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第1章
第6話
しおりを挟む侮辱にも似た言葉をいくつも浴びせられる毎日。
何度も怒鳴られ、誰かがこぼす小さな咳払いにさえも肩を震わせている日々。
伸びしろがあると自身に言い聞かせていたアスカだが、早くも心が折れそうになっていた。
唯一頼れるはずのリオールも執務が忙しいようで会うことも叶わない。
この沈んだ気持ちを皇太子とはいえ年下である彼に打ち明けるつもりはないが、とはいえ自分の住まいには大抵愛想笑いひとつしない清夏と、時折顔を見せる薄氷しか居ない。
誰にも言えない暗くて重たいものが心にまるで雪のように積もっていく。
「──いい加減になさい! 何度も繰り返しているでしょう!」
大声で怒鳴るヴェルデに、アスカは冷や汗をかいた。
何度も繰り返している。それは分かっているのだが、これまで礼儀作法の勉強などをしたことがなかったアスカからすると、難しいことが多い。
「っ、も、申し訳ございませんっ」
口癖のようになった謝罪は、やはり何よりも上手くなった気がする。
ヴェルデは怒鳴り声に反応して震えだした手を袖の中に隠した。
「これ程までに出来の悪い生徒は初めてです……やはり、平民だからかしら」
しかし、ヴェルデのその発言はアスカの心を傷付けるのには十分だった。
視界がじんわりと滲む。
泣くな、泣いては負けたことになる。そう思い俯いて唇を噛んだ。
「──何をしている」
その場の空気が、一瞬で変わった。
室内に響いたのは、聞き覚えのある声のはず。だがしかし、それはいつもよりも低く、重みがあった。
肌が粟立つ。
そこに立っているのはリオールのはずなのに、まるで違う人物かのように見える。
恐怖で体が固まり、動けない。
呼吸の仕方も忘れたかのように上手く息が吸えずにいると、リオールの側仕えの陽春と目が合った。
彼はアスカを安心させるように小さく頷き、そこで漸く息が吸えた。
リオールがヴェルデと話をしているが、頭に入ってこない。
いつから、見て、聞いていたのだろう。
情けない姿を見られてしまった。
こんな自分では、呆れられてしまう。
この孤独な場所で、唯一の味方を失いそうだ。
様々な恐怖に、無意識のうちに拳を握りしめる。
「アスカ」
名前を呼ばれ、体が小さく跳ねた。
何を言われるだろうか。
緊張と不安で手の震えが止まらない。
「──よく、耐えたな」
リオールの声が、少しだけ穏やかになる。
それに気がついたアスカは遂に泣きそうになって、それでもグッと目に力を入れて耐えた。
「そなたがここに居るのは、私が選んだからだ。誰にも、そなたを否定させるつもりはない」
けれど、いよいよ涙が溢れていく。
リオールから渡された言葉は、アスカの暗くて重たくなった心に光を与えるものであった。
アスカは小さく唇を噛みしめ、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
リオールはそれ以上は何も言わずに、静かに部屋を出ていった。
いつの間にかヴェルデも居なくなっており、心細さに「清夏」と小さく侍女の名前を呼ぶ。
すると現れたのは薄氷だった。
「清夏は席を外しております。如何なさいましたか」
思っていた人物とは違い、アスカは少し戸惑った。
というのも、薄氷とは数回しか話したことがない。その上、いつも能面のような表情をしていて、清夏以上に何を考えているのかが分からないからだ。
「……わ、私は、どうすれば良いのでしょうか」
それでも、やはりアスカは困っていた。
指導者が居なくなった今、アスカにはできることが無い。
「特にございません」
「……」
そうはっきりと言われてしまい、顔を曇らせた。
ここには存在意義がないように思えてしまう。
「……。アスカ様は、何かしてみたいことはございませんか」
そんなアスカに手を差し伸べるかのように、薄氷は問い掛けた。
「してみたいこと……?」
「はい。王宮に来られてから、お住まいの外に出たことは無いのではありませんか」
「……無い、です」
「それでは、どこかに散策に向かいますか?」
「……」
それには少し興味がそそられた。
ずっと住まいに篭もりっぱなしで、王宮の様子をあまり知らない。
けれど、こんなにも見下される平民が、堂々と王宮内を歩くのも憚られてしまう。
「……私のような者が、王宮内を歩いていたら、皆嫌な気分になると思いませんか」
「……私はそのようには思いません」
「そう、でしょうか……」
ヴェルデだけではなく、色々なところで平民という事を馬鹿にしている声があるのを知っている。
ヴェルデに叱られるアスカをクスクスと笑う声もこれまで何度か聞こえていた。
全くと言っていいほど、自信が無いのだ。
なぜなら彼らの言うことを理解できてしまうからである。
皇太子殿下に釣り合うような人間ではないということを。
「アスカ様」
「っ、……はい」
薄氷は諭すようにゆっくりと言葉を紡いでいく。
「もしも、アスカ様の御前で貴方様を笑う者が居たのなら、私が責任を持って、その者を排除しましょう」
「……え?」
「ですから、ご安心ください。──それでももし、アスカ様が不安だと仰るのであれば──皇太子殿下をお誘いするのは如何でしょう」
アスカは思わず目を見張り、表情を変えることなく、けれど大胆なことを言う薄氷を見つめた。
「それも、陽が沈んでからであれば、それほど周りの目も気にならないでしょう」
「……それは、殿下を盾のように使うということにはなりませんか……?」
「その通りでございます」
「! そ、それは、よろしくないのでしょう」
薄氷から大胆な発言が止まらない。
リオールを盾にするなど……けれど、そんな言葉が少しだけ救いに思えてしまった
しかし、アスカはやはり誰にも聞かれていないか気が気では無く、この話をやめようとしたのだが。
「何を仰いますか。貴方様は殿下のお后様となられるお方でしょう。確かにそのようなお方は、時に殿下の盾になり剣にならなければいけません。ですが、お心が弱っている時は殿下に盾になってもらわなくては」
「っ……」
アスカは薄氷の言葉に何も言えなくなる。
『もっと殿下に頼っていい』と言われているような気がした。
薄氷の言葉にそっと背中を押され、アスカは今夜──リオールを散策に誘ってみることを決めた。
決意を胸に、夜を待つまでの時間を静かに過ごす。
部屋に置かれていた本に目を通しながらも、内容はあまり頭に入ってこなかった。
陽が傾き始めると、食事をとり、薄氷がいつものように無表情で身支度を手伝い始める。
その表情に変化はないが、どこか丁寧さが増しているように感じて、アスカは小さく息を吐いた。
「そういえば、清夏さんはどこかにお出掛けしてるんでしょうか」
いつも居る彼女がいないのは気になっていた。
「清夏のことはお気になさらず。明日には戻って参ります」
「そうですか……」
あまり詮索しない方がいいのだろうと、アスカは薄氷の言葉を素直に受け入れ、口をつぐんだ。
薄氷はアスカの身なりを今一度丁寧に整えると、「では、先に殿下にお伝えして参ります」と静かに告げて部屋を後にする。
一人になると、胸のあたりがそわそわとして落ち着かず、椅子に腰かけていることもできずに、部屋の中をうろうろと歩き回る。
リオールがこの誘いに応えてくれるかはわからない。
忙しいことは十分にわかっているので、断られてもおかしくはない。
そう思い込もうとしても、自然と両手を揉みながら時間をやり過ごしてしまう。
そんな中、部屋の向こうから足音が近づき、やがて薄氷が戻ってきて、恭しく頭を下げた。
「殿下がお越しになるようです」
「っ! ほ、本当ですか……?」
「はい。外でお待ちしましょう」
まさか、忙しいのにも関わらず、こんなことのために時間を割いてくれるとは思っていなかった。
驚きと嬉しさが混じって、思わず笑みがこぼれる。
この時アスカは『久しぶりに笑ったかも』と自身の頬を両手で押さえた。
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