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第六話② 決意を知らず、絶望に堕ちる(後編)
しおりを挟む――あの日。
洋平は、五味達4人に、マンションの建設現場に呼び出された。高校から1キロメートルほど離れた場所。五味の父親の会社が施工管理している現場。建物の土台となる、掘り起こされた部分。
五味が洋平を呼び出した理由は、想像通りだった。
「美咲と別れろ。あいつは、俺の女になるんだ」
「俺と美咲が別れたからって、美咲がお前を選ぶはずないだろ」
キッパリと、思ったことを口にした。同時に、4人がかりで脅されたからといって、美咲と別れるつもりもなかった。
五味達は、至極単純に暴力で訴えてきた。3人がかりで洋平に殴りかかってきた。
ボクサーである洋平は、簡単には手出しできない。この国の正当防衛が成立する要件は、正気の沙汰とは思えないほど厳しい。
法律上の条文では、正当防衛とは、このように記されている。
『急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為』
『防衛行為が必要最低限のものであること』
この『防衛行為が必要最低限のものであること』が、正当防衛成立を著しく困難にさせる。
殺意や殺意に近い感情を抱いて襲ってくる者を、最低限度などという境界線を引きながら撃退するのは、非常に困難だ。中途半端な抵抗はかえって相手を激高させ、さらに大きな被害を招く。かといって、無抵抗のままでも、無事でいられる保証はない。
害意を持つ者に襲われた場合、相手を行動不能にしなければ、身の安全を図ることなどできない。
洋平にとって、五味達を行動不能にすることなど簡単だった。グローブを着けていない拳で人を殴ったら、拳の方が負傷してしまう。それならば、掌で殴ればいい。目の周辺を数発殴れば、瞼が大きく腫れ上がり、視界を失うだろう。簡単な作業だ。
作業自体は簡単なのだ。それが、正当防衛として確実に認められるのであれば。
数人がかりで襲われたという事実があっても、正当防衛は認められない。洋平は、そう確信していた。五味達を撃退すれば、洋平がボクサーだという事実だけで、過剰防衛と判断されるだろう。つまり、傷害の罪に問われる。
洋平が傷害の罪に問われたら、どうなるか。母親が非難される。付き合っている美咲にも迷惑がかかる。もしかしたら、法律を生業としている美咲の母にまで迷惑がかかるかも知れない。
そんな確信に近い不安があるから、洋平は、五味達を撃退できない。
危険を伴うが、防御に徹して五味達が疲れるのを待つしかない。洋平は、3人の最初の攻撃を、ある程度大きくバックステップして避けた。素人らしい、大振りのパンチ。彼等が武器も持たずに襲いかかってきたのは意外だったが、好都合でもある。
2、3度、彼等の攻撃を避けた。避けながら、じっくりと観察した。利き手を耳の後ろまで大きく振りかぶり、弧を描くように全力で振ってくる。間合いも、タイミングも、拳の軌道も見切れた。
ボクサーは、戦う際に、自分と相手の距離を測る。同時に、相手のパンチの距離や軌道、自分に届くタイミングを計る。距離とタイミング、軌道が読めれば、容易に避けることができる。攻撃を見切る、と言われる行動。攻撃を見切ってしまえば、相手の射程圏内にいても、苦もなく避けられる。
洋平達は、建築現場の土台の部分にいる。掘り起こされた場所。
洋平は意図的に後退し、土台の土壁を背にした。こうしていれば、背後から襲われる心配はない。いくら攻撃を見切ろうとも、背後からの攻撃は避けられない。後ろに目はないのだから。
土台の深さは、1.5メートルほどか。土壁に背を預けながら攻撃を避けるには、十分な高さだ。
土壁を背にした洋平を、3人が取り囲んだ。洋平が、3人に追い込まれたようにも見えるだろう。彼等も、洋平を追い込んだと思っているはずだ。
3人は、洋平に向かって何発もパンチを繰り出してきた。正面に五味、左右に取り巻きの2人。正面からのパンチは手で払い落とし、左右からのパンチは両肩で弾いた。余裕を持って防御に徹しながら、洋平は、彼等が打ち疲れるのを待っていた。
「……?」
3人の攻撃を避けながら、洋平は、ふいに違和感を覚えた。
――3人?
正面に五味。左右に、彼の取り巻きが1人ずつ。
洋平が呼び出されたとき、ここには4人いたはずだ。五味自身に、その取り巻きが3人。合計4人。
――残りの1人はどこに行った?
そんな疑問を抱いたときには、もう手遅れだった。
バチバチッと、洋平の耳元で嫌な音が鳴った。青白い光が、洋平の後方で発生した。同時に、洋平の体中に、引き痙るような痛みが走った。全身の筋肉が痙ったような状態になり、体が硬直した。
瞬時に気付いた。五味の取り巻きの1人が土台から出て、背後に回り込んだのだ、と。
体が痙って動けなくなった洋平は、立て続けに数発殴られた。痙って硬直した足では逃げることもできず、体を支え続けることもできなかった。殴られた痛みを感じながら、その場にうつ伏せに倒れた。
11月の土は、ひんやりしていた。地面に触れた頬が冷たい。
洋平の横で、誰かが、土台の中に降りてきた。着地する足音。体が動かないので確かめられないが、洋平に何かをした奴だろう。あの音と青白い光。体が引き痙って動けなくなったことから考えて、スタンガンを当てられたのだと想像がついた。
「おい。もう1発やっておけ」
五味の声が耳に届いた。何をされるのか、簡単に想像がついた。当たって欲しくない想像だった。
バチバチッ
再度、先ほどの嫌な音が聞こえた。またスタンガンを当てられたのだ。洋平は、苦悶の声すら出せなかった。喉や横隔膜すら引き痙っている気がする。呼吸をすることさえ苦労するほど、全身の筋肉が言うことを聞かない。
「よう、ボクサー」
頭上から、五味の声が聞こえた。嘲るような声だった。
「ずいぶん余裕こいてたな」
嘲りと、怒りも混じっているようだ。怒りをぶつけるように、五味は、倒れた洋平を何度も蹴ってきた。蹴られた衝撃で、洋平の口から息が漏れた。苦悶の声も出せないのに、息は出せるらしい。呼吸をすることさえ苦しい状況で何度も蹴られたせいか、頭がボーッとしてきた。
十数発蹴って息を切らした五味が、洋平に命令してきた。
「美咲と別れろよ。お前とじゃ不釣り合いだ。あいつは、俺の女なんだよ」
馬鹿か。別れるわけないだろう。そう言おうとしたが、言葉が出なかった。漏れたのは、「あ」とも「う」とも聞こえる声。腹の筋肉が引き痙って、上手く喋れない。
返答がないことを否定と判断したのだろうか。五味はしゃがみ込み、洋平のジーンズのポケットを探った。前ポケットに入れていたスマートフォンを取られた。
「まあ、お前が別れようと別れなかろうと、あいつは俺の女になるんだけどな」
五味は、洋平のスマートフォンを操作し始めた。
洋平は、スマートフォンに画面ロックを掛けていない。美咲に言っていたのだ。
「俺に怪しいところがあったら、いつでもスマホを見てくれ。ロックはしないから」
裏目もいいところだ。美咲ならともかく、こんな奴に使われるなんて。
「結局、女なんて、1回ヤッちまえばいいんだよ」
引き痙る洋平の背筋に、ゾクリと悪寒が走った。鳥肌が立ったのは、寒いからではない。これから五味が行なおうとしていることに虫唾が走り、同時に、恐怖を覚えた。
「お。チャット発見」
五味は、チャットで美咲を呼び出すつもりだ。洋平のスマートフォンを使って。洋平を装って。彼女を呼び出し、襲うつもりなのだ。
洋平は、最悪の事態に備えていた。念のため、メールで、美咲に注意喚起を送っていた。
『今日は、誰から連絡があっても、絶対に家から出るな。俺からの連絡だったとしてもだ』
万が一のための対策メール。五味が洋平を呼び出した時間に見られるよう、送信予約をした。チャットを使わなかったのは、リアルタイムでメッセージを送ると美咲に言及される可能性があるから。五味に呼び出されたことを美咲に知られずに、カタを付けたかった。
しっかりと対策をしたつもりだったが、不安だった。普段はチャットでやり取りをしている美咲が、洋平のメールに気付くだろうか。もし、気付いていなかったとしたら。メールを見る前に、五味が送信したチャットを見てしまったら。
間違いなく、美咲はここに来てしまう。ここに来て、待ち伏せていた五味に……。
洋平の全身が、急激に冷たくなった。これから起こるだろう最悪の事態に、心臓が強く脈打った。
――駄目だ! それだけは絶対に駄目だ! どんなことがあっても、美咲だけは守るんだ!!
洋平の体は、思うように動かない。全身を襲う、引き痙る痛み。動かそうとしても、体が痙攣して言うことを聞いてくれない。
それでも、動かなければならない。
――俺がどうなっても、美咲だけは守るんだ!
ビクビクと痙攣する体を、洋平は無理矢理動かした。
五味は、洋平のスマートフォンを使って美咲を呼び出そうとしている。たとえ彼から奪ったとしても、今の洋平では、簡単に奪い返されるだろう。
それならば、壊すしかない。
洋平は、引き痙った両腕にあらん限りの力を込めた。腕立て伏せのような体勢で、上体を全力で逸らし上げた。五味が手にしているスマートフォンまで、頭を持っていった。
口を大きく開けて、五味が手にしているスマートフォンに噛みついた。全力で顎に力を入れ、五味からスマートフォンを奪い取った。
そのまま、自分の顔ごと、スマートフォンを地面に叩き付けた。
バキバキバキッ――ボキンッ!!
スマートフォンの液晶や、中の部品が割れる音。その音を、洋平は、口内からの骨伝導で聞いていた。同時に、歯茎に凄まじい痛みが走った。歯が数本折れたのだ。割れたスマートフォンの液晶が、口内をズタズタに切り裂いた。口の中に、生温かく鉄臭い味が広がった。
通常であれば、失神しても不思議ではないほどの激痛。それでも洋平は、意識を手放さなかった。ただひとつの気持ちが、意識を保たせた。
――よかった。これで、美咲を守れた。
洋平の心の中は、それだけだった。美咲の身を案じ、彼女を守れたことに安堵した。自分がこれからどんな目に合わされるか、想像しなかったわけではない。だが、恐怖はなかった。美咲のことだけを考えていた。
もっとも、命まで奪われるとは思っていなかったが。
思惑を妨害された五味は、洋平の想像通りに激高した。
「ふざけんなや! てめえ!!」
直後、凄まじい暴行が洋平に降り注いだ。顔や背中を、叩き付けるように踏まれた。何度も、何度も、何度も、何度も。何度も何度も何度も何度も何度も。
――洋平は、殺されたときの凄惨な暴行を思い出していた。
美咲を守ることに、ただただ必死だった。自分の身の危険も顧みなかった。物言わぬ死体となった後、冷たい土に埋められた。それでも、美咲を守るために命を賭けたことを、後悔はしなかった。
そして今も、洋平は後悔していなかった。
粉々に砕けた、洋平の心。ガラスの破片のように散らばった。辛いし、悲しい。痛みを感じる体はないが、心の痛みは明確にあった。
この痛みは、恨みや憎しみではない。命を捨てて美咲を守ったことに対する後悔でも、もちろんない。
俺のせいで、美咲の時間を奪ってしまった。俺なんかが告白しなければ、美咲は今頃、本当に好きな人と付き合えていたんじゃないか。洋平の心を砕いたのは、そんな後悔。
洋平は、美咲が好きだった。幼い頃から、誰よりも好きだった。
洋平が美咲と仲良くなった、幼い頃。
夫の暴力のせいで離婚となった咲子は、洋平に、こんなことを言った。
「美咲を守ってあげてね」
だからボクシングを始めた。好きな人を守れる男になりたかった。
洋平にとって、美咲は、何よりも誰よりも大切な人だった。何よりも誰よりも、大好きな人だった。彼女を守り、彼女に幸せになってほしかった。彼女を守って命を失ったことを、後悔するはずがなかった。
美咲が時折見せる、かすかな表情の変化が好きだった。彼女自身は自分を無表情だと思っているようだが、案外、そんなことはないのだ。
美咲は、嬉しいとき、少しだけ口角が上がる。それは、ほんのかすかな変化。同時に、ちょっとだけ目元が緩む。それは、透かし絵で見なければ気付かないほど、小さな変化。
洋平は、美咲の表情が好きだった。自分だけが知っている、彼女の表情。他の人には分からない、彼女から染み出す感情。彼女のためなら、自分の全てを差し出せるほど好きだった。
だからこそ、五味なんかとは付き合って欲しくなかった。
「五味はクズだ! 人殺しだ! 自分の欲求のために、平気で美咲を襲おうとした! 邪魔をした俺を殺した! そんな奴と付き合っても、いいことなんてない!」
大声で、美咲に訴えた。声を出しているつもりだった。
美咲も五味も、洋平の存在になど気付かない。声も届かない。
今さらながら、洋平は、自分の状況を恨めしく思った。何も伝えられない。美咲を守れない。
美咲には、幸せになってほしいのに。自分を選ばなくてもいい。自分のことなど忘れてもいい。嫌いになってもいい。ただ、美咲が幸せであればいい。
それなのに、何も伝えられない。
洋平の言葉は、声になることすらなく、虚空に消えていった。
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