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第2章
第4話
しおりを挟む──何が起きたのか、分からなかった。
いつも通りの朝。鳥のさえずりで目を覚ます。
まだ少し眠たい。
それは昨夜、リオールと初めて口付けを交わしたせいである。
恥ずかしさと、心地良さの入り交じった感情が五月蝿くて、眠ることも困難で、すこし夜更かしをしてしまった。
「──おはようございます、アスカ様。朝餉の支度をいたします」
「清夏さん。おはようございます。よろしくお願いします」
いつも通り、丁寧に挨拶をするアスカに、清夏はほんのりと微笑む。
表情の乏しかった彼女は、アスカという優しい人物のおかげで、少しずつ氷が解けていくように固まっていた表情がわかりやすくなってきた。
清夏と薄氷に手伝って貰いながら着替えを済ませ、運ばれてきた御膳の前に腰を下ろす。
「アスカ様、本日のご予定についてですが──」
薄氷の言葉に耳を傾けながら、あたたかい汁物を手に取り一口飲み込んだ。
「……っ!」
喉の奥が焼け付くように痛む。視界の端が滲み、黒い影がじわりと広がっていく。
舌先が痺れ、上手く声が出せなくなる。
震えた手から杯を落とし、太腿に広がる熱さに驚くが、それどころではなくて。
──何が起きた……?
「ゲホッ、っは、ヒュッ……!」
「! アスカ様!」
アスカは喉を押さえ、ゆっくりと床に倒れる。
声を出したいのに、上手く発声できない。
「医務官をっ! 早くッ!」
「アスカ様ッ! ああ、なんてことだ……っ!」
叫ぶような清夏の声。
体を摩り、名前を呼んでくれる薄氷。
喧騒の最中にいるのに、それが遠のいていく感覚。
あまりにも怖くて、薄氷の服を掴むが、意識が混濁していくばかり。
「アスカ様っ!」
名前を呼ぶ声が小さくなっていく。
まぶたを、持ち上げられない。
□
──暗い
どこまでも、底が見えない闇に沈んでいく感覚。
触れるものはなく、足元も、身体の輪郭さえも曖昧だった。
自分がどこにいるのか、何をしていたのかもわからない。
ただ、重く、深く、冷たい何かに押し潰されていく。
音もない。光もない。
まるで世界に、自分だけが取り残されたような孤独感がそこにはある。
……何かが、あったはずなのに。
名前を呼ばれた気がする。誰かが傍にいた気がする。
けれど思い出せない。指の先にすら、何も感じられない。
『死』という言葉が、形になって迫ってくる。
その気配が、確かにここにはあった。
寒い。苦しい。怖い──。
どうしてこんなにも、寂しいんだろう。
どうしてこんなにも、泣きたくなるんだろう。
体は動かないのに、心だけが、必死に何かを求めていた。
誰か、誰か、お願い──。
ここから、連れ出して──
──そのときだった。
『……アスカ』
誰かの声がした。
優しくて、懐かしくて、深く胸に届く声。
『……アスカ、お願いだ。目を覚ましてくれ……っ』
その声は、胸の奥を静かに震わせた。
冷たい海に沈んでいた心が、かすかに浮上する。
この声を、知っている。忘れるはずがない。
──リオール。
遠く、何かが触れた。
あたたかい。優しい。
手を、包まれている。
『頼む……』
強く、自分を呼んでくれる。
震えていた心が、すこしずつ、温まっていく。
痛みも、苦しさもあるのに、不思議と心地良くて。
ただ、生きたいと思った。
リオールの声が、手が、あまりにも優しくて、温かい。
──ああ、リオール様……大丈夫です。私はここにいます……
けれど、声は出ない。
まぶたは重たく、何度呼ばれても、目を開けられない。
それでも、
──お願い、もう少し。
その手を、離さないで。
涙がツーっと、目尻を伝い零れた。
□
事件発生から三日目の夜。
アスカは熱にうなされ、未だ目を覚まさない。
犯人を捕まえようと、あの日の厨房の者たちを拘束し、リオール自ら尋問をしたが、疑わしい人物はいなかった。
「殿下、一度お休みになられてください」
「……これが、休んでいられるか……」
あれから、リオールは一度も休んでいない。
時間が経てば経つほど、証拠が消されていくのではないかと、心ばかりが焦ってしまい休むどころではないのだ。
「ですがっ、このままでは、殿下までもが倒れてしまいます……!」
陽春の悲痛な声。けれどそれも響かない。
大切な人を失いかけている。
まだ番にはなっていなくとも、リオールにとってアスカは唯一のオメガだ。
アルファにとって、オメガを失うことは自らの命を失うのと同じ。
誰にも計り知れない恐怖が、いつもついて回っている感覚。
「……すまぬ、陽春。私は、どうしても──」
「……でしたら、今夜は、アスカ様のもとへ向かいませんか……?」
「……」
そして、事件以来、アスカのもとに顔を出すこともなかった。
あの穏やかな顔が、苦悶に歪んでいるのを、もう見たくなかった。
再び目を開けないままの姿を、見つめ続ける勇気が、自分にはなかったのだ。
失うかもしれないという恐怖に、心が折れてしまうのではないかと、不安で。
「アスカ様は、きっと、お待ちです。殿下が手を取り、お名前を呼んでくださるのを」
「……」
「……きっと、深い夢を見ているのです。だからこそ──殿下の声で、帰る場所を思い出していただかなければ」
陽春の声は、優しかった。だがその裏に、祈りにも似た願いが滲んでいた。
そばで聞いていた薄氷と寒露も一度頷く。
彼らもほとんど休む時間も無しに、働いてくれている。
目の下に作ったクマが、年齢よりも年老いて見せた。
「わかった。アスカを、呼びに行こう」
「! ええ、すぐに、向かいましょう」
陽春の言葉に背中を押され、リオールは不安な思いを抑え込み、前を向いて歩いた。
相変わらず、アスカは寝台に上で苦しそうに眠っていた。
医務官によると、少し熱は下がったものの、やはりまだ高く、時折水を飲ませようとするのだが、あまり上手くいかないらしい。
「……アスカ」
名前を呼び、そっと手を握る。
白い手は、しかし熱く、リオールは胸を痛めた。
やはり、このまま失ってしまうのではないかという恐怖が大きく、手が細かく震えてしまう。
触れ合えない、遠い所に行ってしまったら──そんな最も恐れることを想像して、あまりにも苦しい。
いつ、目を覚ましてくれるだろうか。
いつになれは、声を聞けるだろう。
「……アスカ、お願いだ。目を覚ましてくれ……っ」
アスカの手を、額に当てる。
祈りが少しでも届くように、何度も繰り返し名前を呼ぶ。
ピクっと、僅かにアスカの手が震えた気がして、声は届いているのだろうかと、わずかだが希望が見えてくる。
「頼む……」
ぎゅっと、強く手を握る。
離れたくない。離したくない。
どこにも行かずに、ここに居てくれ。
そんな祈りを込めていると、アスカの閉じられた目から一筋の涙が零れた。
「ぁ……」
喉が震え、胸の奥が熱くなる。
その一滴が、どれほどの苦しみと、どれほどの想いを孕んでいるのか。
想像するだけで、胸が張り裂けそうだった。
目を覚ませ、なんて傲慢な願いかもしれない。
それでも、生きていてほしい。
傍に、いてほしい。ただ、それだけだった。
静かな部屋に突然「あっ」と清夏の驚くような声が響いた。
何事か、と俯きがちだった顔を上げる。
「──っ! アスカ!」
薄らと、アスカの目が開いていた。
しかし、意識は朦朧としているようで、名前を呼ぶが反応が薄い。
「──殿下、失礼します」
医務官はすぐさまアスカの顔を覗き込み、何度か声をかける。
リオールは少し距離をとり、決して医務官の邪魔にはならないように徹した。
「アスカ様、私の声が聞こえますか。聞こえておられましたら、一度、瞬きをしてください」
ゆっくりとアスカは目を閉じて、再び開いた。
リオールはぐっと涙しそうになるのを堪え、強く拳を握る。
「何があったか、覚えておりますか。覚えておられましたら、また、もう一度、瞬きをしてください」
「……」
少し時間が開けて、閉じられた目。
医務官は頷くと、リオールに向き直る。
「一先ず、峠は越えました」
「っ、」
ワッ、と従者たちの声が上がる。
陽春に寒露、清夏に薄氷も、涙を流すほど喜んでいる。
「アスカ様、お水です。少しずつお飲みください」
匙にすくった水を、医務官がアスカの口元に持っていく。
途端、アスカは大きく身体を震わせた。
顔を見れば、ひどく怯えているのが分かり、リオールはハッとする。
毒を飲んで苦しんだアスカは、何かを『飲む』という行為が、怖いのではないか。
「──アスカ、飲むのが怖いのか……?」
「……っ、」
泣きそうに歪んだ顔を見て、リオールは思わず唇を噛み締めた。
「これは、ただの水だ。怖いのなら、まずは私が飲もう」
「ゃ……」
小さく拒否する声。
リオールは眉を八の字にすると、そっとアスカの頬を撫でる。
「だが、水分を取らねば」
「……」
アスカの目から、ポロリと零れる涙。
リオールはそれを指先で拭うと、医務官から匙を預かる。
「私の手からであれば、飲んでくれるか……?」
アスカの睫毛が、ふるふると震えた。
一度、ゆっくりとまぶたを閉じる。
その瞬きが、どんな返事よりも雄弁に、リオールの胸を満たした。
リオールはそっと、匙に水をすくい直す。
その手は驚くほど静かで、丁寧で、まるでガラス細工を扱うかのようだ。
「……ありがとう。飲もう、ゆっくりでいい」
震える唇に、慎重に水を運ぶ。
アスカの喉がかすかに動いた。
それだけのことに、涙が出そうになるなんて。
ひと匙ひと匙を丁寧に運び、医務官が頷いたのを確認した。
「まだ、飲めるか?」
「……」
微かに、首が横に振られ、リオールは匙を医務官に返す。
ひと段落着き、アスカが目を覚ましたことで、俄然早く犯人を捕まえねばと怒りが湧いてくる。
アスカはまた、医務官、そして清夏に任せ、再び調査を再開しようと、立ち上がろうとしたリオールだったがしかし、わずかな違和感を覚え、不意に視線を下げた。
「……」
「っ、」
リオールの服を、キュッと掴んでいるアスカの姿が目に入った。
まだ熱に浮かされているアスカの、少し赤くなった目元。
じっと見つめられると、まるで『行かないで』と言われているようだった。
リオールは調査に戻るのをやめ、服を掴んでいたアスカの手を取る。
小さなその手は、まだ熱を帯びていて、力も弱々しかった。
けれど、そのか細い力は確かに、リオールを引き止めていた。
「──そうだな。今日は、ここにいる。ずっと、傍に」
言葉とともに、アスカの指先が微かに震えた気がした。
安堵か、涙か、もしくはどちらもか。
リオールはアスカの隣に腰を下ろし、その手を包み込むように握る。
まるで、『もう大丈夫だ』と伝えるかのように。
窓の外では、月が光り輝いている。
それは──二人にとって、ひとつの救いの光のようだった。
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