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第2章
第3話
しおりを挟む翌朝。リオールは、どこか気の抜けた様子で机に向かっていた。
陽春が何か話しかけても、うわの空で返事をしない。
彼の意識は、まだ昨夜の出来事に囚われていた。
初めて愛しい人──アスカと口付けを交わした夜。
ほんのわずかな接触だったのに、胸の奥にはまだ、アスカの温もりが確かに残っている。
目を閉じれば、あの柔らかな唇の感触がすぐに甦るのだ。
照れたように見上げてきた瞳、鼓動が伝わるほど近づいた距離──思い出すたびに、自然と口元が緩んでしまう。
どこか欲しがるような瞳も、震えるような吐息も。
どれも、忘れられない。
まるで夢を見ていたかのようで。
こんなにも、幸せな朝は初めてだった。
──それなのに、
ほんの数刻後、すべてが崩れ落ちた。
「──殿下ッ!」
扉が荒々しく開かれ、駆け込んできたのは、側仕えの寒露だった。
陽春の次に長く仕える男で、常に穏やかで冷静なはずの彼が、今は血の気の引いた顔で息を切らしている。
乱れた衣服、忙しなく動く目。
その異様な様子に、陽春が思わず眉を寄せる。
「寒露? 一体──」
「アスカ様に、毒が……っ、毒が盛られた模様です……!」
リオールは、凍りついた。
ガタッ──
椅子を弾き飛ばすように立ち上がったその瞬間、世界の音が遠ざかっていく感覚があった。
寒露の声はもう、耳に届いていない。
ただ、アスカという名と『毒』という言葉が、脳内で何度も反響する。
「……毒とは、どういうことだっ」
声を発する代わりに、陽春が問いただす。
その怒気に寒露が震えながら答えた。
「っ……朝餉に何かを混ぜられたようで……詳細は、まだ分かりません! 医務官が急いで向かいましたが……!」
「っ、殿下っ!」
陽春に呼ばれ、リオールはようやく自分の呼吸を思い出すように、深く息を吸った。
──落ち着け。
今は『皇太子』であれ。
冷静に、的確に、すべてを見極めなければ。
けれど、胸の奥で荒れ狂う感情はどうしようもなかった。
拳を握る手が震える。怒りと恐怖が入り混じり、理性が吹き飛びそうになる。
傷つけられた。
たった昨夜、唇を重ねたばかりの、愛しい人が。
「──アスカのもとへ」
唸るような低い声でそう言い放つ。
拳には力が入りすぎて白くなり、爪が手のひらに食い込むほどだった。
□
扉を開け放つと、すぐに薬草と薬剤の混じった匂いが鼻を突いた。
寝台には、蒼白な顔で横たわるアスカの姿がある。
部屋に響くのは、アスカのかすかなうわ言と、薬瓶の触れ合う音だけだった。
誰もが言葉を呑み込み、ただ事態の深刻さに肩を落としている。
希望よりも、焦りと不安が濃く、静かに空気を支配していた。
医務官が必死の形相で処置を続けている。
額には玉のような汗をかいていて、アスカの口元に何かを注ぐと、呼吸を確かめ、また別の瓶を取り出す。
「容態は──!」
思わず声を荒げると、医務官が顔を上げて一礼し、早口で説明を始めた。
「殿下、おいでくださってありがとうございます。……毒の種類は不明ですが、喉の炎症が酷く、発見が遅れていれば──命の保証はできなかったかと……」
「っ……」
リオールは思わず、胸の奥が締めつけられるような痛みに顔を手で覆う。
「幸いにも摂取量が少なかったこと、そして早期に対処できたことで、最悪の事態は免れました。ただ……しばらくは熱が続くでしょう。回復には時間が必要です」
薬を飲まされたアスカは、微かに眉を寄せてうなされている。
その細い喉がかすかに上下し、何かを言いたげに唇が動いているが、言葉にはならない。
「ああ……アスカ……」
そばに寄り、手を握る。
白い肌がさらに血色をなくしていた。
「アスカの体力は、保つのか……? こんなにも細い体が、そう何日も熱に耐えられるのか……?」
思えば、この体に、どれほどの重荷を背負わせていただろうか。
己が選んだはずの未来で、最も大切な者を、こんな目に遭わせている。
どうして、こんなことが起きている。
どうして自分は、それを止められなかった。
後悔は何度も押し寄せ、より大きくなっていく。
「……アスカ様の気力を信じる他、ありません……」
医務官は項垂れるようにそう言う。
部屋の隅では清夏と薄氷が悔しそうに唇を噛み締めていた。
「……そなたたち、何も気づかなかったのか……?」
リオールはふたりに向かい、淡々と問いかける。
二人は床に平伏し、後悔に満ちた声を絞り出した。
「っ! 申し訳、ございません……っ!」
「……」
わかっている。
彼らは悪くない。
気付けなかったのはリオールも同じだ。
「──すまない。そなたたちも、悔やんでいるというのに」
「っ、申し訳ございません……っ」
──昨夜、あれほど柔らかく微笑んでいた顔が、今は苦悶に歪んでいる。
「アスカ……」
リオールはそっと、アスカの頬を撫でる。
その温もりは、たしかにそこにある。
けれど、こんなにも儚く、心許ないものだっただろうか。
「私が、守ると……誓ったのに」
掠れるような声で、リオールは誰にも届かない呟きを落とす。
アスカが王宮へ来ると決まった日に、約束したではないか。
誰よりも傍にいたいと思った人を、傷つけさせてしまった。
──もう、甘い夢に浸っている余裕などない。
『皇太子』して、『次期国王』として。
すべての敵意に、正面から立ち向かわねばならない。
リオールはゆっくりと立ち上がった。
その瞳に宿っていた後悔は、今は跡形もない。
代わりにあるのは、揺るがぬ決意と、鋭い冷たさだけだった。
「……陽春、寒露に、薄氷。犯人を洗い出す。手を貸せ」
唐突な指示に、彼らは一瞬驚いたように目を見開く。
だがすぐに小さく頷いた。
「御意」
陽春と寒露は静かに頭を下げる。
続いて、薄氷は現状を報告した。
「すでに厨房の者たちには拘束を指示しております。……ですが、毒物の入手経路まではまだ──」
「それも追え。記録、流通、過去に類似の事件がなかったか。何もかも洗い出せ」
「かしこまりました。すぐに動きます」
リオールは頷き、アスカをじ……っと見下ろす。
「清夏は、アスカの傍を離れるな。どんな小さな異変も見逃さないように」
「かしこまりました」
本当はそばに居たい。
けれど、戦わねばならない。
リオールは一度、深く息を吐くと、踵を返して部屋を出たのだった。
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