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第十一話 美しい死神が、断罪の鎌を研ぐ
しおりを挟む最初は、妙だとしか思わなかった。
五味が洋平を殺したと知っても、美咲は、警察に通報しなかった。それどころか、彼女は五味と付き合い続けた。あれほどまでに五味を嫌っていたのに。
美咲は五味を誘導し、キャリーバッグを4つも買わせた。長期旅行にも使えそうな、大きなキャリーバッグ。服も買わせていた。黒を基調とした、シックな色合いの服。夜道を歩くときに目立たなそうな服。
美咲のおかしな行動は、さらに続いた。咲子に相談して、スポーツジムに通い始めた。
洋平が知る限り、美咲は、積極的に体を鍛えるような性格ではない。運動神経も特別いい方ではない。そんな彼女が積極的に運動しようとするところなど、洋平の記憶にはない。
最近の美咲の行動は、洋平にとって、見ず知らずの他人のようだった。
不可解な美咲の行動に辻褄が合い始めたのは、12月中旬に差し掛かった頃だった。
彼女はレジャーショップに足を運び、サバイバルナイフを購入した。しっかりとしたフィンガーガードが付いた、サバイバルナイフ。それこそ、獣の肉を骨ごと刺し貫けそうな。
嫌な予感が、洋平の胸中に広がった。もう心臓なんてないのに、必要以上に大きな鼓動が聞こえた。ドクンッ、ドクンッという音。ないはずの耳元で、大きく反響している。
洋平は、嫌な予感を必死に振り払おうとした。きっと、新しい趣味を開拓しているだけだ。美咲は、洋平を失った悲しみを忘れるために、普段とは違うことをしているだけだ。
無理のある理由を、洋平は自分に言い聞かせていた。
それが都合のいい言い訳だと気付くまで、それほど時間はかからなかった。
美咲は、夜の公園を訪れた。五味に買わせた黒いコートを着て、ショルダーバッグを肩に掛けて。
何度か、洋平と来たことがある公園だった。大きな公園で、ボート乗り場もある。
最後に洋平と美咲がここに来たのは、今年の夏だった。洋平が、インターハイを終えて帰ってきた後。夏休み中のデート。公園の中を歩き、ボートに乗った。ベンチで、美咲が作った弁当を食べた。
今にして思えば、なんて幸せな思い出だろう。
けれど、美咲の目的は、思い出に浸ることではなかった。
美咲は、ショルダーバッグから金槌を取り出した。ボート乗り場に足を運んでゆく。
この公園のボート乗り場は、冬になっても水抜きをしない。
12月になって気温がマイナスまで下がると、池の水は凍り付く。人が乗っても割れないくらいの、分厚い氷となる。
美咲はそっと、池に足を踏み入れた。完全に凍り付いた池は、割れる気配すら見せない。
慎重に、ゆっくりと、美咲は池の中央部まで進んだ。氷の表面に積もった雪が、彼女の足跡を残してゆく。
池の中央部まで来ると、美咲は足を止めた。手袋を脱いで、ショルダーバッグのファスナーを開ける。中から取り出したのは、軍手だった。滑り止め用のゴムがびっしりと着いている。
軍手を履くと、美咲はその場にしゃがみ込んだ。氷をコンコンッと叩き、厚みを確かめている。右手で金槌をしっかりと握り、大きく振りかぶった。鋭く息を吐いて、金槌を振り下ろした。
氷はガラスとは違う。簡単には砕けない。ガラスを割ったときのような高い音も鳴らない。ガンッガンッという鈍く低い音が、夜の公園に響いた。
今の洋平には、音など聞こえない。それでも分かる。静まり返った公園の中で鳴る音は、美咲の耳には、いやに大きく聞こえているだろう。
何度か金槌で氷を叩くと、ポチャンと音がした。氷が割れて、池の水が顔を出した。
美咲はさらに金槌を振り下ろし、氷の穴を広げた。縦1メートル、横50センチほど。そこまで穴を広げると、金槌を振り下ろす手を止めた。
今まであまり運動をしてこなかった美咲にとって、この作業はかなりの重労働だったはずだ。息が切れている。氷点下の寒空の下で、彼女の吐く息は白くなっていた。
美咲が開けた、氷の穴。縦1メートル、横50センチほどの穴。その存在を検知して、洋平の嫌な予感は、ますます現実味を帯びてきた。
美咲が五味に買わせたキャリーバッグが、ちょうど入りそうなくらいの大きさだ。
美咲は大きく深呼吸をして、息を整えた。コートを脱いで腰に巻き、セーターの腕をまくった。
この寒空の下で、どうしてコートを脱いだのか。どうして腕をまくったのか。
その答えは、洋平の思考の中で簡単に導き出された。
――この池に何かを沈めるつもりであれば、念のため、深さも確かめる必要がある。
美咲の行動は、洋平の予想通りだった。覚悟を決めるように、大きく深呼吸をした。金槌を持ったままの右手を、氷の穴の中に沈めていった。
水の中に腕を入れた瞬間から、美咲の体がガチガチと震え始めた。それでも彼女は、水の中から手を抜かない。思い切り伸ばしているであろう腕を、水の中で動かした。
しばらく水の中で動かした後、引き上げた。美咲の腕は、真っ赤になっていた。握った金槌の先端を確認している。池の底に届いていなかったか――池の泥が付着していないか、確認しているのだ。もし泥が付いていたら、美咲の腕+金槌の長さが、この池の深さということになる。
金槌の先端に、泥は付いていなかった。つまり、この池には、十分な深さがあるということだ。何かを沈めるための、十分な深さが。
洋平には、もう、美咲の思惑がはっきりと分かっていた。
分かりたくない。できれば、思い違いであって欲しい。けれど、これが思い違いであるという都合のいい展開など、あるはずがない。
ナイフは、五味を殺すための道具。
キャリーバッグは、五味の死体を詰めるための棺桶。
この池は、五味の死体をキャリーバッグごと沈める墓場。
スポーツジムに通い始めたのは、五味を殺し、死体を解体し、池の氷を割って死体を沈める体力をつけるため。
もう、疑いようがない。
冷え切って真っ赤になった、美咲の腕。腕から水を拭き取り、セーターの袖を下ろして、コートを着た。凍える体は、ガタガタと震えている。反面、彼女の目には、鋭い光が宿っていた。断固たる決意がにじみ出る目。ほとんど動かない表情の中で、その目だけが、彼女の気持ちを痛いくらいに表していた。
今の洋平には、体がない。見えない。聞こえない。話せない。それでも洋平は、叫ばずにはいられなかった。生前の感覚をそのままに、大声で美咲に訴えた。
「やめろ! 五味に復讐したいなら、警察にでも突き出せばいい! それだけで、あいつの人生には大きな傷が付く! それで足りないなら、ネットであいつの実名でも晒せばいい! それで十分だ!!」
美咲と幸せになりたかった。美咲を幸せにしたかった。だから洋平は、生前、努力を惜しまなかった。ボクシングで彼女を守れる力を身に付けつつ、必死に勉強して将来の設計を立てようとしていた。
洋平の努力の根源は、美咲だった。彼女との幸せな未来を思い描くだけで、いくらでも努力できた。
美咲に幸せを運べる男になりたかった。
死んでしまった今、洋平の夢は、もう叶わない。
それならせめて、美咲には、幸せに生きて欲しかった。復讐などに囚われて欲しくない。犯罪に手を染めて欲しくない。五味を警察に突き出して、全てを終わりにして欲しい。これから、信頼できる人を見つけて欲しい。
美咲と幸せになる男が自分でないのは、悲しい。でも、彼女が幸せになれるのなら、それでいい。
けれど美咲は、幸せから大きく道を外れようとしている。洋平のために、彼女自身の幸せを放棄しようとしている。
洋平は、何度も何度も叫んだ。すでに存在しない両手で、美咲の肩を掴んだ。自分の気持ちを訴えた。
しかし、洋平の気持ちは届かない。美咲の肩を掴んだ両手には実体がなく、言葉は音にならない。
死者が生きている者にできることなど、何もない。何も伝えられず、何の力にもなれない。その現実を、嫌というほど思い知らされた。
五味殺害後の処理について確認を終えると、美咲は、池の上を後にした。体はまだ震えている。表情は、相変わらず動きがない。この寒空の下で、痛みすら感じるほど冷たい水の中に腕を沈めたというのに。顔をしかめる気配すらない。
しかし、美咲の無表情の下には、表現できないほど深く大きな憎悪が渦巻いている。憎悪は視野を狭め、復讐のみに全てを捧げている。
今の美咲は、死神のようだった。綺麗な顔をした死神。
洋平は何もできない。美咲と止めることも。美咲を支えることも。慰めることも。
ただ、見ていることしかできない。
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