり、秀人を脅すためのハッタリだった。

「まあ、お前にどんな奴が味方していようと、関係ないか。逃げたら殺されるのは分かるだろうし、その怪我じゃ逃げるのも難しいだろ?」
「……はい」
「じゃあ、大人しくお迎えを待っててね」

 言うだけ言って、秀人は立ち上がった。華に向って手を伸ばす。

「じゃあ帰ろうか、華」

 涙の痕を残したまま、でも笑顔で、華が頷いた。

「うん」

 華に人を殺せないのは、今回の一件で分かった。秀人にとっては、まったく使い道のない女。色々と教え込んだのは、ただの無駄だった。

 それでも、別にいいと思えた。華は秀人に惚れている。もう離れられないというほどに。

 それなら。

 ――大きい猫を一匹保護したと思えばいいか。

 華の手を取って、秀人は、テンマの家を後にした。
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