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第2章
第5話
しおりを挟む「喉を痛めているので、暫くはいつものように声を出すことは難しいでしょう」
アスカが目を覚ました日の翌朝。
体を起こした彼の熱はすでに引いていたが、喉元に触れたその指がわずかに震えていた。声を出そうとして、出ないことに気づいたのだろう。困惑と不安が入り混じった表情を見せる。
そんなアスカに、医師は静かにそう告げた。
昨夜からずっと手を繋いだままでいたリオールは、寝台の傍で不安に顔を曇らせる彼に向かって、ふっと微笑む。
その笑みは穏やかで、静かで、まるですべてを包み込むようだった。
アスカの瞳がふるりと揺れ、少しだけ唇が緩む。張り詰めていた空気が、ほんの少しほどけた気がした。
「音が鳴るものを持ってこさせよう。何かあれば、それで合図を出してくれればいい。それから、紙と筆も。そうすれば会話ができる。だから、癒えるまで、ほんの少しの辛抱だ」
「……」
一度、小さく頷いたアスカが、繋がれたままの手に視線を落とす。
その手が、そっとリオールの手の甲を撫でた。
「……どうした?」
「……」
うるんだ瞳が、まっすぐに見上げてくる。
どこか縋るようで、どこか熱を帯びていて──まるで「触れてほしい」と訴えかけているかのようだった。
リオールは、思わず息を飲む。
不謹慎だと分かっていても、そんな視線を向けられれば、思ってしまう。
──口付けがしたい、と。
「……何か、ほしいのか?」
「……っぁ、」
「無理に声を出さなくていい。紙に書いてくれるか?」
胸の内に生まれた欲望を押し殺しながら、リオールは陽春を呼ぼうと手を動かしかけた、その時。
「っ!」
「んっ……」
ぐい、と胸元を引かれる。
瞬く間に距離が詰まり、次の瞬間、柔らかな感触が唇に触れた。
目を閉じる暇もない、ほんの一瞬の口付け。
離れた後、視界に映ったのは、真っ赤に染まったアスカの顔だった。
「……く、ちづけが、したかったのか」
「っ、」
恥じらうように、小さく頷く。
リオールは小さく笑い、そっと額に唇を落とした。
「嬉しい。でも……無理はしないでくれ。癒えてからでも、遅くはない」
「……」
「そんな顔をするな。治ったら……いくらでも」
アスカは恥ずかしさと喜びが入り混じったように頬を緩めたが、次の瞬間、はっとしたように目を見張った。
そして、リオールの胸元に視線を落とす。
引き寄せた際にできた皺を、申し訳なさそうに何度も撫で始めた。
「……このくらい、構わない。大丈夫。安心しなさい」
けれど、アスカは明らかにしょんぼりしてしまい、表情を曇らせる。
その姿がいじらしくて、リオールはそっと彼の頬に口づけた。
ぱちりと目を瞬いたアスカは、自分の頬に手を当て──目を細める。
その表情はどこまでも穏やかで、どこまでも嬉しそうだった。
□
リオールたちは、アスカが倒れて以来、厨房や料理人を徹底的に調べていた。
しかし「当日不審な動きはなかった」という結果しか得られず、捜査は難航している。
なので、一度は拘束された彼らも、証拠不十分で解放され、疑惑は薄れていった。
皇太宮に戻り、証言と記録帳簿を照らし合わせるも、これといって怪しい点は見当たらなかった。
「やはり、料理そのものではなく、素材や調味料に注目すべきではありませんか……?」
そう訴える陽春に、薄氷と寒露は眉を寄せる。
「しかし、この納品書に怪しい部分はありません。おかしな食材も、業者も……」
リオールは、並べられた帳簿をじっと眺めながら、あの日アスカに出された食事に使われた材料を今一度確認していく。
「──確か、汁物を飲んで、様子がおかしくなったのだったな……?」
「左様でございます」
「……その中身は?」
薄氷は厨房係の者に書かせた材料表を手に取り、ひとつひとつ読み上げる。
「──以上です」
「……薄氷、そなたは、アスカが倒れた時、床に散らばっていたそれらを見たはず。今、読み上げたもの以外に、何か怪しいものは入っていなかったか」
「何か……」
薄氷は記憶を巡らせたが、これといってピンとくるものはなかった。
「それであれば、やはり、汁そのものに毒が含まれていたと考えるべきか……」
「しかし、厨房では、料理人自らが必ず味付けの確認を行っております」
「では──厨房側から毒が盛られた可能性は低いな。材料も、調理工程も問題なし。ならば……配膳の段階で何かがあったと考えるべきか」
リオールの言葉に、侍従の三人は顔を見合わせる。
「……配膳係に、不審な者が紛れていた可能性もございます」
「尋問時に名前の記録を取っておりますので、確認してみましょう」
陽春は、多数の資料の中から、名前が記された用紙を取り出した。
「──小春、という若い女だそうです」
その名を口にしたとたん、リオールは静かに頷いた。
「すぐに連れて参れ」
「承知しました」
薄氷が駆け出す。
誰も一刻も無駄にできないと、必死で手がかりを掴もうとしていた。
しかし──待てど暮らせど、薄氷は戻ってこなかった。
小春の名が記録されている以上、すぐに姿を現すはず。
しかし、時が経つにつれ、胸の奥にじわじわと嫌な予感が広がっていく。
リオールが椅子を押し、立ち上がろうとしたその時──。
廊下の奥から、足音が駆けてくる。
現れたのは、息を切らした薄氷だった。
その顔にはいつになく影が差し、肩を上下させながら、深く頭を下げた。リオールと目を合わせようとはしない。
「──申し訳ございません……! 小春と名乗っていた者の姿が、どこにも見当たりませんでした……!」
リオールは静かに目を細める。
「姿が……ないだと?」
「はい。二日ほど前から、彼女を見ていないと証言する者がほとんどで……まるで、最初から存在していなかったかのようです」
薄氷の拳が、静かに震える。
その報告に、誰もが答えを悟った。小春──その女こそが、毒を盛った張本人だ。
リオールは短く舌を鳴らす。
「小春とは、私が直接、尋問を行いました。それなのに……私は、完全に騙されていた。口調も立ち居振る舞いも、配膳係として違和感のないもので……私は、すべてを見落としていたのです……!」
絞り出すような声に、悔しさが滲んでいた。
薄氷という男が、ここまで自分を責めるのは珍しい。
「……配膳係として振る舞う術を、徹底して学んだ上で潜り込んだとすれば、よほどの覚悟を持った者だったということだ。そなた一人の責任ではない」
それでも、彼の目は伏せられたままだった。
薄氷のアスカへの忠誠心が、こんな状況でも嬉しく思える。
「責任ではなく、無念なのです……見抜けなかった自分が、ただ……悔しい」
「その悔しさは、必ず今後の糧となるだろう」
リオールの声は低く、だが確かだった。
その言葉に、薄氷は小さく頷く。
「──今より、人事記録と出入り記録を洗い出します。所属先、入宮した日、過去の移動記録……残っている限りすべてを」
「それでいい。記録係にも伝えろ。名簿の写しを取り寄せ、痕跡が残っていないか徹底的に調べる。偽名である可能性も含めてな」
「承知しました」
もう迷いはないとばかりに、薄氷は踵を返す。
リオールはその背を静かに見送った。
──リオールが出した記録照会の命は、すぐに各部署へと伝わった。
膨大な名簿と日誌が開かれ、人事と出入りの記録が次々に洗い出される。
命を受けた書記たちは無言で動き、ペンの走る音が書庫の隅々に響いていた。
しかし、それとほぼ同時に、まったく別の、予想だにしていなかった場所から報せが舞い込む。
「──皇太子殿下。国王陛下より、伝言でございます」
顔を見せたのは、王直属の近衛兵だった。
身なりは整えられ、所作は凛と研ぎ澄まされていた。
その姿だけで、ただの使者ではないことがわかり、室内に微かな緊張が走る。
「……陛下から、だと?」
リオールの声がわずかに低く落ちた。
「はい。『小春と名乗る女について、既に拘束を済ませている』と──」
その一言に、空気が凍った。
陽春が思わず息を呑み、視線をさまよわせる。
だがリオールは、何も言わず、ただ静かに視線だけで続きを促す。
「女は、二日前の深夜。通用門から外へ出ようとしたところを、王直属の私兵が捕らえました。
──陛下の命により、裏門の監視を強化していたとのことです」
……まさか。
こちらが小春の痕跡を探し始めたよりも早く。
王はすでに、女の逃亡を察知し、手を打っていた。
誰よりも先に、静かに、完璧に。
王の圧倒的な先手が、これほどまでに鮮やかだったとは──。
──陛下は……いつから、この件にお気付きに……?
リオールの脳裏を、冷たい霧のような疑念が這う。
まさか、アスカが倒れたあの日から?
あるいは、それよりもずっと前から──もしかすると、女が仕込まれた段階で、すでに……?
考えれば考えるほど、背筋が冷える。
王は、すべてを見ていたのか。
我々が動き出すことも、記録を洗うことも。
──すべて、承知の上で黙していたのではないか。
それほどまでに、あの方は……。
リオールは、じわりと手に汗をにじませながら、ゆっくりと目を伏せた。
……これが、『王』か
隙のない采配。
目に見えぬところに張り巡らされた情報網。
そして、なによりの力。
小春のようなただの女官すら見逃さず、誰にも気取られずに、正確に、確実に手を打つ。
無駄なく、容赦なく。
己の器の違いを、まざまざと見せつけられた気がした。
「──私は、やはり、陛下の足元にも及ばぬな」
「殿下……っ」
「……おおよそ、小春はただの手先に過ぎぬ。きっと陛下は、後ろで糸を引いている人物までも──既にお分かりになられていることだろう」
ハッと、乾いた嘲笑が漏れた。
陽春は、初めて見た気がした。
完璧であるはずの皇太子が、自らの無力に呻く姿を。
──しかし。
リオールは、目を伏せたまま、静かに思う。
いずれ、陛下に匹敵するだけの力を持たなければならない。
どんな迷いも、弱さも、今この場で置いていく。
誰よりも大切な人を、もう二度と傷つけさせないために。
──だが、それでもなお、引っかかる。
「……なぜ、陛下はそのようにお動きになられたのだ。これまでは、アスカと私のことなど、それほど気にかけておられなかったはずだ」
「そこまでの言伝は預かっておりません。──どうか、ご自身でご確認ください」
近衛兵の目には、無色透明の静けさが宿っていた。
その瞳は、どれほどの命令を受け、いくつの闇を潜ってきたのだろう。
何も告げず、何も揺らさず、彼は一礼だけを残して、静かに踵を返した。
その背を、誰も引き止めることはなかった。
リオールは、陽春に視線をやる。
一度だけ頷いた彼は、すぐに国王陛下に取り次ぐため、使いを走らせた。
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