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第1章
第7話
しおりを挟む住まいの前でアスカは緊張しながら待っていた。
傍に控える薄氷はいつも通りだが、その他の従者もどこか落ち着きがないように見える。
「……薄氷さん」
「はい」
「……あの、殿下に対して、してはいけないことはありますか」
「……。私共とアスカ様は違います」
「それは──」
アスカが続けて薄氷に質問をしようとした時、「皇太子殿下がお越しになりました」と侍女の声が聞こえた。
振り返れば、少し息が上がった様子のリオールがそこに居て、アスカは慌てて一礼する。
「──アスカ」
鼓膜を揺らす声はどこまでも穏やかで、無意識に張っていた気が解けていくような感覚に、ホッと息を吐く。
「殿下」
「……そなたから誘ってもらえるとは思ってもみなかった。さあ、行こう」
手を差し出され、驚き少し身を引いた。
それでもリオールは待っている。アスカが自ら手を重ねてくれるのを。
「よ、よろしいの、ですか」
「不思議な質問だな。何がいけないんだ」
「……」
「さあ、手を」
優しい声に導かれ、アスカはそっと手を重ねた。
そのまま、足を踏み入れたことのない庭に案内される。
そこでは側仕え達も皆離れた場所で待機していて、アスカとリオールだけの空間になる。
「アスカ」
「はい、殿下」
「……。今は二人きりだ。殿下などと呼ぶな。私の名前を忘れたわけではないだろう」
「ぁ……で、ですが」
アスカには苦い思い出がある。
ヴェルデに指導を受け始めた時のこと。
誤って殿下のことを名前で呼んでしまったのだ。
その途端ヴェルデは血相を変えて、「平民が皇太子殿下の御名前を口にするなんて……!」とアスカを叱ったのだ。
「御名前は、呼べません。怒られてしまいます」
「……誰に?」
「ヴェルデ様に」
アスカは目を伏せ、視界に入った繋がれたままの手を見つめる。
本当はこうして触れることさえ簡単にできるようなお方では無いのに。
「アスカ、良いことを教えてやろう」
「……なんでしょう」
「この私より尊い御人は、この国に一人しかいない」
「え?」
「つまり、国王陛下だ。国王陛下が私の名を呼ぶなとアスカを叱ったのなら、それは仕方がないが……。そうではないだろう。私が良いと言うのだ。だから──名前を呼んでくれ」
どこか寂しそうな子供のようだった。
アスカはキュッとつないだ手に力を込める。
「り、リオール様」
緊張と恥ずかしさに声が震えた。
訓練の時にも呼んだことのある名前のはずなのに、今はより特別なものに思える。
けれどリオールからの反応が無く、アスカは少し不安に感じながら顔を上げた。
「っ!」
「っ、み、見ないでくれ……」
するとそこには、顔を真っ赤に染めているリオールの姿があって、アスカもつられるように顔が熱くなっていく。
「まさか、こんなに恥ずかしくて嬉しいものだとは思っていなかった。ただ、名前を呼ばれただけなのに」
口元を片手で覆い隠したリオールに、アスカは視線を忙しなく動かした。
恥ずかしかったこともあるのだが、リオールの些細な事にでも喜んでくれるところに『可愛い』という感情が膨らんでいって、けれど皇太子に対してそんなふうに思うのはよろしくないと、感情を抑えようとしている。
「アスカ。私は初めて、名前というものの尊さを知ったよ」
しかしまさか、そんな感想を告げられるとも思わず、思わず口をついて出てしまった。
「っ、リオール様、あまりそう言ったことを言われてしまうと、恥ずかしいです。それに……」
「それに?」
「……とても、可愛らしく、思います」
アスカは頬の熱さに、手を繋いでいないもう片方の手で冷やすように頬を押さえる。
フッと、小さくリオールが笑うのがわかった。
怒られないかと不安ではあったが、その笑みに負の感情は含まれていないように聞こえる。
「私に『可愛らしい』と言うのは、そなただけだぞ」
「……も、申し訳ございません」
リオールの表情を読めず、不安がよぎってアスカは思わず謝ってしまった。
しかし、繋いでいた手を強く引かれ、不可抗力でリオールの胸に飛び込んでしまう。
「わっ!」
「怒ってなどいない。そなただけは特別だ。私を『可愛らしい』と思うことを許そう」
そっと背中に手が回される。
アスカは突然のことに驚いて目を見張り、そのまま固まってしまった。
こういう時はどうするべきなのだろうか。
アスカは彼の背中に触れたいのに、それが正しいのかわからず、宙に浮かせた手を震わせた。
「──すまなかった」
「……え?」
唐突にリオールに謝罪されたことで、思考が止まる。
何に対して謝られているのか全くと言って分からなかったからだ。
「リオール様……?」
「……」
名前を呼んでも、返事はなかった。
不安になってその表情を確かめたくても、抱きしめられたままでは顔を見ることができない。
沈黙が落ちる。
やがて風が吹き抜け、草木がさわさわと揺れた。
「──そなたが、あんな目に遭っていたことに気付けなかった」
リオールのこんな声は初めて聞いた。
アスカは彼の腕の中で静かに言葉を聞く。
「執務が忙しかっただなんて、ただの言い訳だ。番になりたいと思っている相手を、こんなにも放置して、知らぬ間に傷つけられてしまっていた。悔やんでも悔やみきれない」
「リオール様……」
背中に回された腕の力が、じわりと強くなる。
リオールは心の底から悔いているのだと、アスカにも伝わってきた。
けれど──それは、リオールが謝るようなことではない。
むしろ謝るべきなのは、自分の方ではないかと、アスカは思っていた。
「リオール様は、何も悪くないのです。それよりもきっと、私の至らなさに、貴方を失望させてばかりでしょう」
「! 何を言うか! そのように思ったことはただの一度も無い!」
そっと抱擁が解かれ、代わりに肩を掴まれる。
交わった視線の先には、真剣さと、わずかな怒りを湛えながらも、どこか温かさを宿した瞳があった。
「ですが、私のせいで、いつかリオール様に余計なご心労をおかけしてしまうかもしれません。私は、貴方の──お荷物になってしまう」
「それでいい。それの何が悪い。日々努力を重ねているそなたに、私が失望するなど有り得ん」
「……」
その一言一言に込められた熱が、アスカの心を大きく揺らす。
「私が……私がアスカをここへ連れてきた。巻き込んだのは私のほうだ。それなのに、そなたは何も言わず、耐えて、ここに居てくれている。──だから、頼む。そんなことは二度と口にしないでくれ」
再び強く抱きしめられ、アスカは戸惑いのまま身を預けることしかできなかった。
──どうして。
どうして、彼はここまで自分を庇ってくれるのだろう。
番になりたいと望まれていることは知っている。
けれど──それだけで、こんなにも深く守ろうとしてくれるものなのだろうか。
「リオール様は……私に、番になってほしいと仰いましたね」
「ああ、そうだ」
「……それは、なぜですか。それに……どうして、ここまで私を庇ってくださるのです」
アスカにとって、この状況は家族を守るために選んだ手段でしかない。
リオールが好きだから宮廷に来たわけではない自分には、彼の心の在り処がどうしても掴めないままだった。
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