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第1章
第5話
しおりを挟むアスカが王宮にやって来て、すでに数日が経過していた。
その間、まるで狙ったかのようにリオールは連日の政務に追われていた。会う時間はおろか、文を交わすことすら難しく、もどかしい日々が続く。
王宮のどこかにアスカが確かにいる。それを知っていながら触れられない距離は、リオールにとってもどかしくて仕方がなかった。
我慢の限界だったのだろう。とうとうリオールは政務の合間を縫い、席を抜け出してアスカの仮住まいへと足を向ける。
「殿下、お願いです。ほんの一目だけですよ? 一目見たら、必ず政務にお戻りください」
陽春が慌てたように背後から声をかけるが、リオールは足を止めない。
「執拗いぞ、陽春」
ぶっきらぼうにそう言い捨てた声には、抑えきれない苛立ちと焦りが滲んでいた。陽春は不安を抱えながらも、黙ってその背に従うしかなかった。
仮住まいの一角に差し掛かった時だった。リオールの足が唐突に止まる。
「……?」
陽春が訝しんだ瞬間、リオールの顔が僅かに険しくなった。
声が、聞こえたのだ。
「あのオメガ、またヴェルデ様に叱られてたのよ」
「そりゃ仕方ないわよ。教養も何も無い平民でしょ? どうしてここに居るのかしらね。それに、皇太子殿下の后になろうなんて、身の程知らずにも程があるわ」
くすくすと笑い声まで混じるその会話に、従者たちが一斉に息を呑むのがわかった。
リオールの表情は、しかしまったく動かなかった。
だが、その沈黙の奥底に燃え上がる怒りを、陽春は誰よりも理解していた。
幼い頃から側に仕えてきたからこそわかる。彼の感情が、今、確実に沸点に達していることを。
リオールは無言のまま、ゆっくりと仮住まいの扉へ向かって歩を進めた。
リオールに気づいた侍女のひとりが振り返り、はっとしたように微笑んで恭しく一礼する。
「アスカは」
「はい、中にいらっしゃいます」
返ってきた声はどこまでも平坦で、まるで何も聞かれていないと信じ込んでいるかのようだった。
けれどその横で控えていた陽春は、背筋をひやりと冷たいものが撫でるのを感じていた。
──酷く、お怒りになられている。
感情を顔に出すことのないリオールの声が、微かに震えていた。その震えに気づけるのは、きっと自分くらいしかいない。
リオールは静かに、しかし足早に扉を開け、アスカの住まいの中へと足を踏み入れる。すると、そこには思わず目を細めたくなるような光景があった。
「いい加減になさい! 何度も繰り返しているでしょう!」
「っ、も、申し訳ございませんっ」
「これ程までに出来の悪い生徒は初めてです……やはり、平民だからかしら」
冷たい声が、容赦なくアスカの上に降りかかる。
叱責の言葉を浴びたアスカは肩を震わせ、視線を落としていた。その姿に、リオールの中の怒りが決壊しそうになる。
無意識に手が動きそうになった瞬間、陽春がすかさず前に立ち塞がった。
「殿下、どうかお心をお鎮めください」
「……できるわけがないだろう。そこを退け」
「承知しております。ですが……アスカ様の前では、お怒りのままのお姿を見せるべきではありません。きっと、怯えさせてしまいます」
陽春の額には、珍しく汗が滲んでいた。
リオールの持つアルファとしての威圧感は、普段は抑えられているが、一度感情が揺れれば誰もが畏怖を抱くほどの強烈なものだ。
ましてや、まだここでの生活に馴染めていないアスカの前では尚更だった。
リオールは静かに目を伏せ、ゆっくりと息を吐く。
そうだ。怒りに任せて動いてはならない。今の自分は『皇太子』なのだから。
リオールは一歩、足を踏み出した。
陽春がさっと道を空ける。その目は、不安と信頼が入り混じった複雑な色をしていた。
再び深呼吸をする。
「……何をしている」
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
室内に響いたのは、低く張った声。
怒鳴り声ではないのに、静かで重たい圧があった。
振り返ったヴェルデが、目を見開く。
アスカは思わず肩を震わせ、立ったまま硬直していた。
「殿下……っ、いらっしゃったのですか」
ヴェルデの声に取り繕うような笑みが混じるが、リオールは一切表情を変えず、彼女に近づいていく。
「教育の任は確かにお前に託した。しかし、侮辱を許した覚えはない」
「い、いえ、私はただ指導を──」
「『平民だからかしら』と? それが貴女の指導法か」
リオールの声に、室内の空気がさらに張り詰めた。
言葉自体は冷静で、穏やかですらあるのだが、その奥底には、隠せない怒りが宿っていた。
「身分を理由に人を見下す者が教える立場にあるとは思わない。……今日をもって、お前の任は解く」
息を呑んだヴェルデがなんとか反論しようとしたが、その一歩手前でリオールの視線に射抜かれ、唇を噤むしかなかった。
「……ご無礼を。失礼いたします」
一礼し、足早に部屋を出ていくヴェルデ。
残されたアスカは、長い袖の中で拳を握りしめたまま、小さく震えていた。
「アスカ」
リオールは、ふとその姿に目をやる。
下を向いたまま、何も言わず、ただ立っている彼。
アスカはその場にいた誰よりも、自身の『無力さ』を痛感していた。
「……よく、耐えたな」
リオールの声が、少しだけ和らいだ。
それは、アスカだけに向けられた声音で、皇太子ではなく、ただのリオールとしての言葉だった。
「そなたがここに居るのは、私が選んだからだ。誰にも、そなたを否定させるつもりはない」
その一言に、アスカの目が揺れる。
ただの慰めではない。甘やかしでも、情けでもない。
この場所にいていいと、たったひとり、リオールが言ってくれた──それが、どれほどアスカの心を救ったか。
アスカは小さく唇を噛みしめ、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
リオールはそれ以上は何も言わず、少しだけ視線を落とすと、静かに踵を返して部屋を出た。
リオールは執務室に戻ると、先程までの怒りをぶつけるように執務に励んだ。
それは陽春が心配になるくらいのものだ。
休む間もなく手と頭を動かし、夜になり軽く食事を取れば再び執務に戻る。
いよいよお休みになられないと、お体を壊しかねないと思い、陽春がリオールに声をかけようとした時。
執務室の扉が開き、アスカに付いている侍従──薄氷がやって来て、陽春に耳打ちをする。
陽春は少し顔色を明るくさせると、すぐにリオールの傍に寄った。
「殿下、アスカ様からご連絡が」
「……アスカが?」
その名前が聞こえると、机上から視線を上げる。
「はい。もしもお時間が許すなら、少し散策しませんかと」
リオールは心做しか顔色を明るくさせた。
「すぐ、すぐにアスカのもとに向かう」
「かしこまりました」
陽春は笑みを深くする。
久しぶりにリオールの明るい表情が見られたことがただ嬉しかったのだ。
リオールはすぐに身嗜みを整えると、陽春を見て「おかしくはないか?」と問い掛けた。
「ええ、全くもっておかしくなどありません」
「今日は少し肌寒いだろうか。庭を歩くならアスカに羽織を持っていくべきだろうか」
「その方がアスカ様もお喜びになるかもしれませんね」
「あとは……あとは、何が必要だろうか」
アスカがまるで何を必要とするのかがわからず、リオールは普段の姿からは想像できない程落ち着きがなくなっている。
「殿下」
「なんだ、何が要る」
「アスカ様は殿下が必要なのですよ。きっと今日のことがあって心寂しいのでしょう。お隣にそっと寄り添うだけでも、癒されるはずです」
「……そうだろうか」
ヴェルデからの指導と称した侮辱的な発言を、アスカは一人長いあいだ耐えていた。
早く気付くことも出来なかった自分が傍にいるだけで、彼の心を癒すことはできるのだろうか。
「ええ。きっとお傍にいてほしいからこそ、殿下を散策にお誘いになったのですよ」
陽春の柔らかい笑みに嘘偽りの色はない。
リオールはひとつ頷くと、一枚の羽織りだけを準備させて、アスカのもとに急いだ。
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