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第1章
第4話
しおりを挟む部屋を移し、用意された温かな茶を手にしたアスカは、深いため息を吐いてぐったりと椅子に凭れた。
とんでもない日になった。
思った以上に体に力が入らず、自分でも驚くほど疲弊しているのがわかる。
まさか、自分の身にこんなことが起こるとは。数日前の自分に教えてやりたかった。
あの日、お給金を貰って帰宅した時、家族が揃って玄関まで出迎えてくれた。
安堵に満ちた両親の笑顔と、抱きしめてきた腕の温もり。
彼らに手渡した給金を、まるで宝物でも扱うように大切に受け取ってくれて、アスカの胸も熱くなった。
「ありがとう、アスカ……」
何度も何度も繰り返されるその言葉に、アスカは「うん」と頷いて、肩を震わせながら二人を抱き返した。弟たちも次々に抱きついてきて、ああ、帰ってきて良かった、と心から思ったのだ。
それから数日、リオールの言葉がずっと胸に残っていた。
『番になってくれないか』
あの綺麗な瞳と声を思い出すたび、胸がそわそわする。
けれどやはり悩むのだ。
自分はただの平民であって、何の後ろ盾もない。それなのに彼の傍にいていいのかと。
そんなことを考えながら畑仕事をしていたある日、突然馬の蹄の音が轟いた。
静かなこの村には似つかわしくない音に、家族全員が身を強張らせた。
馬は目の前に止まり、そこから降りてきたのは鋭い目をした騎士だった。
「──貴殿がアスカ殿か」
鋭く睨むその視線に、アスカは咄嗟に膝をついた。家族もそれに倣い、地面に額をつける。
「国王陛下の勅命により、そなたを王宮へ召喚する。今すぐ参れ」
「……え?」
あまりに突然で、理解が追いつかない。
「ど、どうして……?私は何も……」
「質問は許されん。抵抗するなら拘束する」
そう言われては、もはや逆らう術など無い。弟たちが不安そうに自分の服を掴み、「兄ちゃん……」と小さな声で縋るのが痛ましい。
「わかりました。……ただ、畑作業中で……少しだけ、着替えの時間をいただけませんか」
「却下だ。時間が無い」
腕を乱暴に引かれ、立ち上がらされる。
背後で「ああっ!」と母の悲鳴のような声が聞こえて、咄嗟に振り返ったアスカは、笑みを作って『大丈夫』と目で訴えた。
──だが本当は、全身が震えていた。
王宮に着くや否や、引き摺るように謁見所へ連れて行かれ、何もわからないまま床に伏せる。
やがて王が入ってきた瞬間、空気が変わるのを感じた。
「お前が皇太子を誑かしたオメガか」
「……っ!?」
全身が凍りついた。誑かした覚えなど無い。
それどころか、リオールに対して真摯に、慎重に接してきたつもりだったのに。
「皇太子は優秀で、そして甘い。だからこそ、そなたに猶予を与えたのだろうが──余は違う」
声は冷たく、そして一片の感情もなかった。
「すぐに番となれ。婚姻しろ。心などどうでも良い。これは国のためだ」
その言葉に、アスカの胸は締めつけられた。
自分は物にでもなったのだろうか。
心などいらぬと言い切るこの人は、リオールのことさえ道具としか見ていないのではないかと──。
「拒むなら、そなたの一族ごと国外追放とする」
唇を噛みしめたその時、リオールが現れた。
静かに──しかし毅然とした態度で国王と対話を交わした彼は、部屋を出る際、ほんの一瞬だけ悔しげな表情を浮かべた。
そんな彼は今、すぐそばで俯いて、額を手で覆っている。
「殿下……」
「──すまなかった」
静かに頭を下げたリオールに、アスカは慌てて駆け寄った。
「おやめください! どうして貴方が謝るんですか……!」
「陛下が、まさかここまで強引に出るとは……。怖かっただろう。家族は……無事か」
「……はい、きっと無事です」
「本当に、すまない。……そなたに会いたい気持ちばかりが募って、陛下の動向を見誤った」
痛ましい声に、アスカは小さく首を振った。
「殿下は悪くありません。……私も、決して会いたくないわけじゃなかったです」
リオールが目を見開く。
「ただ、私にはまだ気持ちの整理がついていなくて……すぐには返事をできません」
「……わかっている。私は待つ。だが──陛下は、それを許さない」
苦悩の表情を浮かべ、何か策はないかと思考を巡らせるリオールに、弟の姿を思い浮かべる。
笑顔で、何を気にすることも無く、ただ無邪気に生きている姿を。
同じ年であるのに、全くと言っていいほど二人は違う。
だからこそ、アスカは少しでも、リオールの心が楽になれば良いと思った。
「……では。伝えてください。番になるつもりで婚姻します、と」
「つもり……? ……陛下を騙す気か」
リオールの目が鋭くなる。
いくら陛下に対しての心労が募っていても、王族として、国王を冒涜するような行為は見逃せないのだろう。
「騙すだなんてそんなことはしません。未来のことは誰にもわからない。だから、そのつもりだと申し上げます。今この場を切り抜けるためにも、家族を守るためにも……」
「……屁理屈だな」
「それでも、守りたいものがあるんです。大切な人たちを、絶対に失いたくないから」
リオールは暫くアスカを見つめ、それから、そっと目を伏せた。
「……ありがとう。そなたを、必ず守ると約束しよう」
アスカの胸に、微かに温かい灯がともった気がした。
その後、アスカは一度だけ実家に戻ることを許された。
王都から少し離れたその小さな家には、騎士の護衛をつけて送り届けられ、戸口を叩くと、心配そうな面持ちで家族が次々に顔を覗かせる。
アスカの無事な姿を見た瞬間、皆の顔が安堵と戸惑いで歪んだ。
居間に腰を落ち着けると、アスカは静かに事情を話し始めた。
家族には隠しごとをしたくなかった。
なので、国王から突然命じられた婚姻のこと、相手が皇太子であること、そして──番になるつもりで受け入れたが、本当にそうなるかはまだ自分にもわからないこと。すべてを正直に語った。
両親は顔を見合わせ、絞り出すように言った。
「どうして……どうしてお前が、そんなことに巻き込まれなければならないんだい……」
その声には、怒りでもなく責める色でもなく、ただただ深い悲しみが滲んでいた。
それでもアスカは、不思議と救われたような気持ちになっていた。
自分はこの家族に、疑いもなく愛されている。それがひしひしと伝わってきて、だからこそ胸の奥が静かに温まった。
リオール様は、父である国王に、こんなふうに愛されてはいないのだろう。
気づいてしまったその事実は、胸に棘のように残る。
あの冷たい視線、息子の心を踏みにじるような振る舞い。
あれが親であるとは、どうしても思えなかった。
その晩、家族と過ごした時間はかけがえのないものだった。食卓には、アスカの好きな料理が並び、弟たちは普段以上にくっついて離れなかった。
父は何も言わずにアスカの背を撫で、ただ「気をつけて行っておいで」とだけ言ってくれた。
寂しさと嬉しさが綯い交ぜになり、涙が出そうになるのを何度も堪えた。
こんな日々が、少しでも長く続けばよかったのに。
しかし、朝になれば別れの時は容赦なくやってきた。
家の前に停められた立派な馬車が、アスカを再び王宮へと連れ戻す。
弟たちの手がアスカの服の裾を握りしめ、「行かないで」と言いたそうに口をぎゅっと結んでいた。母の目には涙が滲み、父は強く手を握ってきた。
名残惜しさに胸が締めつけられながらも、アスカはそれでも振り返らず、馬車へと足を進めた。
この試練を乗り越えることが、家族を守る唯一の方法だと思ったから。
王宮に戻るとリオールがどこか寂しげな表情を携えて迎え入れてくれた。
どうやらアスカがいない間に「婚姻する」と自ら国王に伝えたらしい。
リオールは「勝手にしろ、と仰られた」と、どこか痛ましげに笑った。
エーヴェル国の法律では、婚姻が認められるのは成人してからである。
もちろん、国王陛下がそれを知らないはずがない。知っていて、なお陛下はあのような強引な手段を取ったのだ。
戯れにも似た支配の行為はまるで、自分の力を見せつけることそのものが目的だったかのようにも感じる。
きっと、リオールもその意味を悟っていた。その上で、あの父に抗うことができなかったのだ。
幼い頃からの重たい圧力が、彼をそうさせているのだろう。
アスカは王宮の端にある宮で仮住まいすることとなった。
与えられた部屋は、実家とはまるで異なる世界だ。
広く、美しく、絢爛で──けれどその豪奢さは、むしろアスカにとって居心地の悪さを感じさせた。
高価な香油の香り、絹の寝具に、使い方も分からない道具。
すべてが「場違いだ」と無言で告げてくる。
控えていたのは、侍女として宛てがわれた清夏という若い女性だった。淡い灰色の瞳に感情の無い表情で、アスカのわずかな荷物を淡々と扱い、必要最低限の言葉しか発しない。
「ご用があれば、いつでもお申し付けくださいませ」
その声に、温もりはない。
形式的な挨拶だけを残して、再び黙り込むその姿に、アスカは無言の緊張感をひしひしと感じた。
──歓迎されては、いないな
新しい環境に敵か味方かもわからない人々。
誰にも頼れない孤独の中で、アスカはひとり、深く息を吸ったのだった。
その日からアスカは王宮に住まうものとして、礼儀作法を身につけるよう指導を受けることとなった。
王宮での作法に加え、言葉遣い、歩き方と姿勢、そして控えめな所作までもが、こと細かに指導される。
これまでは、ただ日々を生きるための常識さえあればよかった。誰に見られるわけでもなく、必要最小限の礼儀だけを守ってきた。
でも、ここは王宮。皇族と貴族がひしめき合い、上に立つ者ほど品位を求められる世界。
それを身に付けるには、呼吸の仕方さえ変えなければならなかった。
「オメガ殿、背筋が甘いです」
苛立ちを隠そうともしない声が、静まり返った部屋に響く。
「……すみません」
「申し訳ございません、です」
即座に訂正が入る。心のどこかで粗探しだ、と思っても反論はできない。
「……申し訳、ございません」
「はい。では、背筋を正して。首の位置はそのまま、肩に力を入れずに」
指導を担当するのは、礼儀作法指南役のヴェルデという女性だった。細身で背が高く、張りつめた空気を纏った彼女は、アスカのことをいつも『オメガ殿』と呼ぶ。まるで名前を知る価値もないとでも言いたげに。
「何度申せばご理解頂けますか」
「……申し訳ございません」
謝ることしかできない。けれど、その度に自分の言葉が空虚に思えて仕方がなかった。
「謝ることばかり上手になられても困ります」
「……」
言葉に詰まり、自然と視線が伏せられる。
胸の奥に重たい何かが沈んでいく。
これが、王宮での現実。
まだ指導は始まったばかりだ。
何も出来ない自分は、伸びしろしかないのだと自分に言い聞かせ、今は耐えるしかない。
けれど、ヴェルデの威圧感と嫌味たらしい言葉は、時に刃のように容赦がない。
「そもそも、平民がどうして皇太子殿下のお后様になれましょうか」
淡々とした口調でなのに、アスカの心に傷をつけるには十分だった。
そんなこと、わかっている。
わざわざ言われなくても、自分がどれほど場違いな存在か、痛いほど理解している。
平民の生まれで、教養も家柄もない自分が、どうして次の国王と並べるのか。
どう考えても釣り合うはずがない。きっとこの先もずっと、誰かに「分不相応だ」と囁かれ続ける。
それでも、アスカがここにいるのは──家族のためだ。
長い袖の内側、震える手を隠すようにして、アスカはそっと拳を握りしめた。
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