あなたの番になれたなら

ノガケ雛

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第3章

第9話

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 薄氷の案内で、アスカは厨房から少し離れた静かな部屋に移された。
 背を預けた寝椅子は柔らかく、包み込まれるような感触がした。
 それでも吐き気の余韻は残っており、額にはまだ微かな汗が浮かんでいる。
 さきほどよりは落ち着いたものの、全身が重く、少し息苦しさすらあった。


 リオールはその傍を離れることなく、静かに寄り添っている。
 握ったアスカの手は冷たく、細かく震えていた。リオールはその手を包み込むように両手で包み、時折、優しく親指を動かす。


「王妃様、少々失礼いたします」


 やがて医務官が膝をつき、低く落ち着いた声で体調の問診を始めた。
 アスカは、少し考えるように目を伏せながら、弱々しく答える。


「……食事はあまり……空腹ではあるのに、何も喉を通らなくて……」
「最近、夜はよくお眠りになれていますか?」
「……眠れます。むしろ、ずっと眠たくて、起きていても、ぼんやりしてしまって」


 医務官は頷きながら、ひとつひとつ丁寧に聞き取っていく。
 匂いに敏感になっていること、ここ数日の疲れ、朝方の吐き気──
 言葉にしているうちに、アスカの中にあったぼんやりとした違和感が、だんだんと形を帯びていく。
 同じような状態の母親を、見たことがあるような気がして。


「では、お腹の方を少し診させていただきますね」


 アスカは小さくうなずき、隣のリオールの方を少しだけ見た。
 そこには心配そうに見守る、穏やかな瞳がある。


「……大丈夫だ。ここにいる」


 リオールはそう言って、アスカの手を握ったまま、もう片方の手でその髪を優しく撫でた。
 その指先の温もりが、どこか心細かった胸の奥を、ほんの少しだけ溶かしていく。

 アスカはそっと目を伏せ、小さく息を吐いた。

 医務官は静かに腹部の触診を進めながら、やがてふと、わずかに眉を寄せる。
 その動きに、リオールの瞳が鋭く動いた。


「……どうした」


 一拍の沈黙の後、医務官は慎重に、言葉を選ぶように口を開いた。


「……すぐに断定はできません。ですが、王妃様のご様子──特に匂いへの反応、食欲と睡眠の変化、そして今朝の吐き気などから考えますと……」


 そこで医務官の視線がアスカへと向かう。
 アスカは戸惑いの色を浮かべながら、目を逸らすことができなかった。


「念のため、後日あらためて詳しい診察を受けていただいた方がよろしいかと存じます。おそらく……ご懐妊の兆候があるかと」
「……!」


 空気が一瞬で変わった。
 リオールの瞳が大きく揺れ、アスカは息を飲んだまま動けずにいた。
 視線を落とすと、自分の手がわずかに震えているのがわかった。

 それは、恐れか、驚きか、喜びか──まだ自分でも分からない。


「ですが、確定ではありません。まずは、しっかりとお休みになってください」
「……はい……」


 アスカの返事はか細かったが、その声は震えていた。
 新たな命の可能性に対する、純粋な驚きと……まだ整理のつかない感情の波の中にいるようだ。


 部屋の空気は、静かに、確実に、変わっていた。



 医務官が退室し、側仕え達も一度部屋を出ていく。
 ふたりきりになったアスカとリオールは、何も言えないままどこか夢を見ているような感覚だった。


「アスカ、明日の炊き出しだが──」
「出ます。ちゃんと、最後までやり遂げます」
「なっ──いけない。それは、許可できない」


 子どもが出来たかもしれない。それに対してはもちろん、純粋に嬉しいのだが、二人は国を背負うものとしての責任がある。
 まずは明日のこと。国民のためを思う心を、忘れてはいけない。
 アスカは嬉しさと、悔しさが綯い交ぜになった心を、リオールにぶつける。


「わ、私が始めたことを、私がやり遂げないなんて……そんなのは、あんまりです……っ」
「しかし、子がここにいるのなら、私はそなたに無理をさせたくない」
「っ、陛下、お願いです……」
「……どうしてそう、頑ななのだ。子が、いるかもしれないのだぞ。そなたが明日行おうと思っていたことは、夫である私が代わりに引き受ける。だから──」
「嫌、です」


 リオールの言葉を遮る。
 アスカの目には涙の膜が張っていた。


「私が頑な……? ──ええ、認めましょう。頑なになっています。だって……私が王妃になって、初めての仕事、なのですよ……?」


 途中で放棄するような、そんな王妃だと思われたくない。
 炊き出しは誰かにとっては些細なことかもしれないが、アスカにとっては違う。


「あの子供を、街で倒れていた子供を、救いたい」
「……」
「どうか……私の我儘を、叶えてください」


 リオールは、言葉を失ったままアスカを見つめる。
 涙を滲ませたその瞳には、確かな意志が宿っていた。
 簡単には引き下がらない強さ。
 だがそれは、決して自己満足などではない──誰かのために、何かを為したいという、純粋な心の叫びだった。


「……アスカ」


 呼びかける声は、さっきまでよりも少しだけ柔らかい。


「分かった。……明日、そなたがどうしても行くというのなら、行くがいい」
「──っ」
「だが、それには条件がある」


 アスカが目を伏せかけた瞬間、リオールはその手を再び握り、静かに続けた。


「無理はしないこと。少しでも具合が悪くなったら、必ず休むと約束すること。……そして、私も一緒に行く」


 その言葉に、アスカはゆっくりと顔を上げる。


「え……?」
「夫として、そなたを守る責任がある。……王としてではなく、明日は王妃の補佐として動こう」


 真剣な眼差しでそう言ったリオールの表情に、アスカの胸がじんわりとあたたかくなる。


「……ありがとう、ございます」


 ぎゅっと、リオールの手を握り返す。
 涙はまだ乾かないけれど、アスカの瞳には小さな決意が宿っていた。


 
 夜も更け、後宮の一室には、静かな灯りがひとつだけ灯っていた。
 寝台に並んで座るアスカとリオールは、まだ言葉を交わしている。
 窓の外では風が草木を揺らしている。


「……明日、無理はしないと、約束してくれ」


 そっとアスカの手を握りながら、リオールがもう一度、真っ直ぐに言った。
 何度も言った言葉。それでも、言わずにいられないのだ。
 アスカの体が、今までとは違う何かを宿しているかもしれないという事実に、彼の心は穏やかではなかった。


「……はい。約束します」


 アスカも、静かに応じる。
 けれどその声には、少しだけ迷いが滲んでいた。
 それを感じ取ったリオールは、手をぎゅっと握る。


「怖いか?」


 その問いに、アスカは少し目を伏せた。


「……少し。……嬉しいのも事実です。ですが、すぐに……本当に、私にできるのかって。不安が押し寄せてきて」


 その言葉は、リオールの胸にも深く響く。
 アスカの震えは、体ではなく、心から来るものだ。


「子どもだったら、王妃になってすぐの……あの、発情期のときだろうか……」
「たぶん、そうだと思います。……男性のオメガに子ができるのは、発情期の時だけだと、聞いたことがありますので……」



 アスカは静かに目を伏せて、不安な心を隠すことなくリオールにさらけだした。


「ですが、何の準備も、できてません……。子どものために、何をしてあげればいいのかも、これから何に気をつけないといけないのかもわからない……」


 命が宿ることの重みを、初めて真正面から突きつけられて、ただただ戸惑ってしまう。


「……それなら、ふたりで知っていけばいい」


 リオールは、アスカの手の甲にそっと唇を当てた。


「私たちは、国を背負う立場でもある。でも、それ以前に──夫夫だ。そなたの不安は、私の不安でもある。だから、一緒に、親になっていけばいい。そうだろう?」
 

 その言葉に、アスカの胸がふっとゆるんだ。
 涙がまた浮かびそうになるのを、そっと瞬きでごまかす。


「……ありがとうございます」
「ありがとうだなんて……。私の大事な人が、私の子を宿しているかもしれないんだ。私が支えずにどうする」


 そう言って、リオールはアスカの額に、そっとキスを落とした。
 静かな夜は、そのままふたりを包み込む。
 新しい命を迎える準備は、まだ始まったばかりだ。

 
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