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第1章
第2話
しおりを挟むリオールと別れたあと、アスカは帰宅途中の橋の上で立ち止まり、川面を見下ろしていた。
水面に映る陽の光がゆらゆらと揺れて、心の奥のざわつきまで映し出すようだった。
──思い返すのは、数日前のこと。
□
「皇太子殿下の訓練相手として、そなたが選ばれた」
突然、国からの使者がそう告げにやってきた。
あまりに唐突な申し出に、アスカはもちろん、両親も弟たちも呆然として言葉を失った。
皇太子殿下に関わる機会など滅多にあるものではない。
それだけでも大変名誉なことなのだが──
「……え、これ、本当に……?」
報酬金の額に、目を疑った。
これまで見た事もない程の金額で、思わず手が震える。
これまでアスカは、発情期のたびに家族に迷惑ばかりかけてきた。それに、オメガであることを、心のどこかで負い目に思っていた。
けれど今、その性が誰かの役に立てるなら。家族に少しでも恩を返せるなら──これは、逃すわけにはいかない。
やり遂げれば、しばらくの間は貧しさに苦しまずに済むだろう。
そう思って、深く考える間もなく了承の返事をした。
だがその直後、訓練の“内容”を知らされ、アスカはその場に固まる。
皇太子殿下の訓練。それは、夜伽のことだった。
両親の顔色が見る間に青ざめる。
弟たちは内容を理解できず、ただきょとんと首を傾げているだけ。
それでもアスカはぐっと震える手を握りしめる。
「……本当に、それをやり遂げれば、この金額が貰えるのですか」
「ああ」
使者は淡々と頷く。
リオールがどんな人物なのかは分からない。
でも、できるなら──少しでも優しい人であってほしい。
胸の内に、小さな願いを灯す。
「アスカ……無理しなくてもいいのよ」
母が背中を撫でながら、不安げな目でそう言った。
アスカは微笑んで、その手を握る。
「母さん、俺……やるよ」
「そんな……あなたが犠牲になることはないの」
“犠牲”という言葉に、使者の眉がぴくりと動いた。
怒りを買う前に、アスカは首を振る。
「犠牲なんかじゃない。……ありがたいことなんだ。だから、やってくるよ。……上手くできるかは分からないけど……」
声は少し震えていたが、瞳はまっすぐだった。
「……やります。俺を、連れて行ってください」
伽なんて、経験もない。
誰かと付き合ったことすらない自分に務まるのか、不安ばかりが押し寄せてくる。
それでも。
「承知した。三日後、迎えに来る」
使者はそう言い残し、帰っていった。
三日先の約束は、すぐそばに迫る刃のようだ。
まだ時間があるはずなのに、胸の中ではずっと緊張の波が打ち寄せていた。
怒らせないようにしなきゃ。
ちゃんと役目を果たさなきゃ。
そう言い聞かせるように、何度も深呼吸を繰り返しながら、三日後、「頑張って」と家族に見送られ、アスカは家をあとにした。
そうして 訪れた城は、これまで見たこともないほど大きく、そして威厳のあるものだった。
庶民の暮らしとはあまりにかけ離れたその佇まいに、アスカは思わず息を呑む。
城に入って最初に案内されたのは湯殿だ。
湯に浸かる間もなく、複数の手によって体の隅々まで丁寧に洗われる。
誰かに洗われるなんて初めてで、しかも裸を見られているのは初対面の人たち。
恥ずかしさで身を縮めそうになるが、お給金のためだと何度も心の中で唱え、なんとか耐えた。
綺麗に洗い上げられた肌には、これまで触れたこともないような、上質な布でできた衣が着せられた。
まるで別の誰かになったかのような気がして、少し息苦しささえ覚える。
「よろしいですか? 爪は立てぬように。多少の痛みや辛さは我慢してください。とはいえ、殿下はお優しい方です。どうしても耐えられぬ時は、正直にお伝えください。必ず止めてくださいます」
「……はい」
「これより、殿下の寝殿へお連れします。途中で目隠しをいたしますが、殿下が許すまで外さぬように。天蓋の中へご案内いたしますので、その場でご挨拶を」
いよいよ、その時が近づいてきた。
アスカは、淡々とした口調で重ねられる言葉を、ただ静かに聞いた。
「ご不明な点は?」
「……いえ、大丈夫です」
「では参りましょう」
心臓がドクドクとうるさく鳴っていた。
まるで、胸から飛び出してしまうのではないかと思うほどに。
やがて寝殿の前に着くと、最後に目隠しがされ、やさしく背中を押された。
布の揺れる気配と共に、天蓋の中へと導かれていく。
「お待たせいたしました。本日はどうぞ、よろしくお願いいたします」
声は震えなかった。よかった。
あとは流れに身を任せ、終わるのを待つだけ。
──そう、思っていたのに。
どうして、俺は今、地下牢にいるのだろうか。
薄暗く、湿った冷気が肌にまとわりつく。
息を吸っても胸が冷え、指先が悴んだ。
何もかもが現実離れしていて、まるで悪い夢を見ているようだった。
あのとき、挨拶をした。それだけだ。
何かを身に着けているかと聞かれたが、それは禁じられている条件だったから当然、何も着けていないと答えた。
それだけのことで、怒りに触れたのだろうか?
まさか……不敬だと咎められて、死罪になったりしないだろうな……。
そんな想像ばかりが頭の中を巡る。
怖い。震えが止まらない。
こんなに高価な服も、今ではすっかり薄汚れてしまった。
気を紛らわす術もなく、不安だけが膨らみ続けていたそのとき、
ガチャリ──と、扉の開く音が響いた。
アスカは顔を上げる。
そこに立っていたのは、無愛想な表情の兵士だった。
「出ていいぞ」
促されるまま立ち上がり、牢の外に出る。
「……俺は、これからどうすれば……?」
「お前が着てきた服はそこにある。着替えて、静かに帰れ」
「……どうして捕まったんでしょうか」
「知らん。俺に聞くな」
ふい、と顔を背けられる。
答えは何も得られず、アスカは黙って着替えを済ませた。
案内された階段を静かに上る。
その先に見えるのは、明るなっている空と城の外壁。
歩き出す足取りは重く、心の中には答えのない疑問だけが残っている。
結局、お給金ももらえず、訳も分からぬまま拘束されて終わった。
まさか、こんな理不尽な結果になるとは思ってもいなかった。
胸の奥にじわりと広がる、悔しさと情けなさ。どうしようもなく心が重い。
どんな顔をして帰ればいいのだろうか。
きっと、皆は期待して待ってくれている。
その気持ちに応えるどころか、何一つ成果もなく、ただ戻るだけなんて。
肩を落とし、俯いたままとぼとぼと歩いていたその時。
「──待て!」
突然の大声に、アスカは驚いて振り返った。
目に飛び込んできたのは、息を切らしてこちらへ走ってくる見目麗しい青年の姿。
織りの細かい、明らかに高貴な身分の者だけが纏う衣服。
その気迫に押され、アスカは咄嗟に頭を下げる。
「良かった、まだ、近くにいた」
聞き覚えのある声だった。
昨夜、寝殿で聞いた──皇太子殿下の声と同じ。
それに気づいた瞬間、今度は何をやらかしたのだろうと、心臓がまた暴れだす。
しかも、殿下の後ろには何人もの従者たち。余計に落ち着かない。
「そなたは目隠しをしていたので私の顔は見ていないと思うが、私は皇太子リオール・エイリーク・エーヴェルだ。昨日は……本当に申し訳ないことをした」
まっすぐに向けられた謝罪の言葉に、戸惑いが先に立つ。
言いたいことは山ほどあったけれど、まさかそれを口にできる立場でもなく。
「め、滅相もありません……」
胸の中に溜まった感情に蓋をして、ただそう答えるしかなかった。
「少し、話せないだろうか」
「ぇ……?」
「昨日のことをちゃんと謝りたい」
思わず顔を上げた。
殿下は、どこか困ったような、悔やんでいるような表情をしていた。
「それに……私の勝手で追い出したうえ、さらに捕らえさせてしまったと聞いた。昨日の分の報酬も、きちんと支払う。だから少しだけ……話がしたいんだ」
アスカは思わず『はて?』と小さく首を傾げる。
「……私は不敬を働いて捕らえられたのでは……?」
「違う!」
リオールの声が少しだけ大きくなった。
「そなたを連れ出せと言ったのは……。そのことも含めて、話がしたいんだ。時間はあるだろうか」
追い出された理由もわからないままでは納得できないし、何よりこのまま帰っても後味が悪すぎる。
それに──タダ働きなんてまっぴらごめんだ。
「……時間はあります」
「! よかった。案内する。ついてきてくれ」
リオールが踵を返し、従者たちを従えて歩き出す。
アスカはその背を見つめ、少し迷いながらも静かにあとを追った。
その先で告げられたのは「番になってくれないか」という一言だった。
あまりのことに頭が真っ白になって、何も考えられなかったのだけれど、落ち着いてから改めて考えてみれば、殿下は十四歳、アスカはすでに十八の成人だ。
その年齢差に気づいた途端、胸の奥にざわりとしたものが生まれた。
どうしたものか、と頭を抱える。
というのも、アスカの一人目の弟、アレンは殿下と同い年だった。
だからこそ、余計に思ってしまうのだ。
まだ十四年しか生きていない少年を、自分のもとに縛りつけてしまっていいのだろうか。
アスカはいつも弟たちに願っている。
たくさんの人に出会い、さまざまな経験をして、恋をして、人との関わりを楽しんでほしいと。
それなのに、彼からその自由を奪ってしまっていいのだろうか。
もちろん、オメガとしてアルファに求められることは嬉しい。
それに、これは玉の輿どころの話ではない。
相手は王族、しかも皇太子。
貧しい平民である自分にとっては、家族の暮らしを支える絶好の機会でもある。
──それに、
「……可愛かったなぁ」
無礼だと怒られるかもしれないけれど。
堂々とした口調がふいに崩れて、恥じらうように視線を逸らすその姿は、反則なくらい愛らしかった。
名前を教えたとき、彼は優しく、それこそ宝物でも扱うように、何度も「アスカ」と呼んでくれた。
その響きはくすぐったくて、けれど確かに嬉しかった。
──また、あの柔らかな笑みが見たい。
ふっと微笑んだあの表情は、美しくて、儚くて。
胸の奥がぎゅっと締めつけられるようにドキドキした。
ぼんやりと物思いに耽っていると、懐に忍ばせた金貨が、チャリンと音を立てる。
その音にハッと我に返り、そっと懐に手を添えた。
帰り際に手渡されたそれは今回の“仕事”にしては、明らかに多すぎる。
そもそも、本来の目的だった仕事は何一つ果たしていないのに。
アスカは胸の奥に小さな引っかかりを覚えながら、静かに足を踏み出す。
複雑な思いを抱えたまま、家へと向かった。
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